説    教  エレミヤ書33章10〜11節  ヨハネ福音書3章22〜30節

「洗礼者ヨハネ」

2015・11・01(説教15431613)  英国の宗教詩人テニスン(Alfred Tennyson)の詩に「河口をよぎりつ」(Crossing the Bar)という題の詩 があります。三谷隆正がこのソネットを美しい言葉で訳しています。「日落ちて星輝けば/われを呼ぶ声す、 ほがらかに。(Sunset and evening star, And one clear call for me!)/ああ、河ぐちの悲しみをなみ/す べり出でましおおうみに。…… たそがれて鐘はひびきぬ/やがて日も暮れはてぬべし/願わくは嘆きなく わかれて/出でて去なまし。/よしや時と所とをあとに/わがゆくて遥けかるとも/水先を導く君に/い でてまみえんとこそたのめ。(I hope to see my Pilot face to face. When I have crost the bar.)」。  私たち人間の心にある最大の問いは、私たちの人生が究極にはどこから出て、どこにに向かっているの かという問いです。「人はどこから来て、どこに行く存在なのか」。太古の昔から変わらぬこの難問の前に は必ず罪と死の問題が立ちはだかっています。それをテニスンは波静かな入江から大海原に漕ぎ出でる一 艘の舟に準えるのです。それは私たちの人生の姿そのものです。「たそがれて鐘はひびきぬ/やがて日もく れはてぬべし/願わくはなげきなく別れて/出でて去なまし」。そこでこそテニスンはこう歌います「よし や時と所とをあとに/わがゆくて遥けかるとも/水先を導く君に/いでてまみえんとこそたのめ」。「ほが らかに、われを呼ぶ声」(And one clear call for me.)が聴こえるのです。それは「恐れるな。われ汝と共に あり。われ汝の罪を贖えり」という御声です。その御声のみが「水先を導く」唯一の主の御声です。主イ エス・キリストの御声です。キリストに贖われてのみ私たちは「わがゆくてはるけかりとも/水先を導く 君に/いでてまみえんとこそたのめ」る人生、真に幸いな自由と希望の人生を歩むことができるのです。 それは「キリストが主であられる人生」の幸いです。  かつてわが国にも来て教えたエーミル・ブルンナーという神学者が「私たちはキリストを主としないか ぎり、人間の数だけ主が存在する世界に生きるほかはない」と語りました。キリストが「主」であられな い世界は、人間の数だけ「主」が存在する混沌(カオス)の世界なのです。人間一人びとりが「自分こそ 主である」と主張し、同じように主張する他の人間に対立し裁き争う混乱の世界であるほかないのです。 そしてその全ての小さな「主」を統括している力が「罪」と「死」です。人間はみずからの主であろうと して実は「罪」と「死」を主としている逆さまな存在です。自由を求めつつ死の奴隷となってしまう存在 なのです。そのような人間存在にまつわる根本的な矛盾を断ち切って、私たちの歩みを「希望の港」へと 導くかたは罪の贖い主イエス・キリスト以外にありません。  今朝の御言葉でバプテスマのヨハネが証しているのは、まさしくこの唯一の主イエス・キリストの絶大 な贖いの恵みです。ヨハネは最後の預言者として生涯をかけて十字架の主キリストのみを指し示しました。 だからヨハネの姿は教会の使命そのものです。その意味でバプテスマのヨハネは最後の預言者であると同 時に最初のキリスト者でした。今朝の御言葉に記されている事柄の発端となったのは、あるとき「きよめ のこと」で「ひとりのユダヤ人」とヨハネの弟子たちとの間で「争論が起った」ことです。そこで弟子た ちがヨハネのもとに来て申しますには「先生、ごらん下さい。ヨルダン川の向こうであなたと一緒にいた ことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、 そのかたのところへ出かけています」と告げたわけです。そのときヨハネが答えて申しますには「人は天 から与えられなければ、何ものも受けることはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先 につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である」と答えました。  これはたいへん意味深い言葉です。ヨハネの弟子たちからすれば、自分たちの師匠ヨハネから洗礼を受 けたナザレのイエスが、師匠ヨハネより多くの人々を惹きつけているのが気になって仕方がない。どっち が師匠かわからないではないか。これは黙っておれないというわけで「先生、あのイエスのすることを放 っておいて良いのですか?」と訊ねたわけです。それが今朝の26節です。それに対してヨハネは「人は 天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」と弟子たちの短慮軽率を戒めました。主イエ スの御業と御言葉は「天から与えられた」ものを「受けて」現しておられるのであってその行いは神の御 業である。それより私はあなたがたに「私はキリストではない」とはっきり言ったはずではないか。それ を「あかししてくれるのは、あなたがた自身である」のに、あなたがたはキリストではなく私を祭り上げ ようとしている。そこにあなたがたの罪があるとヨハネは弟子たちを叱責したのです。  ヨハネは更に29節以下にこう申しました。「花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を 聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。彼は必ず栄え、わたしは衰える」。ここにヨハネの信仰の真骨頂が現れ ています。ここで「花嫁」とはイスラエルの民ひいては全ての人々をさしています。花嫁を娶るのが一人 の花婿であるのと同じように、この世界の唯一の主はイエス・キリストのみであるとヨハネは言うのです。 ではヨハネは何かと申しますと、ヨハネはその花婿の「友人」にすぎないと言うのです。この「友人」と は「仲人」です。ユダヤでは花婿の友人が仲人を務めました。仲人は花婿と花嫁を取持つ仲介役にすぎま せん。仲人は結婚が無事成立したのを見届けて「喜ぶ」ために存在します。それが「花婿の友人は立って 彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」とあることです。そこにヨハネが荒野に遣わされた理由があ りました。「荒野に主の道を備える」ためです。全ての人々をキリストへと導くためです。この世界に唯一 の「主」なるキリストを紹介することがヨハネの使命なのです。  それは同時に、たちの教会に委ねられている福音宣教の使命ではないでしょうか。福音を宣べ伝えると はキリストのみを宣べ伝えることです。キリストのみを宣べ伝えるとは「キリストについて」の講話をす ることではなく、この世に対していま生きて救いの御業をなしておられるキリストを全ての人に紹介する ことです。その意味で教会はキリストとこの世との「仲人」です。仲人は世界と教会の唯一の「主」に仕 える務めです。教会はキリストのみを唯一の「主」と紹介することによって世界に対して歴史そのものの 救いと希望と自由を宣べ伝えるのです。まさに今朝の御言葉に描かれたヨハネの姿そのものです。それゆ え教会は今朝の御言葉に告げられているように「立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」群れ です。だからこの「立って」とはキリストに仕える者の喜びの姿勢です。私たちは教会にただ客として招 かれているのではありません。キリストに仕え御言葉に養われ、唯一の主の祝福の内に喜んで立ち上がる ために招かれているのです。それこそテニスンの「水先の導きなる君」の御声に従うために来ているので す。それこそ礼拝者の姿です。私たちは「彼(すなわちキリスト)の声を聞き、その声を聞いて大いに喜 ぶ」者たちなのです。だから牧師は御言葉の説教に生命をかけます。聴く者も自分に対する神の言葉とし てそれを聴きます。御言葉にあずかることはキリストにあずかることです。説教の務めはキリストの救い の御業を世に宣べ伝えることです。だから説教は宗教講話ではありません。いわゆる「今日はいいお話を 聞いた」という世界であってはならないのです。かつて関西に伝道したヘールという宣教師がいました。 このヘール宣教師いわく「嘘をつかずみんな仲良く暮らしましょう、というような話は教会の説教ではな い」。人間の根本部分の病である罪を癒したもうかたはただイエス・キリストのみです。私たちのために十 字架への道を歩まれ、全人類の罪の重荷を一身に担って死んで下さったイエス・キリストのみが「水先の 導きなる君」として死の大波をも越えしめて下さるのです。  バプテスマのヨハネの生涯を見るとき、同時に私たちは、そこに人々の不信仰と無理解を見るのです。 そもそも私たち人間は自分に都合の良いことしか聞こうとはしないのです。いわゆる「耳に心地良い」言 葉を求めるのが人間です。しかしヨハネは決して妥協しませんでした。「良薬口に苦し」と申します。重症 の患者を前にいい加減な治療をして済ますのは真の医者ではありません。難しい病気に立ち向かいこれを 癒してこそはじめて名医の名に値します。それと同じようにヨハネも「罪」によって魂の死に瀕し神から 離れた人類に対して「罪の赦しを得させる悔改めのバプテスマ」のみを施し「世の罪を取り除く神の小羊」 なるキリストのみを宣べ伝えたのです。  私たちはいつの日にも変わることなくこの礼拝者・キリスト者の姿勢において健やかな群れであり続け たいものです。今朝あわせて拝読したエレミヤ書33章10節以下、特に12節と13節にこのように告げら れています。「万軍の主はこう言われる、荒れて、人もおらず獣もいないこの所と、そのすべての町々に再 びその群れを伏させる牧者のすまいがあるようになる。山地の町々と、平地の町々と、ネゲブの町々と、 ベニヤミンの地、エルサレムの周囲と、ユダの町々で、群れは再びそれを数える者の手の下を通りすぎる と主は言われる」。イスラエルの羊飼いは羊を愛してその一頭一頭を名をもって呼びます。夕方になり羊の 群れを柵に入れる時刻になると、羊飼はまた羊の名を呼び、広げた手の下を潜らせて安全な柵の中に入れ るのです。それこそ主イエスが言われたように「わたしの羊はわたしを知り、また、わたしの声を聞き分 ける」光景そのままです。群れの中におらず羊飼のもとにいない羊は夜の間に死んでしまいます。だから 羊飼は命がけで羊の名を呼ぶのです。  そこでこそ預言者エレミヤは語るのです。今日の私たちの世界は「罪」によってあたかも養う者のない 羊の群れのような憐れな寄る辺なき状態ではないか。しかしその私たちの世界に真の救い主なるイエス・ キリストが来臨された。だからその全地のあらゆる所で「群れは再びそれを数える者の手の下を通りすぎ る」のです。ひとつの群れ一人の羊飼となって罪と死の支配は終わりを告げるのです。その確かな救いの 約束がまさにイエス・キリストの十字架において私たちのただ中に成就した。その喜びを宣べ伝えている のです。まさしく私たちを極みまでも愛し、ご自身の生命を注ぎ尽くして下さったキリストの御手におい てこそ「わがゆくてはるけかるとも/水先を導く君に/いでてまみえんとこそたのめ」る者の幸いが、生 にも死にも私たちの人生全体の幸いとなる。そこでこそ私たちは「人間はどこから来て、どこに向かう存 在なのか」この太古からの根源的な問いに唯一の答えを見出し得るのです。  私たちは、生きるにも死ぬにも、私たちの真実なる贖い主イエス・キリストのものであることです。「イ エス・キリストにおける神の愛」からいかなる力も私たちを引き離すことはできないのです。私たちはこ の「主」の御名を讃美します。バプテスマのヨハネのように。キリストの絶大な恵みと祝福を証しつつ、 私たちの教会は信仰の志に生きる群れであり続けましょう。そして神は全ての人を、この群れの中へと招 いておられるのです。