説     教    詩篇130篇1〜8節  ヨハネ福音書8章1〜11節

「 罪の赦しを信ず 」

2015・3・08(説教15101580)  ヨハネによる福音書8章1節以下の御言葉には、主イエス・キリストと、罪の審きの場に引き出され た一人の女性が登場します。エルサレムの群衆が見ている前で、律法学者やパリサイ人らによって容赦 なく審きの場に引き出された女性は、名前もわかりませんし、どういう境遇の人であったか、または、 どういう状況で罪ありとされたのかも不明です。ただ僅かに知られることは、彼女がおそらくエルサレ ムの市民であったということと、今朝の4節でパリサイ人らが言うように「姦淫をしている時につかま えられた女」であったということです。つまりこの女性は匿名の人物なのです。私たちは「匿名」と聞 きますと、自分の責任を曖昧にすることだと思っています。しかし聖書では逆でありまして、匿名であ ることはそれを聴く私たち自身の名をそこに当てはめて読むように促されていることなのです。責任を 曖昧にすることではなく、むしろ神の前での責任を明確にすることなのです。つまり「罪の審きの場」 に引き出されるべきは、ほかならぬ私たち自身であるということです。  そこで、律法学者やパリサイ人らが主イエスに対して投げかけた問いは、まことに巧妙かつ狡猾な罠 でした。「姦淫の罪」(現行犯)で捕まえられた者は、モーセの律法によれば男も女も同様に「石で打ち 殺されねばならない」とある。そこで「あなたは、どう思いますか」と彼らは問うたのでした。もしこ こで主イエスが「いや、そんな可哀想なことをしてはならない」と言えば、神聖な律法に叛いたという 咎で、主イエスをこの女性と共に石打ちの刑に処することができるのです。またもし逆に、主イエスが 「そのとおりである。石打ちの刑にしなさい」と言ったなら、そのとき主イエスに従って来ていた民衆 は主イエスに失望し、主イエスは社会的に失脚するでしょう。いずれにしても、彼らは主イエスを葬り 去ることができたのです。将棋に譬えるなら「完全に詰んでいる」のです。主イエスに残された言葉は 「参りました」のひと言だけです。そういう巧妙無双の罠を、彼らは主イエスに仕掛けたのでした。  ところが、彼らの問いに対する主イエスの反応は、意外なものでした。彼らが「答えろ、答えろ」と 問い続ける間じゅう、主イエスは「身をかがめて」地面に指で何かを書いておられた。無視されたと感 じたパリサイ人らはますます激高して、執拗に「答えろ」と主イエスに詰め寄ります。そこで主イエス はおもむろに身を起こされて彼らに言われますには「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石 を投げつけるがよい」と、こうお答えになった。そしてまた再び身をかがめて、地面にものを書き続け られたのでした。これは律法学者・パリサイ人らの意表を突く答えでした。彼らはそれまで、その瞬間 まで、「罪」というものは自分の外側にあるものだと考えていました。いつも自分を正しい人間の側に(安 全圏に)置いて、自分の外側にいる人間を糾弾し審いていたのです。「パリサイ」(分離された者)とい う言葉がそれを現しています。彼らは、自分たちは罪から分離された、清らかな正しい人間であると自 称していました。それに引き換え、この女は罪にまみれた、汚らわしい、忌み嫌うべき、存在する価値 のない人間である。そのように彼らは声高に叫んでいたわけです。ところが、その彼らの激昂する心に、 主イエスの御言葉が、あたかも天からの閃光のごとくに与えられました。「あなたがたの中で罪のない者 が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。この言葉によって、彼らははじめて自分の外側にではなく、 自分の内側に「罪」を問われました。それは生ける聖なる神に対する「罪」です。眠っていた(麻痺し ていた)彼らの良心は、そこではじめて、朝日に照らされたかのごとくに覚醒し、魂の迷妄に聖霊の息 吹を吹き入れられて、御言葉の光に自分の姿を照らし出されたのでした。  最初に石を投げ捨てたのは「年長の」パリサイ人でした。人間にとって一旦「振り上げた拳を収める こと」ほど難しいことはありません。しかしさすがは「年長の」パリサイ人は違いました。年上の先輩 が石を投げ捨てたのを見て、他の(若手の)パリサイ人たちも石を投げ捨てて、つまり聖書にあるよう に、彼らは「年長の者から順に」手にしていた石を投げ捨てて、その場から立ち去っていったのです。 そしてついには、主イエスとこの女性の2人だけが残されました。やがて主イエスは身を起こされて、 この女性にお訊ねになります。「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。彼 女は主にお答えします「主よ、だれもございません」と。そして今朝の御言葉の最後のくだりを見ます と、主イエスによって次のような宣言がなされています。「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。 今後はもう罪を犯さないように」。  さて、私たちが今朝の御言葉を読むとき、もっとも陥りやすい誤りは、この出来事を単なるひとつの 「赦しの物語」として読むことです。人間には赦しが大切である。「ならぬ堪忍するが堪忍」である。そ れをして下さるかたこそイエス・キリストである。それは一面において真実でしょうけれども、しかし それだけでは、今日の御言葉は単なる社会倫理の教えになってしまいます。「人生において最も大切なも の、それは赦しである」という道徳訓になってしまうのです。あるいは、こういう解釈もできるでしょ う。この赦しは「主イエスが当事者でなかったからできたのだ」という解釈です。主イエスは直接に関 係のない部外者だったから彼女の罪を赦せたのだ、という理解です。もし犯罪の被害者がいたとして、 私たちはその被害者に対して簡単に「赦しなさい」と言えるであろうか。答えはおそらく「否」であり、 むしろ刑罰こそ正当化されるでしょう。では、本当にそうなのでしょうか?。主イエスはここで、無責 任なことを語っておられるのでしょうか?。部外者だから安易な赦しを語られたのでしょうか?。    そうではないと思います。そのようなことではないのです。私たちは何よりも11節の言葉に注目し なくてはなりません。それは「主よ、だれもございません」と答えたこの女性の言葉です。この女性の この言葉と、その次に記された主イエスの「赦しの宣言」との間には、大きな断絶があるのではないで しょうか?。その断絶とは何かと申しますと、この女性自身も、実は彼女を審こうとしていた律法学者・ パリサイ人らと全く同じ罪をおかしていたということです。それは罪を相対化して、神に対して自分を 正当化する自己義認の「罪」です。使徒パウロやルターの語る「自己を神と等しくせんとする罪」です。 そしてそれこそ、私たち人間の最も根ぶかく、しぶとい罪なのではないでしょうか?。そもそも、この 女性はどういう思いで「主よ、だれもございません」と語ったのでしょうか。それまで、死刑の宣告を 受けていた彼女です。顔面蒼白、死人のように動かなかった彼女です。その彼女の顔に、みるみる生気 が甦った瞬間があったとすれば、それは彼女が恐る恐る目を上げて、自分の周りにもう「誰もいない」 とわかった、その瞬間ではなかったでしょうか。そして彼女は思ったことでしょう。ああ、自分はもう 審かれずに済むのだ。あの偽善者面をした、冷酷無慈悲な律法学者たちに、石で打ち殺されずに済むの だ。そう感じたとき、彼女の脳裏に改めて、彼らの理不尽な仕打ちに対する憤りが湧き起こってきたの ではないでしょうか。それこそ「ざまあ見ろ」という思いです。偽善者面したあの連中も、結局は自分 にも罪があることを認めたではないか。その証拠に誰一人として、ここに残ってはいないではないか。 たちまち彼女の顔は勝ち誇った喜びに輝き、急いで主イエスのほうを振り向いて言ったのです。「主よ、 だれもございません」と。  しかし、その時でした。まさにその時でした。彼女は改めて知らされ、愕然としたのです。主イエス と目が合ったその瞬間、彼女はようやく気がついたのです。わかったのです。麻痺していた彼女の良心 が目覚めたのです。何に気が付いたのでしょうか。それは「このかた(主イエス)こそ、私に石を投げ ることのできる唯一のかたである」という事実です。他に誰もいなくても「このかた(主イエス)だけ は、私を石で打つことができる」という自覚です。この事実に気がついたとき、ようやく彼女の眠って いた魂が目覚めたのです。そして心の底から畏れを感じたのです。「罪」の本当の問題は、ただ人間どう しの横の問題だけでは済まないのです。それは本質的には、聖なる神の御前における問題なのです。「罪」 を相対的な横の問題として、つまり倫理道徳の問題として取り扱っているかぎりは、決して「罪」の問 題は解決されえないのです。それは絶対的な問題、すなわち、生ける神の御前における問題だからです。 絶対的な問題ですから、それはただ絶対者なる神のみが解決できる問題なのです。私たちの手には負え ない問題なのです。そのことが、ようやく彼女にわかったのです。それが、先ほど申しました「大きな 断絶」です。罪の問題を神の御手に委ねようとせず、いつも自分で始末をつけようとする(自分を義と しようとする)私たちは、自分を「罰する者」が「誰もいなかった」という事実だけで勝ち誇ってしま う愚かな存在なのです。いつだって「どんぐりの背比べ」になるのです。この断絶は、私たちの力では 決して解決できません。落ちてゆく自分を自分では止めることができないのと同じように、自己義認の 罪に陥る私たちは自分の力ではどうにもなりません。それを受け止めて下さるかたがなければ、私たち はどこまでも果てしなく落ちてゆくだけです。パウロの言う「ああわれ悩める人なるかな」は、人類共 通の悲痛な魂の叫びなのです。  まさにそこでこそ、その果てしなく落ちてゆくほかはない私たちの全存在を、主イエス・キリストの みが、ご自分の生命をもって、あの十字架の贖いをもって、受け止めて下さったのです。誰ひとりとし て贖いえない私たちの罪の重みを、主イエスのみがことごとく受け止めて下さるのです。この救いの福 音を、今朝のこの女性は、勝ち誇った思いを打ち砕かれて、主イエスを信ずる「悔改め」において受け 止めました。聴き取りました。それが「わたしもあなたを罰しない」と言われた主イエスの御声です。 主は私たちに石を投げることができる唯一のかたなのです。もし神の正義が貫徹されねばならないのな ら、その石は容赦なく、私たちの上に投げられねばならない。しかしその審きを、罪の結果である死を、 主は私たちにではなく、ご自分の身に引き受けて下さった。それがあの十字架の出来事です。主はご自 分は痛まない安全な所にいて、私たちを安易にお赦しになったのではありません。私たちの受けるべき 罪の審判を、ご自分がことごとく引き受けて下さったかたとして、まさしく「十字架の主」として、私 たちに「わたしもあなたを罰しない」と宣言して下さるのです。だからこそ、それは私たちの永遠の救 いとなるのです。一時の気休めの言葉などではないのです。そこには十字架の主が、私たちの罪のため に、私たちに代わって担い取って下さった、あの十字架の重みがかかっているのです。そして、ただそ こでこそ、私たち人間は本当に自由な者となって、喜びと感謝に満ちた存在となって、キリストの恵み の主権のもとを、健やかに生きはじめるのです。  もしこの女性が、自分を肉体において処罰しうる者が誰一人「いなかった」という事実において満足 し、家に帰っていたなら、そこには彼女の救いは全くなかったのです。そうではなく、彼女は自分の罪 のただ中でキリストに出会った。彼女のおかした「罪」のただ中に来て下さったキリストの真実に触れ た。そこで、肉体だけではなく、魂も共に滅ぼすことのできる唯一の神に出会った。真の罰を与えるこ とができる唯一のかたに出会った。その事実においてこそ、まさにそのかたは「わたしもあなたを罰し ない」と宣言して下さるのです。彼女のために、彼女の罪を担って、十字架にかかる道を歩んで下さる のです。律法学者・パリサイ人の罪をも担って、十字架の道を歩まれるかたなのです。そして、ここに 集う私たち一人びとりの罪をも、十字架において解決して下さるかたなのです。その十字架の重みにお いて「わたしもあなたを罰しない」と宣言して下さるかたなのです。主イエス・キリストは、そのよう な「十字架の主」として、罪を赦すことのできる唯一の救い主なのです。  だからこそ、この十字架の主のみが、私たちにはっきりと告げて下さいます。「お帰りなさい。今後は もう罪をおかさないように」と。私たちはここに、キリストの測り知れぬ赦しを受け、その真実の赦し によって、平安の内に、勇気をもって生きるようにと、それぞれの生活へと遣わされてゆきます。それ は、いついかなる時にも、十字架の主が共にいて私たちを導き、支えて下さる新しい生活です。主はこ う宣言していて下さるのです「私があなたと共にいるのだから、あなたはもう罪に支配されることはな い」と。それが「今後はもう罪をおかさないように」という主の新しい誡めです。あなたはもう罪に支 配されてはいない。あなたは豊かに、確かに、永遠に、私の恵みの支配のもとにあり続けるのだ。あな たは私の愛する者である。私はあなたのために十字架にかかった。そのように主は私たちに告げていて 下さるのです。まさにこの赦しの主を、私たちはその測り知れぬ赦しのゆえに、今朝の詩篇130篇の詩 人と共に「畏れかしこみ、主を待ち望む」のです。「その御言葉によりて望みをいだく」のです。朝ごと に、夕ごとに、生命あるかぎり、生命を超えてまでも、私たちは十字架の主に拠り頼み、その御言葉に、 その御声に従って参ります。そこに私たちの変らぬ喜びがあり、平和があり、自由と希望と勇気と幸い があることを、覚えて参りたいと思います。