説     教    エレミヤ書6章16節  ピリピ書1章20〜26節

「 生にも死にも 」

2015・03・01(説教15091579)  近年「危機管理」という言葉をよく聞くようになりました。地震や台風などの自然災害、あるいは戦 争や犯罪やテロリズムなどの人的災害に際して、政府や地方自治体が、いかに迅速かつ的確にそれを処 理し、国民の安全を確保しうるか、そういう能力を問う意味で「危機管理」という言葉は使われていま す。しかし良く考えてみるなら、管理できるものはもはや「危機」ではなく、管理できないからこそ「危 機」なのです。ですから実は「危機管理」という言葉自体が矛盾しているのです。  「危機」という言葉は、外国語(特にラテン語や英語では)「分かれ道」という意味の言葉が用いられ ます。それはどちらを行っても構わないという安易な「分かれ道」などではありません。ひとたび選択 を誤れば、一方は生命に通じ、もう一方は死に通じるという、まことに厳粛な二者択一の「分かれ道」 です。それを「危機」と称するのです。そして実は、私たち人間はいつも日常生活の中で、その「分か れ道」(危機)に直面している存在なのです。そのことを、今朝与えられたエレミヤ書6章16節はこのよ うに語ります。「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ね て、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」。  この預言者エレミヤの言葉は、偽預言者らに対して語られた、審きと警告の言葉でもあります。同じ 6章14節を見ますと「彼ら(偽預言者ら)は、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、 平安』と言っている」と語られています。誰よりも歴史の主みずから、深い憤りをもってこれを語って おられるのです。譬えて言うなら「偽預言者ら」は、大怪我をして死にそうな人に対して、絆創膏を貼 って「これで大丈夫です」とごまかす偽医者のようなものだと言うのです。「彼らは手軽にわたしの民の 傷を癒し…」とあるのはそういうことです。ここで大切なことは、主なる神は私たち全ての者を「わた しの民」とお呼びになっておられることです。  4年前に東北を襲った地震・津波・原発事故の3重大災害に際しまして、私たちのこの国は本当に適 切な対応を被災者たちにしてきたであろうか、自問自答せざるをえない思いがするのです。私も石巻な どの被災地を訪ねて参りましたが、それは想像を絶する大災害です。この大災害に対して、それが国家 挙げての「危機」であるという認識を私たちは本当に持っているであろうか。そのことを痛感するので す。それを突き詰めて参りますとき、危機に際して正しい道を選択しえない人間の破れ、更に言えば「罪」 の問題に私たちは直面するのではないでしょうか。  自然災害や人的災害どころの次元ではないのです。何よりも私たちは、自分を常に支配している罪と 死に対して、何ひとつ危機管理ができていない存在なのではないか。そればかりではありません。エレ ミヤ書6章16節の後半には「しかし彼らは答えて、『われわれはその道に歩まない』と言った」と記さ れています。私たちは、どちらの道を選んでよいか分からないだけではなく、むしろ積極的に、自分の 意思において「われわれはその道に歩まない」と、生ける神に向かって反逆の狼煙を上げている者たち なのです。そこに人間の、本当の罪の姿があることを、エレミヤは明確に示されたのでした。  それならば改めて、私たちは、驚きと畏れをもって顧みざるをえません。御子イエス・キリストを私 たちにお与えになった、イスラエルの聖者・主なる神は「まどろむことも、眠りたもうこともなく」こ の罪の塊のような私たちを「わたしの民」として限りなく愛し、御手の内に堅く守り支え、いかなる危 機(分かれ道)に際しても、生命の道へと導いて下さるかたなのです。まさにこの恵みを知り、この恵 みに生かされ、宣べ伝える者として、使徒パウロは今朝のピリピ書1章20節以下にこう語ります。「そ こで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえ って、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリ ストがあがめられることである」。  実際にパウロは、このピリピ人への手紙を書きながら、いつ死んでも(処刑されても)不思議ではな い状況にありました。よく知られているように、ピリピ書自体がエペソの獄中で書かれたものです。為 政者の気まぐれによって、いつ刑場に引き出されても不思議ではない身でした。しかしパウロがここで 願い、語っていることは、生きるにも死ぬにもわが身を通して、ただキリストのみが崇められ(人々が キリストを信ずるようになり)主の救いの恵みが世に証しされるなら、生きるも死ぬも、自分にとって は同じく、キリストと共にある祝福であるという事実でした。  だからこそ続く21節にはこう語られています「わたしにとっては、生きることはキリストであり、 死ぬことは益である」。実はこの「生きることはキリストであり…」とは「死ぬことは益である」の「益」 の内容をもさしています。つまりパウロにとっては、生きるにしても死ぬにしても、キリストに贖われ た存在であることに何の変わりもなかった。否、それは単に「パウロにとって」というだけではなく、 それはいまここに連なる私たち全ての者に与えられている恵みの真実なのです。「わたしにとっては、生 きることはキリストであり、死ぬことは益である」これこそ私たち自身の信仰の言葉ではないでしょう か。私たちはこの21節について、宗教改革者カルヴァンが語った次の言葉に心を留めたいのです。「イ エス・キリストなしでは、生きるのと死ぬのと、どちらが益であるかを決めることは不可能である。し かし、キリストがわれわれと共におられるならば、彼はわれわれの生をも死をも等しく祝福して下さり、 かくして、生も死もどちらも、われわれにとって幸いであり、また望ましいことである」。  まさにカルヴァンが語るように、私たちは「イエス・キリストなしでは」「生きるのと死ぬのと、どち らが益であるかを決めることは不可能」です。私たち人間は自分の存在の根拠を自分自身の中に持つこ とはできないからです。ただ天地万有の創造主なるまことの神にのみ、私たちの存在のいっさいの根拠 があるのです。この根拠を持たずして私たち人間は「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」とい う、あのハムレットの問いの前に正しい道を選び取ることはできません。まさに最初のエレミヤの言葉 で申しますなら「いにしえの道がどこにあるか、尋ねてそこに歩め」と言われる主の御招きに対して「い や、われわれはそのような道を歩まない」とはっきり拒絶している人間の罪の姿があるのです。そのと き問題なのは、罪が私たちを支配するとき、必然的に生きることは偶然にすぎなくなるのです。死と同 様に生もまた、その時々の偶然にすぎなくなるのです。そこでは人間はもはや、生きるにも死ぬにも、 同じように罪に(死に)支配された存在に過ぎなくなります。言い換えるなら人間は「死」の必然性の 上に脆くも偶然に成り立つ虚無的な「生」を生きるに過ぎない存在になる。そこでは死こそ人生の「主」 であり「生」は死に仕える僕であるにすぎなくなるのです。  まさにそこにおいてこそ、人間のなす危機管理は根底から崩壊していると言わねばなりません。人生 の分かれ道に立ち向かうべき人間存在のありかたが、生と死の意味も含めて根本から見失われているか らです。まさにカルヴァンが言うように、私たち人間は「イエス・キリストなしでは、生きるのと死ぬ のと、とちらが益であるかを決めることは不可能」なのです。そこでは私たちはせいぜい、死の顔色を 伺いつつ、なんとか生にしがみついてゆこうとする虚弱な存在に過ぎなくなります。そしてやがてひと つの結果に導かれます。それは「死よ、汝はわれに勝利せり」という結果です。  使徒パウロもまた、今朝の御言葉の22節以下で、生と死のはざま(危機)に立つ自分を意識してい ます。「しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、 どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっ ている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはる かに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こ う確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信 仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、 あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇りを増すことになろう」。  しかしこの「生きながらえてあなたがた一同のところにとどまり…」というパウロの願いは実現しま せんでした。パウロはこのピリピ書を最後の手紙として、まもなくローマで殉教の死をとげることにな ったからです。西暦61年頃のことです。だから「二つのものの間に板ばさみになっている」というパ ウロの言葉は、自分が生か死かを決めるという意味ではありません。そうではなく、まさに今朝の20 節のように「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられること」のみをパウロは 願い、それが罪の贖い主なるキリストによって実現することを確信していたのでした。だから「板ばさ みになっている」とは「迷っている」ということではないのです。神の御心が行なわれるならば、いず れにしても「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と言うのです。 私たちは生にも死にも変わることなく、キリストのものとされているのです。キリストが私たちの生を も死をも、贖い取っていて下さるのです。だから教会によってキリストに堅く結ばれた者として、私た ちはパウロと共に確信をもって語ることができます。「あなたがたはわたしによってキリスト・イエスに ある誇りを増すことになろう」と。この「誇り」とは「喜び」という字です。私たちの存在そのものが、 人生そのものが、キリストの測り知れぬ恵みのもとにあり続ける、そのことが私たちの限りない喜びな のです。  それは同時に、私たちの周囲にも波及してゆく喜びです。「生くるうれし、死ぬるもよし、主にあるわ がみの、さちはひとし」と讃美歌にありますが、まさにその歌詞のように、私たちは生にも死にも等し くキリストと共にあるのです。私たちのまことの「主」は、私たちを極みまでも愛し、私たちのために 十字架にかかって下さった、罪と死の勝利者なるイエス・キリストただお一人です。私たちは生にも死 にも、もはや罪と死の支配のもとにはありえず、ただキリストの溢れる恵みのご支配のもとにあり続け る。世にある全ての人々を、主はご自身の復活の生命(罪と死に打ち勝つ唯一の生命)の共同体である 聖徒の交わり、教会へと招いておられます。何ひとつとして、私たちの資格は問われません。ただ主の 御招きにお応えして、礼拝者として生きる私たちなのです。  この幸いと喜びを知り、キリストのみを宣べ伝えるパウロにとって、もはや「世を去る」ことさえ幸 いでした。それは罪の贖い主なる主イエスが、パウロの全存在をご自身の祝福の器として下さるからで す。永遠にキリストと共にある生命において、死もまた等しい恵みの内にあり続けることだからです。 だからルター訳のドイツ語聖書では「わたしにとって…死ぬことは益である」の「益」は「勝利」と訳 しています。キリストに結ばれた私たちには、死もまたキリストの勝利に結ばれることなのです。それ はキリストが、私たちの底知れぬ罪と死を十字架にかけて滅ぼし、復活の生命をもって死ぬべき私たち を覆い包んで下さったからです。今はレント(受難節)の日々を歩んでいます。どうか私たちは、この キリストの勝利の恵みのもとに、永遠までもあり続ける僕とならせて戴いていることを心に深く留めつ つ、生にも死にも変わることなく、十字架の主を仰ぎ続けて参りましょう。