説    教    申命記21章22〜23節   ガラテヤ書3章11〜14節

「十字架の主を仰ぐ」

2015・02・22(説教15081578)  使徒パウロはイエス・キリストの十字架について、それは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人 には愚かなものである」と語っています。第一コリント書1章23節です。しかし同時にパウロは「わ たしたちは、十字架につけられたキリスト(のみ)を宣べ伝える」と語っています。ここに私たちの、そ して全世界の唯一の、真の救いがあるからです。私たちは「イエス・キリストを宣べ伝える」という場 合、そしてまた「イエス・キリストを信じる」という場合、それは私たちのために十字架にかかられた イエス・キリストを「宣べ伝え」この十字架の主のみを「信ずる」のです。それが「ユダヤ人にはつま ずき、異邦人には愚かなもの」であるとしても、それ以外のキリストを宣べ伝えることを決してしない のが私たちの教会です。私たちの教会は十字架の主イエス・キリストのみを信じ、告白し、世に宣べ伝 える群れです。  現代ドイツのある優れた新約聖書学者が、その名もずばり「十字架」という著書でたいへん興味ぶか いことを語っています。原文をそのまま引用しましょう。「十字架は当時の古代世界において、もっとも 残酷な、恐ろしい刑罰であり、神に呪われ、遺棄された罪人の象徴であった。十字架にかけられた者に は、いかなる救いの望みもないと考えられていた。『親しき仲にも礼儀あり』と言われるが、たとえどん なに親しく、打ち解けた仲間どうしの会話の中でさえ、冗談にせよ、決して口にしてはならない破滅的 な言葉があった。それこそ『十字架』である。『お前など十字架にかかってしまえ』これは相手に対する 最も厳しい呪いであり、あらゆる人間関係を破綻させる最後通告であった。『十字架』とはそれほどおぞ ましきものであったから、神の御子が十字架にかかって死なれたなどというニュースは、ユダヤ人にと っては神への冒涜であり、ギリシヤ人にとっては笑止千万な戯れごとにしか聞こえなかったのは当然で あった」。  顧みて、私たちの教会の屋根の上には十字架が立っています。私は今から15年前、私たちがこの新 しい礼拝堂を主にお献げしたとき、塔の上に十字架が立てられた日のことを思い出します。川崎にある 鋳物工場で作られたステンレス製の十字架です。縦横の比率(プロポーション)まで厳密に計算して作ら れています。下から見ると小さく見えますが、高さ2メートル重さ60キロあります。その十字架を鋳 物工場の人が肩に背負って坂道を登ってきた。私は思わず「クレネ人シモンが来た」と妻に申したもの です。重い十字架を背負って登って来るその姿が、主イエスの代わりにゴルゴタへと十字架を担いだク レネ人シモンの姿に見えたのでした。ともかくも、私たちの教会は十字架を重んじます。それはただ目 に見える十字架だけではありません。私たちは何よりも十字架の福音を重んじ、ただそこにのみ、この 世界の唯一の救い、全ての人々に対する神の極みなき救いの御業を見るのです。  それならば、問われているのは、十字架のいわば“本家本元”であるキリストを信ずる私たちが、い つでも健やかに十字架の福音に堅く立ち続けていることです。ともすれば私たちは十字架を“単なる看 板”にしてしまっていることは「ない」と言い切れるでしょうか。使徒パウロは、世間の人々が重んず る知恵や、人当たりのよい言葉ばかりを求めるコリントの人々に対して「わたしはイエス・キリスト、 しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」と 言い切っています。これは文語訳では「心に定めたり」です。最後まで継続する宣教の堅い決意です。 宣教の基本方針です。「それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるた めであった」。その「継続する宣教の堅い決意」を、いつも健やかに共有している私たちでありえている かが問われているのです。  アルプレヒト・ゲースというドイツの作家がいます。残念ながら日本語に訳されたものはほとんどな く、日本では無名に近い作家です。実はこの人は牧師でして、第二次世界大戦中はカール・バルトやデ ィートリヒ・ボンヘッファーなどのドイツ告白教会の神学者たちと共に、ナチスのユダヤ人迫害に対し て信仰の戦いを挑み、迫害を受けた人です。このゲース牧師がある本の中で、キリストの十字架につい てこういうことを語っています。「われらの主はまことに『十字架につけられ』たもうた。この事実は何 を意味するのだろうか。それは、私たちは、私たち自身が知っているよりも、遥かに多く救われている ということである」。これはいくぶん訳しにくい言葉ですが、その意味はこういうことです。「私たちは、 自分が救われていると感じているよりも、もっと遥かに多く、遥かに確かに、十字架の主によって救わ れているのだ」。  私たちは、自分がキリストによって救われている事実を、様々な方法によって確かめようとします。 たとえば「自分はキリストを信じる以前には喜びがなかった。しかし今はこういう喜びがある」。あるい は「自分には以前には平安がなかったけれども、教会に連なるようになってからはこういう平安が与え られた」。またあるいは「人生の戦いがどんなに厳しいときにも、キリストは私の救い主でいて下さる。 そのことが大きな喜びであり平安である」。多少の表現の差こそあれ、私たちはこうした「救いの確信」 を得ようとしている。それは間違ってはいません。間違いをおかすのは、ともすると私たちは「救いの 確信」を自分の内側に求めてしまうことです。自分の熱心さ、いわゆる「信心」の確かさに救いの根拠 を求めようとするのです。その結果、自分に対して失望したり、絶望したり、他者を審いたりするので す。「救いの実感がない」と嘆き、なおさら自分の内側に固執してしまうのです。自分をも他者をも審く のです。  「教理を学ぶ会」でもよくお話しすることなのですが、聖書には「信心」という言葉はほとんど出て きません。テモテ書やテトス書には少しだけ「信心」という言葉が出てきますが、それは「教会生活」 という意味であって、私たちが普通に考える「信じる心の熱心さ」ということではありません。そうい う言葉は聖書には無いのです。そうではなく、当然ですが、聖書に出てくるのは「信仰」という言葉で す。信仰という字は「信じて仰ぐ」と書くのです。そのように、私たちは救いの確かさを私たち自身の 中にではなく、仰がれるべきかた、十字架の主イエス・キリストの内にのみ見出すのです。そのことを アルプレヒト・ゲースは「私たちは、私たち自身が知っているよりも、遥かに多く救われている」と言 い表しているのです。つまり、私たちが自分を顧みて、自分の救いはこれぐらいだろうと判断するのは ほとんど間違いなのです。そのようなものは十字架の主の救いの確かさの前に吹き飛んでしまうのです。 もっと大きくもっと遥かに確かに、私たちは、私のために十字架におかかりになった主によって救われ ているのです。教会はその目に見える証拠です。教会は十字架と復活の主の御身体だからです。この教 会に堅く連なり十字架の主のみを仰いで生きることが「信仰」です。言い換えるなら、私たちは日常生 活の中で「十字架の主」を過小評価しているのではないか。実際に私たちに与えられている救いよりも、 遥かに小さな救いだと決めつけているのではないでしょうか。そして自分の信仰の生活を狭苦しく、小 賢しいものにしてしまっているのではないか。私たちはもっと大胆に、キリストに拠り頼む者にならね ばなりません。  使徒パウロは、今朝のガラテヤ書第3章11節以下において、繰り返し「のろい」という言葉を用い ています。この「呪い」とは私たちの罪の結果を現します。私たちの罪こそ「呪い」の正体です。です から「律法ののろい」という時、それは私たちの外側に「呪い」があるということではない。ユダヤ教 の律法が私たちを呪うということでもない。それは何よりも私たち自身が罪をおかしている事実を現し ているのです。ですから「呪い」の本質は神との関係を失うことです。私たちの身体の中には血液が流 れているわけですが、もし血管がどこかで詰まって血流が阻害されるなら、それより先の組織は壊死し てしまいます。それと同じように、造り主なる神との関係が罪によって阻害されるなら、私たちの存在 は根底から生命を失い、虚無と絶望に陥らざるをえないのです。それこそ今日の世界が置かれている情 況です。人間にとって最も根本的な神との関係が修復されずして、他のいかなる手段も人間の救いとは なりえないのです。  それならば、今朝の御言葉の3章13節に明確に告げられているのは、まさにその現代世界に対して 告げられている確かな救いの出来事です。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたした ちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と 書いてある」とあることです。ここでパウロは旧約聖書申命記21章23節を引用しています。つまり「木」 というのは十字架のことです。キリストが「十字架」にかかりたもうたのは、私たちの罪の結果である 「のろい」をご自分の身に引き受けて下さるためであった。神との根本的な関係を失った私たちを神に 立ち帰らせて下さるために、主イエスは、ご自分は何の罪なきかたであられるにもかかわらず、罪人な る私たちの「のろい」を全て引き受けて下さった。神なき者の絶望の死を、十字架の主が全て担い取っ て下さったのです。私たちの滅びをご自身の死によって覆い包み、祝福の生命に変えて下さるために、 主は十字架の滅びを引き受けて下さったのです。それほどの限りなき救いを、私たちは与えられている のです。だから私たちに求められている「信仰」とは十字架の主を仰ぐことです。ただひたすらに十字 架の主を仰ぐ。信じ告白する。そして主の教会に連なり、主の復活の生命に覆われた者として歩むこと です。  ルターは「のろい」という言葉を「遺棄」(神に捨てられること)と訳しました。それならば、神との 交わりの内に留まりえない「のろい」そのものである私たちを、神との永遠の交わりの内に生かしめ、 永遠の生命を与えて下さるために、主は私たちの「のろい」を身に負うて、神に棄てられた者の滅びそ のものである十字架の死を死んで下さったかたなのです。私たちはこの十字架の主を仰ぐのです。それ が「信仰」です。まさにこの十字架の主の恵みのゆえに、続く14節に驚くべき祝福が告げられていま す。「それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって、異邦人に及ぶためであり、約束 された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである」。「アブラハム」はイスラエルの父であり、 異邦人には無関係だと考えられていました。しかしそうではない。いまやキリストが全ての人々のため に十字架に死なれたゆえに、キリストを信ずる全ての人がアブラハムの受けた祝福の契約(救いの確か さ)を受け継ぐのだと言うのです。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」その名の次に、私たち 自身の名が加えられるのです。「哲学者の神にあらず」とパスカルは言いました。そう、私たちの救い主 は、死せる観念の神などではないのです。永遠に変わることのない、十字架の主なるイエス・キリスト の父なる神が、永遠に変わることなく、死を超えてまでも、私たちと共にいて下さるのです。  私たちの永遠の贖い主として、そして、私たちの生命の主として、聖霊を、神の子の喜びの生命を、 私たち一人びとりに、与えていて下さるのです。このかたをこそ、私たちは「主」「救い主」と告白し、 信じ、宣べ伝え、証しをなし、このかたの変わらぬ恵みのもとに、生き続ける者とならせて戴いている のです。