説     教    出エジプト記35章29節   ピリピ書4章10〜13節

「 献身と感謝 」

2015・02・15(説教15071577)  「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに 芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会 がなかったのである」。今朝、私たちに与えられたピリピ書4章10節において、使徒パウロは愛するピ リピの教会の人々にこのように語りかけています。この「主にあって大いに喜んでいる」とは、ピリピ の教会の人々が神への“感謝の献げもの”においてますます熱心な群れへと成長し、主の御業に仕え、 御栄を現わすようになったことを、全てにまさって喜びとしているという意味です。ここにパウロの、 伝道者としての尽きせぬ喜びと感謝がありました。  そこで、少しあとの17節以下をお読みしますとこのように記されているのです。「わたしは、贈り物 を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしてゆく果実なのである」。 パウロの切なる願いは、献げもの(献金)を通してピリピの教会が成長し、強められてゆくことでした。 続く18節にはこのようにあります。「わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデ トから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の 喜んで受けて下さる供え物である」。そして最後にパウロの感謝は神への頌栄と讃美をもって終わってい ます。19節です。「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリ スト・イエスにあって満たして下さるであろう。わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるよ うに、アァメン」。  ここに「エパフロデト」という青年の名が出てきます。エパフロデトはエペソの牢獄に囚われの身と なっていたパウロを助けるために、ピリピ教会からの献金を携えてパウロのもとに遣わされた青年でし た。この青年はもしかしたら、ヨーロッパにおける最初の信者ルデヤの息子であった可能性があります。 とまれ、パウロの伝道を助けるはずであったエパフロデトは、長旅の無理がたたって重い病気に罹って しまいました。パウロを助けるどころか、逆にパウロの看病を受ける身になってしまったのです。その ことで純粋で誠実なエパフロデトは非常に気落ちしました。このままではピリピ教会の人たちに顔向け ができないと悩んだのです。  この主にある忠実な僕エパフロデトに、パウロは獄中で書いた「ピリピ人への手紙」を持たせてピリ ピへと送り返します。それにあたってパウロは、この手紙の中で「(エパフロデトは)キリストのわざの ために命をかけ、死ぬばかりになった」のである。このような人こそ重んじられねばならない。どうか 彼をこころよく、私だと思って迎え入れて欲しいと、ピリピ教会の人々に懇願しています。つまりパウ ロは、このエパフロデトの献身と、彼を獄中のパウロのもとに遣わしてくれたピリピの教会の志を、何 よりも尊い献げものとして、主に感謝しているのです。  だからこそパウロは、このピリピ書2章17節に「たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭 壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じよう に、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」と語っています。この手紙が「喜びの手紙」 と呼ばれるゆえんがここにあります。私たちが献金を献げて「感謝の祈祷」をするのも、ここに根拠が あるといって良いのです。献金は献げることそれ自体が、私たちにとって大きな感謝なのであります。  そこで、今朝の御言葉をよく注意して読みますと、私たちはここに、パウロがみずからの感謝の思い を十分に言い表しつつも、しかもピリピの教会に対する直接的な感謝の表明が全くと言ってよいほど無 いことに気がつくのです。「私はあなたがたからこれこれの献げ物を戴いて本当に助かった。心から感謝 申し上げる」といった調子の文面はどこにも出てきません。むしろ意図的にパウロは、ピリピの人々に 対する直接的な感謝の言葉を避けているのです。ですから、ある神学者はここを「感謝なき感謝」であ ると述べているほどです。  それは、なぜなのでしょうか。パウロは、人への感謝の思いを素直に言えなかった人なのでしょうか。 もちろんそうではありません。むしろパウロは「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ことのできる 人間でした。ですから獄中にある自分の「窮乏を補な」わんとするピリピ教会の「贈り物」をも深い感 謝の念をもって受け取ったに違いないのです。その上で、あえてパウロはここに直接的な感謝の念をピ リピの人々に語ることを避けているのです。それには深い意味があったからです。10節に「さて、わた しが主にあって大いに喜んでいるのは」とありますのも、繰返し申しますが、それはパウロに与えられ た「贈り物」に対する喜びなのではなく、むしろ惜しみなく主の御業に献げんとする志を、ピリピの教 会の人々が「主にありて」抱くようになったことに対する感謝なのです。  パウロはいつも、自分を「キリスト・イエスの僕、使徒、そして御言葉の宣教者」として自覚してい ました。それ以外に自分を現わすことをしませんでした。もしパウロに名詞を作らせたなら、パウロは そこに「キリストの使徒・伝道者パウロ」と書いたことでありましょう。私の知る人に世界的なクモ学 者がいます。このかたがあるとき、もう20年も前になりますが、私たちの教会の日曜学校で講演をな さったとき子供たちにこう語られました。「私はクモの研究ひとすじに80年歩んできましたが、クモの ことは、まだわからないことばかりです。全体の一万分の一も“わかった”とは言えないのです。それ ならば、この世界万物をお造りになられた神様は、どんなに素晴らしいかたであるか、想像もつきませ ん。それならば、この神様の御言葉を宣べ伝えるほど素晴らしい、尊い務めはないのです。そのことを、 みなさんはよく覚えて欲しいと思います」。  この素晴らしさをこそ、私たちの教会は、いつも主から与えられているのではないでしょうか。それ ならばパウロは、献げものがどのようなものであれ、神の僕である自分の働きのための「献げ物」を決 して自分個人へのプレゼントとして捉えることはしなかったのです。神の恵みによって共に生かされ、 新たにされ、罪を贖われた僕として、その恵みに対する感謝の応答として、最も素晴らしい務めである 伝道者パウロの働きを支えるために「窮乏を補う」献げものを送ってくれるピリピ教会の、否、私たち の教会の献げもののありかたを改めて示されています。それは、私たちが献げものをもって、救い主な るキリストの御業にお仕えすることです。神への献身のしるしなのです。だからこそパウロは、それを 個人的な感謝の次元などで受け止めることはしなかった。そうではなく、その感謝の献げものが向かっ ている究極的な目標である「神の栄光」との関係においてのみそれを受け止め、ただ主にのみ感謝を献 げているのです。  私は葉山教会に赴任してちょうど20年になります。私が葉山に赴任する以前におりました東京の教 会の前任者であられた上与二郎という牧師先生は、戦前、日本基督教会の台湾中会の議長を長く務めら れたかたです。ひとつのエピソードがあります。台北の日本基督台北教会、堂々たる煉瓦造りの会堂は 今でも台北に残っているのですが、その広い礼拝堂を、イースターとクリスマスの前に、教会の青年た ちがまる一日かけて、総出で大掃除をした。重い椅子をみな屋外に運び出して、大理石の床にホースで 水をかけてブラシで磨いたそうです。みんな汗だくになって奉仕しておりますと、ときどき上与二郎先 生が様子を見に入って来られる。しかし「ありがとう」とも「おつかれさま」とも仰らない。ただ黙っ て見ておられる。当時、青年であった早坂礼吾さん、宮城学院の院長をなさったかたですが、不思議に 思いまして、あるとき思いきって上先生にお訊ねしたそうです。「先生、先生はどうして、私たちが奉仕 しているのを御覧になって“ありがとう”とおっしゃって下さらないのですか?」。すると上先生は実に 不思議そうな顔をして、早坂青年にこう答えられたそうです。「君たちは、私のために奉仕しているので はない。神のため、教会のために奉仕しているのだ。それなら、私が“ありがとう”と言うのはおかし なことではないか」。この上先生のひと言が、それから以後の早坂さんの信仰生活を決定的なものにした のでした。そうだ、自分は神のため、主の教会のために、奉仕させて戴いているのだ。それをこそ最大 の喜び、感謝、光栄とする信仰者にならねばならない。人に評価されんとしてではなく、ただ神の栄光 のために生きる、そのようなキリスト者になろう。  そこで、改めて10節を見てみましょう。「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたし を思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのこと を心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである」。ここにパウロが語る「わたしを思う心」 とは、パウロの使命である神の言葉の宣教のわざのため、という意味です。言い換えるなら“神に仕え る奉仕のわざ”です。その「心」が「今またついに芽ばえてきた」とは、ピリピの教会は最初の奉仕の 志を失いかけていたということです。感謝の「献げ物」への熱心さを失いかけていたのです。その背景 には、パウロがピリピを去った後に入りこんできた「偽教師」たちによる教会の混乱があったからです。 とまれ、それがエパフロデトの病気という、人間的には不幸な出来事を通して「今またついに芽ばえて きた」ことを私は主に感謝すると、パウロは語っているのです。  そうした教会の志によって献げられる「献げ物」は、贈り、受け取る、授受の関係(ギブアンドテイ クの関係)などではないはずです。その「献げ物」が向かっている明白な目標があるのです。それは共 に主の御業に仕え、神の御栄えを現わさんとする聖徒たちの志です。その意味で、私たち一人びとりが、 献金を通して使徒のわざに仕えているのです。いまそのような思いを教会に新たにして下さった主なる 神に、自分は感謝を献げずにはおれないとパウロは語るのです。それは主の御業のための聖なる「果実」 が現われたことである。だから17節にパウロは「わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふや してゆく果実なのである」と語っています。文語訳では「唯なんぢらの益となる実の繁からんことを求 むるなり」です。  私たちは献金によって、教会のわざに単に協力しているのではありません。献金は共同出資金ではあ りません。教会の維持運営管理費ではありません。“教会の働きを少しばかりお手伝いしている”という 次元のことではないのです。そうではなく、献金は、主の恵みの主権に対する私たちの従順と献身の奉 仕であり、神の御業に仕えることです。だからこそ、私たちは献金を献げるたびごとに、献金感謝の祈 りにおいて「この献金と共に、私たち自身をお献げいたします」と祈るのです。それは初代教会以来の 喜びの伝統です。また、献金感謝の讃美歌においては「ささげまつる、ものはすべて、みてよりうけた る、たまものなり」と歌うのです。単に「金品による協力」を私たちはしているのではない。この私と いう存在そのものを、私たちの全存在、全生涯を、あなたの尊い御用のために、お用い下さいと祈りつ つ献げるのです。改めてそのことを、今朝のピリピ書の御言葉を通して私たちは示されているのです。  今朝あわせてお読みした出エジプト記35章29節に「このようにイスラエルの人々は自発のささげ物 を主に携えてきた」とあります。「自発の」とは、心からなる献身のことです。その心が、ピリピの教会 から一時期、見えなくなっていたこともあった。しかしいま、主なる神がその機会を得させて下さって、 教会に連なる全ての人々の心に、自発のささげ物を携え来たる思いを芽生えさせて下さった。そのこと をパウロは限りなく主に感謝すると同時に、いよいよ私たちが心をひとつにして、あらゆる境遇におい て、順境にも、逆境にも、健やかなときにも、病むときにも、変わることなく、礼拝者として、主を讃 美しつつ歩む者として、キリストにあがなわれたる僕として、心を高く上げて歩んでゆこう。  そして、ここに、キリストの主権のみをあらわすところの、まことなる教会に連なり、共に主の御業 に仕えてゆく僕たらんとする、その志と祈りとにおいて、感謝と讃美とを新たになしているわけです。 御自身の独り子をさえ、私たちのためにお与えになった神は、私たちをいっさいの良き賜物において、 祝福において、限りなく富ましめていて下さるのです。19節をもう一度拝読しましょう。「わたしの神 は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして 下さるであろう。わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように。アァメン」。