説    教    詩篇147篇12〜13節  ヨハネ福音書13章12〜15節

「キリストに倣いて」

2015・02・08(説教15061576)  “キリストに倣う”ということは、たいへん難しいことです。しかしそのことがなければ、信仰 の生活は決して本物にはなりません。もしキリストを信じていると言っても、キリストではなく自 分を主とし続けているならば、それはキリスト者の生活とは言えないからです。今からおよそ560 年前、ドイツのトマス・ア・ケンピスという修道士が「キリストに倣いて」(ラテン語でイミタチオ・ クリスティ)という本を著しました。これは多くの人に読まれたもので、わが国にもキリシタン時 代に「こんてつすむん地」という題で翻訳された記録があるほどです。この中でトマス・ア・ケン ピスは、今朝私たちに与えられたヨハネ伝13章12節以下の御言葉について、非常に深い黙想を書 きとどめております。  トマスは言うのです、主なるキリストはまさに、私たちの足を洗って下さるために世に来られた。 ところが、足を洗って戴いた私たちは、そこから立ち上がろうとはしない。そのとき私たちの信仰 はいったい、何の意味があるのだろうかと。足は、人間の身体を支えるものです。言い換えれば足 は、私たちの生活そのものの譬えです。それならば、主イエスが私たちの足を洗って下さったとい うことは、私たちをして、新しい復活の生命に支えられつつ、主と共に歩む者として下さったこと です。それほど大きな恵みを与えられているにもかかわらず、もし私たちがそこで何事も起こらな かったように蹲っているとするなら、それこそ私たちの信仰そのものが問われるのではないでしょ うか。  主イエスは十二弟子たちの足を洗われた後で、今朝の12節にありますように「上着をつけ、ふ たたび席にもどって、彼らに言われた」のでした。「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あ なたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもま た、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、 わたしは手本を示したのだ」。ここに「手本」という意味ぶかい言葉が現れてきます。何事につけ、 私たちが新しいことに挑戦しようとする場合、まず必要とするのは正しい「手本」です。たとえば 書道やお茶や生花を習おうとするとき、本を読んで自己流の勉強をするだけでは決して正しい作法 は身に付きません。優れた先生のもとに入門し、そこで先生を「手本」として稽古を積んで、はじ めて正しい作法が身についてゆくのです。これはスポーツや仕事の分野でも同じことが言えるでし ょう。言い換えるなら「手本」とは、それを体得している人のことです。「門前の小僧習わぬ経を読 む」と申しますが、実は「手本を真似る」ということが人生の全てに当てはまる上達の近道なので す。  その意味で申しますなら、主イエス・キリストはまことに洗足の「手本」となって下さった唯一 の救い主です。すなわちこの“洗足”とは、十字架による私たちの罪の全き贖いのことです。すな わち主イエスは、十字架の主として全人類の罪の贖いの唯一の「手本」となられたかたなのです。 私たちはキリストと自分を同列に置くことなどできません(私たちは自分一人の罪を贖う力さえ持 ちえぬ者です)が、私たちは十字架におかかり下さった主イエスを信じ、主イエスを見上げ、主イ エスにお従いすることは出来ます。それこそが主を「手本」とすることなのです。私たちは主イエ スを信じて教会に連なり礼拝者として生きることによって、いつも主イエスを「手本」とする新し い生活を生きるのです。  教会とは何でしょうか?。それは主イエス・キリストの復活の御身体であり、そこに私たちはた だ恵みによって連ならせて戴いているのです。主の御身体なる教会に連なることにより、罪に死し たる私たちに新しい復活の生命(キリストの生命)が与えられます。そこでこそ私たちは、私たち の全ての罪(古き人)が贖われ、神の義(新しき人)とされた恵みを知るのです。死んでいた者が 甦り、失われていた者が見出された喜びに、共にあずかる者とされるのです。その喜びが、主の御 手の内にあって、いつも満ちあふれている場所こそ、主の御身体なる聖なる公同の使徒的教会なの です。  それならばなおさら、私たちは主がお建てになったこの教会においてこそ、主を唯一の「手本」 とするキリストの弟子に、いまならせて戴いているのではないでしょうか。主はこの同じヨハネ伝 13章34節以下にこのように教えておられます。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。 互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互 に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認める であろう」。これは何という祝福の約束でしょうか。「互に愛し合うならば、それによって、あなた がたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」と主は言われます。私たちがキ リストの弟子であることが世の人々の目に明らかになるのは「キリストに倣う」ことによってであ ると主は言われるのです。「互いに足を洗い合う」ならば、あながたが私の真の弟子であることを「す べての者が認める」に至るであろうと主は言われるのです。  ただし、気をつけて下さい。これはいわゆる博愛主義やヒューマニズムへの招きの言葉ではない のです。キリスト者でなくても、互に愛し合う人々はいるでしょう。またキリスト者であっても、 互いに愛し合えないでいる者たちがいるかもしれません。しかし実は、主イエスのこの御言葉は、 私たちの限界や可能性を超えたところにこそ輝いています。すなわち、私たちの恐るべき罪の暗黒 のただ中に、私たちの虚無の中にこそ、この御言葉は鳴り響いているのです。それは何よりも、主 がなして下さった洗足の出来事そのものが示しています。この出来事そのものが私たちの「手本」 なのです。それはどういうことかと申しますと、主イエスは、ただ一方的な恵みの出来事として、 私たちの汚れた足を洗って下さったのです。私たちが主イエスに「どうか私たちの足を洗って下さ い」と頼んだわけではない。私たちの意志に主が応えて下さった結果、この出来事が起こったわけ ではない。そうではなく、全く私たちの意志の及ばぬところで、すなわち、私たちが恐るべき罪の 暗黒に捕らわれていたその時に、主は私たちの足を、ご自身の一方的な恵みによって洗い清めて下 さったのです。  これは、何を意味するのでしょうか。この意味を使徒パウロは、ローマ書5章8節に次のように 語っています。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったこと によって、神は私たちに対する愛を示されたのである」。ここに「まだ(わたしたちが)罪人であっ た時に」とあります。私たちが神から全く離れた状態であった時に、しかも、自らのその悲惨さを 知ることもできずにいたその時に、そのような私たちのためにこそキリストは死んで下さった。実 にそのことによって「神は私たちに対する愛を示されたのである」とパウロは言うのです。すなわ ち、キリスト・イエスみずから、罪によって神に対して死んでいた私たちを救うために、一方的な ご自身の恵みによって、私たちの汚れた足を洗って下さったのです。  ルターが訳したドイツ語の聖書では、今朝の御言葉の「手本」という言葉をバイシュピール (Beispiel)というドイツ語に訳しています。このバイシュピールとはたいへん面白い言葉でして、 直訳すると「ある人と共にいてみずから行なう」という意味になります。主イエスは私たち罪の極 みに座す者たちの所にいらして、そこでみずから“行って”下さったのです。それこそ、永遠の神 の御子が十字架に死なれるという、あの唯一の救いの御業でありました。このような「手本」 (Beispiel)を大いなる恵みとして戴いている私たちは、いかに生きるべきでしょうか。それこそ 私たちはトマス・ア・ケンピスが言うように、蹲ったままではいられないはずです。私たちは主が 洗って下さったその足をもって、健やかに立ち上がり、主と共に歩んでゆく者とされているのです。 主が贖い取って下さった新たな生命をもって、神の栄光を現す者とされているのです。私たちのあ るがままの人生の歩みが、その全体が、キリストの愛と慈しみを現すものとされているのです。だ からこそ主は「わたしは手本を示したのだ」と言われたのです。  それは、私たちもまた「互に足を洗い合う」者とされている祝福を示しています。互いにキリス トの恵みに根ざし、キリストの慈しみに支えられて生きる、新しい自由と幸いの生活に招かれてい るのです。そしてそれは、ただ主がご自身のものとして贖い取って下さった、主の御身体なる教会 に連なることによって実現します。それはなぜか。先ほどのルター訳が見事にその意味を伝えてい ます。教会はキリストの復活の御身体であって、そこでは主ご自身が私たちと共にいまし、全ての 人々のための救いの御業を行なっておられるからです。それこそパイシュピール(ある人と共にい てみずから行なう)ことです。主はこの教会において、ここに連なる私たちといつも共にいまして、 全ての人々のために、限りなき救いの御業をなしておいでになる。私たちはみな、その主の御業の 証し人であり、そのための仕え人なのです。  どうか私たちは、いまその「手本」を戴いている僕として、主の御身体なる教会に連なり、ただ 神の御栄えのために共に労し、祈りを深め、礼拝を重んじ、キリストの御業にお仕えしてゆく者で ありたいと思います。どうか共にその志においてこそ、いっそう健やかな群れに成長し、共に“キ リストに倣う”僕として歩んで参りたいと思います。