説     教    ヨブ記4章17節   ヨハネ福音書13章1〜5節

「 洗足の恵み 」

2015・02・01(説教15051575)  東京の大田区に「洗足」という地名があります。かつて鎌倉時代、池上本門寺に赴く途中の日蓮上 人が、寺の前の池(洗足池)で足を洗ったという故事に由来しているそうです。そこからもわかりま すように、わが国でも昔から「足を洗う」という行為には「身を清める」すなわち「斎戒沐浴」とい う意味がありました。ヤクザや任侠の世界でも「足を洗う」と言いますと、極道のヤクザな生活を捨 てて堅気に戻るということです。心を入れ替えて真人間になるということです。  しかし、聖書においてはどうなのでしょうか。今朝の御言葉・ヨハネ伝3章2節以下には、主イエ スが十二弟子の足を、手ずから洗いたもうた出来事が記されています。それは弟子たちに「真人間に なりなさい」と願われたのでしょうか。「斎戒沐浴」を要求なさったのでしょうか。そうではありませ ん。何よりも、ここで弟子たちの足を洗いたもうたのは、ほかならぬ主イエスご自身であって、弟子 たちではありません。つまり弟子たちは「(自分で)足を洗った」のではなく「(主イエスに)足を洗 って戴いた」のです。しかも、それは突然の出来事でした。  だから弟子たちは、言葉も出ないほどに驚き畏れたのでした。何故かと申しますと、この当時のユ ダヤにおいて“足を洗う”という行為は僕(すなわち奴隷)が主人に対してする行為だったからです。 13章2節を見ますと、それは「夕食のとき」であったと記されています。場所はおそらく、あの“最 後の晩餐”が行なわれたマルコの家の二階座敷であったでしょう。つまりこの13章2節以下に記さ れている事柄は、他の三つの福音書における“最後の晩餐”の場面と同じように、主イエスの贖いの 御業のただ中で起こった出来事です。それこそ主イエスによる「洗足」の出来事でした。  そこで、今朝の2節を改めて見ますと、そこに非常に重い事柄が記されているのがわかります。そ れは「夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思 いを入れていたが」とあることです。対照的に、その直前の1節にはこうあります。「過越の祭の前 に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者 たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」。ここに「最後まで愛し通された」とあるのは、文語訳 では「極まで之を愛し給へり」です。この「極まで」とは「際限がない」という意味です。つまり主 イエスは際限のない愛をもって「世にいる自分の者たち」すなわち、私たち一人びとりを愛したもう たのです。  ところが、その主イエスの愛の中で、恐ろしい私たちの罪が立ち現われるのです。それはちょうど、 強烈な光に照らされて影の部分がいっそう際立つように、主イエスの極みまでの愛の中でこそ、私た ち人間の罪の姿がより鮮明になる瞬間でした。なんとイスカリオテのユダは、このような主イエスの 極みまでの愛の中で、恐ろしい裏切りを計画し実行しようとしていた。私たちは主イエスの“極みま での愛”をさえ拒み、自分の利益と計画のみを喜ぼうとする存在なのです。だからここには、世界に おける最大の愛が現れていると同時に、続く2節においては、その愛にさえ叛き続ける人間の罪の姿 が明らかにされています。極みまでの神の愛と、極みまでの人間の罪。今朝の御言葉において私たち が直面するのは、まさにその正反対の歴史の流れです。  今からおよそ300年前のドイツにライプニッツという哲学者がいました。敬虔なキリスト者であっ たライプニッツは、世界における神の愛と人間の罪という難問に正面から取り組んだ人です。ライプ ニッツはそれを説明するために“刺繍の譬え”を持ち出します。ジャカード織りのような刺繍(ステ ッチ)には表と裏の両面があります。裏から見ると刺繍は、複雑に糸が縺れ合った意味不明の布です が、その同じ刺繍を表から見るなら、それは整然とした美しい模様であることがわかる。それと同じ ように、神がお造りになったこの世界も、もし人間の罪という裏側からだけ見るなら、それは混沌と した混乱と無秩序の世界にすぎないけれど、神の永遠の愛という表側から見るなら、それは喩えよう もなく美しい正義と秩序の世界であることがわかる。そのようにライプニッツは申すのです。たとえ 人間の罪がどんなに深くとも、神はご自身の極みまでの愛において、美しい秩序ある世界をお造りに なり、それを永遠に支配していて下さる。そして哲学の使命は、神の歴史という刺繍の「美しい表側」 を人々に示すことであると言うのです。  スコットランドの神学者ジョン・オーマンは、それと同じことを「自然的秩序と超自然的秩序」と いう別の言いかたで表わします。オーマンは言うのです。「この世界が神の創造された世界であるかぎ り、それは最悪の出来事の中からさえ、最善のものが生まれてくる世界である」と。「最悪の出来事」 とはライプニッツの言う刺繍の裏側であり、自然的秩序の限界また人間の知恵と知識の限界です。し かし世界を世界たらしめている本質は、神の言葉とキリストの恵みという「超自然的秩序」なのです。 それならば、この世界における「最悪の出来事」をも主なる神は最善へと(救いへと)変えて下さる かたであるとオーマンは言うのです。すなわちローマ書8章28節に告げられているとおりです。「神 は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるよ うにして下さることを、わたしたちは知っている」。  主イエスはイスカリオテのユダの罪をご存知であられました。同じように主は私たち一人びとりの 罪をも悉く知っておられます。主の御前に隠しうるものは何ひとつありません。そのようなユダの罪 (私たちの罪)という最悪の出来事のただ中にこそ、主は“極みまでの愛”を現して下さいました。 だから今朝の3節には「イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分 は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い」とあります。私たちの底知れぬ罪、キリス トを十字架にかけるという最悪の出来事の中にあってさえも、主イエスは「すべてのもの」すなわち 「世にいるご自分の者たち」全てを「極みまで」愛し抜いて下さったのです。主はご自身の十字架と いう最悪の出来事のただ中に、全世界の救いという最善の出来事を現して下さったのです。  まことに、そのような贖い主・十字架の主としてのみ、主イエスは私たちのもとに来て下さったの です。罪なる私たちを見捨てたもうのではなく、まさに私たちをその罪ゆえにこそ贖い、生命を与え 救いたもう「主」として、主イエスはこの世界に来て下さった。その極みまでの愛においてこそ、主 は手ずから私たちの足を洗って下さったのです。主は全き僕の姿(十字架の贖い主)としてのみ、私 たちのただ中に来て下さったのです。4節をご覧下さい。主イエスは「夕食の席から立ち上がって、 上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に 巻いた手ぬぐいでふき始められた」とあります。テンプルというイギリスの神学者が申しています。 「これはなんという板に付いた僕の姿であろうか!」。私たちはここに、十字架にかかりたもうた神の 子のお姿を仰ぐのです。  それを悟りえぬ弟子たちは、驚き、畏れ、呆気に取られたことでした。私たちならどうするでしょ うか?。僕のお姿で(十字架の主として)来られた主の御前に、私たちはいかなる姿勢で相対するの でしょうか。それは信仰によって主を仰ぐ以外のことではありえないはずです。さらに、ここで最も 大切なことは、たとえ弟子たちの姿勢や態度がどうであれ、主イエスは彼らの足を洗いたもうた事実 です。全く一方的な主イエスの恵みとしてこの「洗足」の出来事は起こった。私たちの側に何ひとつ として準備はなく、予想すらしていなかったのです。ただ当然のごとく、僕がその主人になすごとく に、主イエスは心をこめて弟子たちの(私たちの)足を洗って下さったのです。イスカリオテのユダ の足をも洗って下さったのです。  だからこれは、単なる清めの儀式などではありません。真人間になれよという道徳的願望でさえあ りません。これはまさに主イエスの御人格そのものであり、十字架における全人類の罪の贖いを現す 救いの出来事なのです。すなわち、信仰をもって主イエスをキリストと告白し、主の御身体なる教会 に連なることにおいて、ただそのことにおいてのみ私たちが応えうる出来事です。「アーメン、われ信 ず」と告白するほかない大いなる恵みの出来事です。だからある人はこれを「最大の奉仕」と呼びま した。主イエスが私たちのためになされた最大の奉仕の御業、それこそあのゴルゴタの十字架です。 その十字架と同じ意味を持つ出来事こそ、この洗足の出来事なのです。  この「洗足」の出来事が起こったのはユダヤ暦のニサンの月13日(木曜日)でありました。つま り、これは十字架の前日の出来事です。それならば、これは主イエスの“行いによる遺言”です。実 際に主は同じ13章14節において「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を 洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」と語っておられます。この「互 に足を洗い合いなさい」とは「互に愛し合いなさい」という主イエスの「新しいいましめ」です。「互 に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、そのことによって、あなたがたがわたしの弟子であること を、全ての人が認めるであろう」。それならば、私たちに今日、主が語っておられることは「互に足を 洗い合いなさい。そうすれば、あなたがたがわたしの弟子であることを、全ての人が認めるであろう」 ということです。  これはただ、互いに仕え、奉仕し合う関係になりなさい、という意味ではありません。ただ「謙遜 な人になりなさい」という道徳訓でもありません。ここに私たちが求められているのは新しい礼拝者 の生活です。主イエスをわが救い主キリストと信じ、告白し続ける者のみが持つ新しい祝福の生活で す。主の御身体なる教会に連なり、そこで御言葉に養われ、キリストの現臨のもとを歩む信仰の生活 です。まさにそのキリストの溢れる恵みのもとに、互いに連なって(ひとつになって)歩む者となり なさい。私たちの足を洗って新たにして下さった主のもとに、互いに連なって生きる者となりなさい。 それがこの「洗足」において私たち一人びとりに求められ、また全ての人が招かれている、キリスト の祝福と救いの出来事なのです。  まことに主が、罪人のかしらなる私たちの足を、洗って下さいました。主が、私たちのために生命 を献げて下さいました。その主が、私たちと共に歩んで下さいます。私たちの資格や条件などを、主 は全くお問いにならない。まずご自分の全てを、生命の限りを、私たちに献げ尽くして下さったかた として、ただ十字架の主としてのみ、私たちに相対しておいでになる。私たちのただ中に現臨してお いでになる。このかたの限りない恵みと極みまでの愛において、実に私たちの人生の全体が、暗い悲 しみの出来事や、悩みや挫折や失敗さえも、主は私たちの益となして、私たちを、また周囲の人々を も救いへと導いて下さるのです。そのようなかたを私たちは“わが主”と呼びまつり、ここに告白し、 礼拝の群となり、互いに“わが主”の御身体なる教会に連なり、その祝福を戴いて、新しい一週の旅 路へと遣わされてゆくのです。