説    教   エレミヤ書28章5〜9節  第二コリント書1章18〜20節

「 神の真実 」

2015・01・25(説教15041574)  「主の祈り」を通して福音の御言葉を聴いて参りまして、今日が最後の講解説教となります。「主の 祈り」だけに限りませんが、私たちは祈りの最後にかならず「アーメン」と唱えます。この「アーメ ン」とはどのような意味でしょうか。なぜ私たちは「アーメン」と唱えるのでしょうか。実は「アー メン」は不思議な言葉です。「マラナ・タ」や「エパタ」あるいは「タリタ・クミ」や「ホサナ」や「ハ レルヤ」などと同じように、聖書の元々の言葉そのままが伝えられているのです。敢えて翻訳せずに 原語で伝えることに意味があると初代教会の人々は判断したのです。私たちもそれを受け継いでいる のです。  そこでもし「アーメン」を日本語に訳すとすれば、それは「神の真実」という意味になるのです。 元々ヘブライ語の「エメト」という言葉です。「アーメン」というのはそのギリシヤ語読みです。その 意味は「神の真実」ですから、それは哲学者や思想家が考えるような文字に書いた真実ではなく、私 たちを罪から贖い救いと真の生命を与える「神の真実」なのです。ですから、ある優れた旧約の学者 は「アーメン」を「神の生命の充満」と訳しました。「神の真実」によって私たちはキリストの復活の 生命に満たされるからです。私たちの罪の贖いとなって下さった御子イエス・キリストの復活の生命 が私たちに豊かに注がれていること、それが「神の真実」(アーメン)です。ですから「アーメン」は それ自体が救いへの感謝の応答なのです。  ですから「アーメン」は必ず唯一の御名と結びついています。「主イエス・キリストの御名」です。 私たちは祈りの最後に「この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります」と申します。そし てすぐに「アーメン」と続くのです。「主イエスの御名」と「アーメン」は不可分離の関係です。つま り、私たちは「アーメン」と唱えることによって、十字架の主イエス・キリストによる贖いの出来事 がこの“私の救い”のための「神の真実」であることを告白するのです。そのキリストによる「神の 真実」が、キリストの御身体なる教会を通して、罪に死したるこの私に豊かに注がれている。まさに その「神の生命の充満」に与る者とされている。その感謝を私たちは「アーメン」という言葉であら わすのです。  さらに、こういうことも言えます。私たちが「主の祈り」の最後に「アーメン」と唱えるのは(他 のどんな祈りでも同じですが)この祈りは、私の能力や相応しさや資格によって献げられるものでは ない、ただ主イエス・キリストによる「神の真実」(救いの出来事)に与る者とされていることの感謝 と告白であることを言いあらわしているのです。ですからこのことは、私たちが何によって“祈りの 生活”をなすのかということ、ひいては、私たちが何によって“信仰の生活”を続けてゆくのかとい うことと深く関わっています。それは少しも私たち自身の能力・相応しさ資格によるものではないと いうことを、私たちは「アーメン」という言葉によって大胆果敢に告白してゆくのです。  そうです「大胆果敢に」です。私たちは畏れつつここに佇まざるをえません。それは、私たちに共 通した想い・経験があるからです。自分が信仰者(キリスト者)としてどんなに弱く、不確かなもの に過ぎないかという思いです。主がご自身の生命を献げて贖い取って下さった教会に連なる者とされ、 主の弟子とならせて戴いた私たちなのに、自分を省みるとき、そのあまりの弱さと脆さに愕然としま す。神との関わりだけではなく、対人関係においても、なおさらそのように言わねばなりません。煩 雑な人間関係の中で、私たちは人との出会いを喜ぶことができず、むしろ出会わなければ良かったと、 他者を否定するような思いの中で、他者に対して審きを振りかざし、また自分に対して絶望する罪を おかすのです。キリストの弟子とされていながら「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」と競い争っ ていた弟子たちの姿、そしてその行き着く先に、十字架の主を見捨てて逃げ去った弟子たちの姿は、 そのまま私たちの姿でもあるのではないでしょうか。  そのような私たちに、聖書はどんなことを告げているのでしょうか。第二コリント書1章18節を 改めて読みましょう。「神の真実にかけて言う」と使徒パウロは語ります。自分の真実などではない、 ただ「神の真実」のみが私たちに喜びの生命を(神の生命の充満を)もたらすのです。19節と20節 に注目しましょう。「なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがた に宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そう ではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼に おいて『しかり』となったからである。だから、わたしたちは、彼によって『アァメン』と唱えて、 神に栄光を帰するのである。  思えば、私たちこそ、聖なる神の御前に『否』としかされ得なかった者でした。「あなたは不真実だ」 と宣告され退けられるべき存在でした。ところが、そのような私たちをそのあるがままに、神は「あ なたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスによって」『しかり』(アーメン)となして下さったの です。ご自身の最愛の御子の生命をかけて、私たちの罪を存在の重みもろともに担い取って下さり、 私たちに「神の生命」を注ぎこんで下さり、私たちを「神の真実」によって生きる「義の僕」として 下さったのです。それが「神の約束はことごとく、彼(キリスト・イエス)において「しかり」とな った」という音信です。だからこそ(その「神の真実」によって)私たちは「(キリストによって)『ア ァメン』と唱えて、神に栄光を帰する」のです。  同じように、テモテ第二の手紙2章13節にはこうあります。「たとい、わたしたちは不真実であっ ても、彼は常に真実である」。そこで併せて、私たちは旧約聖書イザヤ書65章24節をも思い起こし ます。「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く」。「神の 真実」が私たちの「不真実」に常に先立っている。私たちの限りない「不真実」を、神の永遠の「真 実」が覆っていて下さる恵みを知るとき、私たちはそこではじめて、自分をも他者の存在をも、心か ら感謝をもって受け入れる者とされてゆくのです。「審きに打ち勝つあわれみ」に生きる僕とされてゆ くのです。  私たちの教会の大切な信仰の遺産である1560年の「ハイデルベルク信仰問答」の最後に「アーメ ン」についてこう記されています。〔問129〕「アーメンという、小さな言葉は、どういう意味ですか」。 〔答〕「アーメンというのは、これは真実であり、確かであるにちがいない、ということであります。 なぜなら、わたしの祈りは、自分の心の中に、自分が、このようなことを、神に求めている、と感ず るよりも、はるかに確かに、神によって、聞かれているからであります」。  なんという、慰さめに満ちた言葉でしょうか。それは、私たちは祈るとき、どこかで躊躇いの思い を抱くからです。心のどこかで、自分は本当に祈ってよいのだろうか?。自分は祈りを献げる資格の ある人間なのだろうか?。そういう引っ掛かりを感じるからです。言い換えるなら、私たちの心の中 には神に対する「真実」が希薄であると感じているからです。しかし聖書は、また聖書にもとづくハ イデルベルク信仰問答は、そうではないと宣言するのです。「わたしの祈りは、自分の心の中に、自分 が、このようなことを、神に求めている、と感ずるよりも、はるかに確かに、神によって、聞かれて いる」。ここにあなたの「祈りの生活」の幸いの根拠がある。その「神の真実」が、弱く脆く不確かな 私たちを存在の深みから支え、覆っていることを知るのです。  そのとき、私たちの「祈りの生活」(信仰の生活)は、はじめて生きたものになるのです。「アーメ ン」という小さな言葉は、この限りない「神の真実」に対する私たちの応答なのです。だからある英 語の辞書には「アーメン」の訳語を「しかあれかし」としています。これを訳されたのは島村ヨハネ という英語学者です。すばらしい翻訳だと思います。「しかあれかし」とは「神の真実のままに、わが 身になりますように」という意味です。私たちの思いや願いや、私たちの真実ではなくて「神の真実」 がいま、この私に実現しますようにと願うのです。それはあのクリスマスにおいて、受胎を告知され たマリアが天使ガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になります ように」とお応えしたのと同じ心です。それこそ、私たち全ての者に与えられている「主の祈り」に 生きる者の心なのです。  先ほどの第二コリント書1章20節もはっきりと語っています。神の約束はことごとく、キリスト・ イエスにおいて「しかり」となったのだと。神が私たち全ての者のために独子キリストを与えて下さ ったことは、神の側で「しかり」と宣言して、私たちを受け入れて下さった事実です。私たちの「ア ーメン」は、この神の恵みの出来事に対する応答なのです。「だから、わたしたちは、彼によって『ア ァメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである」。だから、こう言ってもよい。私たちのどんな真実の 祈り、存在を注ぎ出すどんな祈りよりも、遥かに大きな「神の真実」をもって、神はすでに私たちを 捕らえていて下さる。だから私たちは臆せず安心して「祈りの生活」(信仰の歩み)を続けてゆきます。 いみじくもハイデルベルク信仰問答も語っています。「アーメン」は「小さな言葉」であると。しかし その「小さな言葉」に測り知れない神の救いの恵みが満ち溢れているのです。それこそ「神の生命の 充満」があるのです。  私たちはごく単純なひとつの事実を思います。私たちがこの礼拝堂を去るとき、最後に声を合わせ て唱える言葉はいつも「アーメン」なのです。共に数人が集まって祈りを合わせるときにも、いつも 私たちは「主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と唱えるのです。この「小さな 言葉」を宝石のように大切な信仰の証として、私たちはここから世の旅路へと遣わされてゆくのです。 先日は私たちの群から2人の兄弟が相次いで天に召されました。その兄弟たちの最後の言葉もまた「ア ーメン」でした。それは私たちも同じです。私たちもまた臨終の際において「アーメン」と唱えるの ではないか。言葉に出なくても心で唱えて天に召されるのです。その意味で「アーメン」とは、人間 にとって(世界と歴史にとって)最終的かつ決定的な「救いの言葉」です。なによりもその「小さな 言葉」は主イエス・キリストみずからお教え下さった言葉です。私たちのためにご自身の全てを献げ 尽くして下さった主イエス・キリストの恵みに、私たちは「アーメン」という言葉によって、今も後 も永遠までも変わることなく連なる者とされている。ともにこの言葉によって「神の真実」に生かさ れ、主の教会に仕え、信仰の生涯を全うして参りたいと思います。