説    教   歴代志上29章10〜13節  ヨハネ福音書17章1〜5節

「御国と権威と栄光」

 主の祈り講解(12) 2015・01・18(説教15031573)  毎週の礼拝の中でご一緒に「主の祈り」から福音の御言葉を聴いて参りました。今朝はその第12 回目、与えられた御言葉は「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」です。この言葉は厳密 に言うなら「祈り」ではなく、むしろ「頌栄」(神への讃美)と言うべきものです。そこで、この「頌 栄」は主イエスが弟子たちにお教えになった本来の「主の祈り」には含まれておらず、後の時代に初 代教会によって付け加えられた文言だと考えられています。実際、マタイ伝6章にもルカ伝11章に もこの「頌栄」は記されていないのです。もともとの「主の祈り」は「われらを試みに遭わせず、悪 より救い出したまえ」で終わっているのです。そのためでしょうか、たとえばローマ・カトリック教 会などでは今日でも「主の祈り」は「われらを試みに引きたまわざれ」(われらを試みにあわせないで 下さい)で終わります。「国と力と栄とは…」という「頌栄」は出てこないのです。  しかし、教会はかなり早い時代にすでにこの「頌栄」の言葉を加えて「主の祈り」を祈ってきまし た。それは譬えて言うなら、礼拝のいちばん最後にかならず「頌栄」が歌われるのと同じことです。 実際に西暦2世紀に書かれた「十二使徒の教訓」という文書の中に、すでに「主の祈り」がこの「頌 栄」を含めた形で出て参ります。ハインツ・シュールマンというカトリックの聖書学者はこの事実に 触れ「われわれもまた『十二使徒の教訓』またプロテスタント教会の尊い伝統に倣って、この最後の “頌栄”を祈ってはいけないという理由はどこにもない」とのべています。  そこで、私たちはこの「頌栄」の言葉を口にするたびに、いつもどのような想いで「主の祈り」を 祈り、礼拝生活を送っているのか、改めて福音の原点に立ち返る思いをさせられるのです。それはな により「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」という3つの言葉の持つ大きな意味にあり ます。これは旧約・歴代志上29章11節から来た言葉です。ということは、主イエスご自身も十二弟 子にこの祈りをお教えになったとき、最後にこの「頌栄」をもお教えになったのではないでしょうか。 さらに歴史的なことを申しますなら、当時のユダヤ人の祈りが全てそうであったように、弟子たちは 当然のごとく「主の祈り」の最後に歴代志上29章11節に基づいて「国と力と栄とは、限りなく汝の ものなればなり」と唱えたに違いないのです。  さて、そこで私たちは「…なればなり」という文言に心を向けたいのです。それは祈りと祝福と救 いの根拠をあらわしています。大切なことは、それがこの「主の祈り」全体にかかる「…なればなり」 だということです。ごく単純なことを考えれば良いのです。「主の祈り」の最初の祈願は何であった か?。それは「願わくは御名を崇めさせたまえ」でした。それならば最後の「頌栄」は、この最初の 祈願と深く関わるのではないでしょうか。いついかなる時にも、どのような境遇にあっても、私たち はまず主なる神の「御名」を崇めます。礼拝中心の生活を大切にします。それは、私たちを極みまで も愛し、私たちのために十字架を担って下さった御子イエス・キリストにこそ、私たちの祈りと祝福 と救いの根拠があるからです。世界の救いと自由と幸いは十字架のキリストにのみあるのです。だか ら神を崇めること、神の御名を信じること、礼拝者として歩むことにこそ、私たち人間の本当の幸い と自由があります。まさに私たちは、私たち全ての者に与えられた十字架の主による“救いの出来事” を「国と力と栄」という言葉で告白するのです。言い換えるなら、それはキリストによる救いの「御 国と権威と栄光」です。そこに「御名を崇め」つつ礼拝者として歩む幸いが全て凝縮されているので す。  それでは「頌栄」の3つの文言を順に学んで参りましょう。まず「国」(御国)とは何でしょうか。 それは目に見える国家、生じたり滅びたりする「国」のことではありません。「神の恵みの永遠のご支 配」のことです。神の国のみが永遠に変わることなく、滅びることなく、永遠に私たちの「天の国籍」 であり続けるのです。ですから歴代志上29章11節にはこうあります。「主よ、大いなることと、力 と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのもので す。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます」。  もともと歴代志上29章の「祈り」は、イスラエルの王ダビデがエルサレム神殿建設の起工式にお いて献げたものです。ダビデ王の時代はイスラエルの繁栄が絶頂に達した時代でした。しかしダビデ 自身は、自分のわざ、自分が建てるこの神殿は、ただ神の主権を現わす器にすぎず、まことの「国」 の「主」はただ神のみであられると告白するのです。29章14節です。「しかしわれわれがこのように 喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあ なたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです…われわれの神、主よ、あ なたの聖なる名のために、あなたに家を建てようとしてわれわれが備えたこの多くの物は皆あなたの 手から出たもの、また皆あなたのものです」。  私たちは「時と力と宝と祈り」とをもって神の教会に仕えます。主の教会の前に、私たちは奉仕す る者として集められています。それは、ただ御子イエス・キリストにおいて測り知れぬ救いの御業を なして下さった神のみが崇められ、その神の御国(神の永遠の恵みのご支配)のみが現われんために、 恵みによって私たち一人びとりの「時と力と宝と祈り」が豊かに用いられてゆく幸いです。「音楽の父」 と言われるバッハは、その作曲した楽譜の全てに「S.D.G」というサインを残しています。それ は「Soli Deo Grolia」(ただ神にのみ栄光を)の略です。バッハは自分の名を残さなかった。自分の音 楽を通してただ神の栄光が(救いの御業が)讃美されますようにと願ったのです。それは私たちの「教 会に仕える志」でもあらねばなりません。  次に私たちが心にとめるのは「力」です。これは「権能」また「権威」と訳されます。それは、私 たちを罪と死の支配から永遠に救い出して下さった、十字架の御子イエス・キリストの贖いの権威で す。ここで私たちは素朴な事実、譬えようもなき喜ばしい事実に直面します。それは、私たちの「力」 はまことに弱く、脆く、頼りないものに過ぎませんが、神の「力」(権威)のみが、永遠に変わらない 救いの主権として、御子イエス・キリストによって私たちの世界に現われたという事実です。言い換 えるなら、キリストは既に十字架にかかられ、ご自身を全き犠牲として献げ尽くして下さったのです。 この十字架の出来事こそ、私たちが「主の祈り」を献げるたびごとに覚え、感謝と讃美を献げる神の 「権威」です。その「権威」によって、私たちはいつも堅く支えられ、守られ、贖われ、救われてい るのです。  最後に「栄え」です。これは「栄光」のことです。私たちの祈りは、いつでもどこでも神の「栄光」 を崇めることに尽きると言ってよいのです。ではその「栄光」とは何であるか。それを端的に示す御 言葉がローマ書8章31節以下です。「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神が わたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、 わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらない ことがあろうか…わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事にお いて勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のもの も、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエ スにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。  これこそ神の「栄光」なのです。なによりも主イエスご自身、ご自分が担われる十字架の出来事を 「わたしの栄光」とお呼びになりました。十字架の主による「永遠の恵みのご支配」がいつも私たち と共にあり、決して変わることはない。だからこそ主は十字架を目前になさって「人の子が栄光を受 ける時が来た」と言われたのです。神の「栄光」とは、神が十字架の主により、神から最も遠く離れ ていた私たちを、御国の民として下さったことです。だからそれは私たちの「救い」そのものなので す。その「栄光」を知る私たちは、この世界と歴史の全体が、その救いの出来事の内にあることを知 らされています。すでに私たちの罪のために、主が十字架を担われ、生命を献げて下さり、甦られた 恵みを知り、感謝と讃美を献げる礼拝者として、すでに救いの出来事の成就を知る者として、私たち は喜び勇んで「主の祈り」を祈り続けてゆくのです。  「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」。この「頌栄」に生きる私たちを、そしてこの世 界を、神はもっとも良き賜物をもって満たし、祝福し、完成へと導いて下さるのです。