説     教      創世記3章1〜7節   マタイ福音書6章13節

「 誘惑と試練 」

 主の祈り講解(11) 2015・01・11(説教15021572)  今朝の御言葉は「主の祈り」の第6番目の祈り、「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」 です。マタイ伝6章13節を見ますと「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」 となっています。そこで一見したところ、この祈りは私たちにとって、とてもわかりやすい祈りのように 見えます。誰でも「試み」に遭うことは「嫌なこと」に決まっているからです。それと同時に、実はこの 第6番目の祈りほど、私たちにとって“わかりづらい”祈りもないのです。それはこの「試み」という言 葉の理解の難しさによります。「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」。主イエスがお教え下 さったこの「試み」という言葉は2つの日本語に訳すことができます。第一に「誘惑」。そして第二に「試 練」です。この2つの訳語は微妙に意味が違います。英語で申しますと「試み」は“テンプテイション” という言葉です。これはどちらかと言えば「誘惑」という語感に近いものです。  そこで、もしこの祈りを「われらを誘惑に遭わせないで下さい」と訳したならどうなるか。ここに難し い問題が生じます。それは、主なる神が私たちを「誘惑」に「遭わせる」かたであるということになるか らです。私たちがすぐに思い起こしますのはヤコブの手紙1章13節です。「だれでも誘惑に会う場合、『こ の誘惑は神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進 んで人を誘惑することもなさらない」。また続く14節にはこうもあります。「人が誘惑に陥るのは、それ ぞれ、欲に引かされ、さそわれるからである。…愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない」。  それなら、私たちは「試み」を「試練」と訳せば、それで良いのでしょうか?。そこにもやはり一つの 難しい問題が残るのです。それは、いまお読みしたヤコブ書1章12節にこうあるからです。「試練を耐え 忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受け るであろう」。ここでは「試練」という言葉は良い意味、ほとんど「祝福」という意味で使われています。 それを「忍びとおす」ことによって、私たちは「神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受ける」の だと言うのです。同じ意味で、ヘブル書12章には「訓練」という言葉も出て参ります。12章5節以下で す「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は 愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。そして7節以下にはこうもあり ます「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのであ る」。神は私たちを“かけがえのない子として”愛しておられるゆえにこそ、私たちに「訓練」(試み)を お与えになる。それを受ければ受けるほど、私たちが“神に愛されている子”とされていることが明らか になるのだと言うのです。  そうしますと、私たちはここで袋小路に入ってしまいます。もし私たちが「試み」を「誘惑」だと理解 するなら、神は「誘惑するかたである」ということになってしまう。では「試み」を「試練」(訓練)と訳 せば万事解決かと申しますと、むしろその「試練」とは「祝福」なのですから、なおのこと私たちが「わ れらを試みに遭わせないで下さい」と祈ることは矛盾している、ということになるのです。いずれにして も私たちはここで進退窮まるのです。この第6番目の祈りの難しさはそこにあります。  しかし、私たちは言葉の詮索をするためにここに集まっているのではありません。この「主の祈り」の 言葉を通して、十字架の主イエス・キリストの福音を聴くために集められているのです。なによりも、私 たちの日常生活の経験を思うなら「誘惑」か「試練」かという二者択一はあまり意味を持たないのではな いでしょうか。と申しますのは、私たちは人生において何かの「試み」(temptation)を受けるとき、そ れを「誘惑」として受けることもあれば「試練」として受けることもあるからです。否、それより何より、 私たちにとって「試み」は「誘惑」であると同時に「試練」でもあるのです。それが私たちの切実な実感 なのではないでしょうか。  具体的な例を挙げてみましょう。たとえば私たちが、愛する者の死という大きな悲しみに遭うことは確 かに「試み」です。健康であった人が突然の病に倒れることも「試み」です。仕事に失敗したり、思わぬ 挫折を経験することも「試み」です。人間関係の中で強いストレスを受け、夜も眠れぬほど苦しむことも 「試み」です。信頼していた人に裏切られることも「試み」です。大きな借金を背負うことも「試み」で す。地震や津波や台風などの自然災害によって深刻な被害を受けることも「試み」です。数えるならきり がありません。ある意味で私たちの人生は「試み」の連続であると申しても過言ではないのです。  そこで、これらの「試み」は私たちにとって「誘惑」であると同時に「試練」(訓練)でもあるのではな いでしょうか?。同じひとつの「試み」に出遭っても、その「試み」は私たちにとって常に2つの側面(意 味)を持つのです。たとえば、信頼していた人から酷く裏切られたとします。そのとき私たちは、悲しみ と怒りのあまり、その相手に仕返しをしたいという「誘惑」に駆られることがあります。しかし、もしそ の悲しみと怒りの経験を信仰によって受け止めるなら、そこで私たちはより大きな、そしてより豊かな人 生を生きることができるのではないでしょうか。つまり「試み」を「誘惑」ではなく「試練」(訓練)とす るものは「信仰」なのです。言い換えるなら、私たちは同じひとつの「試み」に遭っても、主イエス・キ リストに対する信仰によってそれを受けとめるなら、それを「誘惑」ではなく「試練」として受け止める 者とされるのです。主イエスを唯一の「主」とし、主の御手の内に堅く支えられつつ生きるとき、私たち は「試み」の中で「誘惑」に打ち勝ち、それを「試練」として、神の祝福を見いだすことができるように なるのです。  それは聖書をよく読むとき、はっきりとわかることです。たとえば創世記25章以下に記された「ヤコ ブ物語」の中に、今朝の「主の祈り」に通じる出来事を見出すことができます。ヤコブは信仰の弱さのゆ えに自分を「主」として自分を誇り、その結果、父と兄とを欺いて長子の権利を奪うという「誘惑」に陥 りました。なによりも「ヤコブ」という名それ自体が「欺く者」(誘惑に陥る者)という意味です。しかし ヤコブは人生の中で、主なる神から様々な「試み」を与えられ、その「試み」を通して本物の信仰に目覚 めてゆきます。自分の罪を心から悔改め、自分を「主」として歩む傲慢さを悟り、神の御手に拠り頼み、 神の恵みによって、父と兄に心から許しを求める者とされてゆきます。そして「イスラエル」(神の恵みの ご支配)という新しい名を与えられます。本当の神の僕へと成長してゆきます。ヤコブに与えられた「試 み」は、彼を養い育て導いて、イスラエルの祝福へと導く「試練」(訓練)となったのです。  私たち人間は誰しも「試み」を受けるのは嫌なものです。なんとかして「試み」は避けたいと願います。 しかし私たちの人生は「試み」の連続です。その経験の中でこそ私たちは神に拠り頼むべきなのに、逆に 自分を「主」とし自分の願いを第一とする「誘惑」に陥るのです。だからこそ、そのような私たちに主イ エスは「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈ることをお教え下さいました。驚くべき 御言葉ではないでしょうか。主はここにはっきりと「悪より救い出したまえ」と祈りなさいと私たちに教 えておられるのです。私たちは「試み」においてこそ「悪」の支配(罪の支配)を受けてしまうからです。 自分を「主」とするとはそういうことです。神ではないものを「主」とするとき、私たちはいとも簡単に 「悪」の支配に身を委ねてしまうのです。「誘惑」に陥るのです。  主イエスが私たちにお示しになった「悪」とは、実は私たちの「罪」から来る恐るべき力のことです。 私たちを神から引き離そうとする「誘惑」です。今朝併せてお読みした旧約聖書・創世記3章1節以下に 「失楽園」の出来事が記されています。「アダム」と「エバ」は私たち人間の代表です。主なる神は彼らを エデン(完全な祝福)の園に住まわせ、そのどの木からも自由に実を取って食べてよい。しかし「園の中 央にある木の実」(善悪を知る木の実)だけは「これを取って食べてはならない」と言われました。大きな 限りない自由の中でのたった一つの禁止事項です。しかしそれを、私たち人間は守ることができないので す。そこに悲劇が起こるのです。「誘惑者」として登場するのは「蛇」(罪の象徴)です。つまり罪は巧み に私たちを「誘惑」し神の言葉に叛かせようとするのです。人間の欲望や知恵や力こそが「神」だと思わ せようとするのです。それが6節の「(木の実が)食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい と思われた」という言葉です。神の言葉(神の愛)に叛き、神から離れて生きることが真の自由なのだと 思わせるのです。それが「誘惑」の本質です。言い換えるなら、神の言葉よりも「蛇」(試みる者)の「誘 惑」に信頼してしまうのが私たちなのです。  これは人間としてまことに恥ずかしく、ありえない本末転倒ではないでしょうか。しかしその“ありえ ないこと”が現に起っているところに、今日の世界における私たち人間の全ての悲惨と混乱の根本原因が あるのです。私たちの世界は過去100年の間に2つの世界大戦を経験しました。どちらも言語に絶する惨 禍と数千万人におよぶ犠牲者をもたらしたのです。しかしある専門家の分析によれば、どちらの世界大戦 も必然性はどこにもなかった。防ごうと思えば実は防ぐことができた戦争だったのです。それができずに 全面戦争に突入したところに、まさにサタンの「誘惑」の恐ろしさがあるのです。  まさしく、そのような私たち(またこの世界)だからこそ、主イエスは「われらを試みに遭わせず、悪 より救い出したまえ」との祈りをお与え下さいました。「試み」そのものが悪なのではありません。その「試 み」が「誘惑」にならぬように、いつもあなたが私の唯一の「主」であられますように、という祈りなの です。この「悪」とは私たちを神の愛から引き離し、偽りの(幻想の)自由へと誘う「誘惑」です。しか も主イエスは、ただこの祈りの言葉を私たちにお与えになっただけではありません。「汝らかく祈れ」と仰 せになった主イエスご自身、あの“荒野の誘惑”において、神の御言葉によって全ての「誘惑」に勝利し て下さったかたです。そのご自身の勝利に、御身体なる教会を通して私たちを連ならせて下さるのです。  何よりも主イエスは、あのゲツセマネの園において、私たちの測り知れぬ「罪」(悪)のために、ご自身 を全く十字架上に献げ尽くして下さいました。十字架こそは主イエスにとってもまことに大きな「試み」 でした。大きな「誘惑」がそこにあったのです。しかし主はその十字架という御父からの「杯」を「試練」 としてお受けになり、従順にお従いになりました。「御父よ、わたしの思いではなく、御心のままになして 下さい」と祈りもうて、私たち全ての者のために、あのゴルゴタの十字架への道を歩み抜いて下さったの です。ですから、今まで学んで参りました5つの祈りもそうですが、何よりもこの第6番目の祈りにおい てこそ、私たちはいっそうはっきりと、これが十字架の主イエスご自身の「祈り」であったことを知らし められ、感謝と讃美を献げるほかはありません。私たちはここに、十字架の贖い主であり、復活の勝利の 主であられるキリストと共に、ただキリストの測り知れぬ恵みの御手によって、この第6の祈りを主と共 に祈り、あらゆる「誘惑」(悪)から救われる者とされているのです。キリストの勝利に連なる僕とされて いるのです。  そのとき、私たちの人生に大きな根本的な変化が起こります。たとえ私たちがどのような「試み」に遭 っても、もはや私たちはその試みを「誘惑」として「悪」に陥ることなく、かえって十字架と復活の主の 御手に堅く支えられ、守られ、贖われている僕として、それを「試練」(主の訓練)として受けることがで きる者とされているのです。だからこそ、ペテロ第一の手紙4章12節には、大きな喜びと確信をもって こう告げられています。「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、 何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれ ばあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」。 そしてヘブル書12章11節にはこうも告げられています。「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは 思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の 実を結ばせるようになる」。  私たちはこの「第6の祈り」によって、ただキリストのみを唯一真の「主」とし、多くの「試み」に満 ちた人生の歩みをも、主が共にいて堅く支え導き、全てを通して私たちを祝福し信仰を養い、周囲の人々 をも祝福して下さることを信じる幸いを与えられています。その幸いを確信することができるのです。私 たちは繰り返しこの「第6の祈り」によって、キリストの御手の支配の確かさに立ち帰ってゆきます。た とえ「試み」が今は悲しいものとしか見えなくとも、主は常に私たちと共にいて下さり、私たちを贖って 下さり、かならず私たちの人生の全体を祝福し「試練」を通して鍛えられる者たちに「平安な義の実を」 結ばせて下さるのです。