説    教     詩篇51篇17節    マタイ福音書6章12節

「 最も幸いなること 」

 主の祈 講解(10) 2015・01・04(説教15011571)  新しき主の年2015年を迎えました。この新年最初の礼拝において私たちに与えられた福音の 御言葉は「主の祈り」の第5番目の祈り「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく、われら の罪をも赦したまえ」です。マタイ福音書6章12節の言葉そのままで申しますなら「わたした ちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」という祈り です。  そこで、この第5番目の祈りは、実は私たちにとって、最も「難しい」と感じる祈りなのでは ないでしょうか?。当たり障りのない「ゆるし」ならまだしも「許しがたい」と感じている相手 を前にして、やはり私たちはこの祈りを素直に献げることはできないのではないでしょうか。題 名は忘れましたが、以前に読んだフランスのある小説に、礼拝中に会衆が「主の祈」のこの部分 でとたんに口ごもってしまった、という場面がありました。それは戦争で酷いことをされた敵の ことを皆が思い描いたからです。それで「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく、われら の罪をも赦したまえ」とは祈れなくなったのです。  それは決して、フランスの過去の話だけではないでしょう。現在の私たちに置き換えても、も し真実にこの祈りを献げようとするなら、私たちはやはり、そこで素直になれない自分を見出す のではないでしょうか?。「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく」と真実に祈りうる者 がはたして幾人いるでしょうか。あるいは私たちは、そういう深刻なことは棚に上げて、ただお 題目のようにこの祈りを唱えているだけなのかもしれません。しかし、少しでも真実にこれを祈 ろうとするなら、私たちも口籠らざるをえないのではないでしょうか。  そこで、私たちが祈っている言葉と今朝のマタイ伝6章12節の御言葉を較べてみてすぐ気が つくことは、私たちが「罪」と言っているところがマタイ伝では「負債」と訳されていることで す。ルカ伝11章でも同じように「負債」と訳されています。もっともルカ伝のほうでは、続く 言葉が「わたしたちの罪をもおゆるしください」となっています。そこで私たちはこの「負債」 とはすなわち、私たちの「罪」のことなのだとわかるのです。つまりこの第5の祈りは“罪の赦 しを主に願い求める祈り”なのです。  さて「負債」とは直訳すれば“借金”のことです。既にここに、ひとつの大切な音信が告げら れています。それは主イエス・キリストご自身、私たちに「借金の譬え」をお用いになって私た ちの「罪」そして「罪の赦し」を語られたことです。それは同じマタイ伝の18章21節以下で す。弟子のペテロが主イエスに対して「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆ るさねばなりませんか。七たびまでですか」と問うたのです。同じ人の罪を七回も赦す、それ自 体大変なことでしょう。ペテロはユダヤの律法に「七たびまでは罪を赦しなさい」という掟があ ることを思い出し、主イエスに「本当に七たび赦さなくてはならないのですか?」と訊ねたので す。  ところが主イエスのお答えは、ペテロの予想を遥かに超えたものでした。主は18章22節に こう言われたのです。「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。 「七たびを七十倍」とは7×7の「490回赦しなさい」という意味ではありません。無条件で無 限に相手を赦しなさい、あなたは際限なき赦しに生きる人になりなさいと、主はお教えになった のです。これにはペテロをはじめ弟子たち一同が心から驚いたのではないでしょうか。「もう主 イエスにはついてゆけない」と思った弟子もいたかもしれません。ただでさえ「キリストの弟子」 という理由だけで謂れのない迫害を受けていた弟子たちてす。恨みも怒りもあったのです。だか らこそ「七たびも許すのですか?」と訊ねたのです。それを「限りなく赦しなさい」と言われた のですから、弟子たちにはまことに意外な答えでした。  そこで主イエスは、ひとつの譬をお語りになりました。18章23節以下です。ある王様から「一 万タラント」の借金をしていた家来がいました。「一万タラント」とは今日の金額に直すなら600 億円です。小さな国の国家予算ぐらいの額です。そこで王様は彼がその莫大な借金を返せないこ とを憐れみ、彼を赦して借金を全て帳消しにしてやったのでした。ところがその家来はその帰り 道、自分が「百デナリ」(50万円ぐらい)の金を貸している「仲間」に会ってその「負債」の返 済を迫り、彼がそれを返せないと知るや、彼を裁判所に訴えて牢獄に入れてしまったのです。そ のことを伝え聞いた王様は怒って、彼に対する借金の帳消しをご破算にした、という話です。ま さにここでは「負債」とその帳消しが「罪」とその「赦し」をあらわす譬えとして用いられてい ます。家来は王様から「一万タラント」の膨大な「負債」を帳消しにして戴いたのです。圧倒的 な赦しの恵みを戴いたのです。それに対して「百デナリ」は「一万タラント」の三万分の一以下 の金額です。それなのにこの家来は、その「百デナリ」の「負債」を赦すことができなかった。 それに対して王様は「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」と言ったの です。  この譬の「王」とは主なる神のことであり「悪い僕」とは私たちのこと、そして「仲間」とは 私たちの隣人のことです。つまりここで主イエスが明らかにしておられることは、私たちが主な る神(王)に「罪」を赦して戴いた限りない恵みと、私たちが他の人の「罪」を赦すこととの関 係です。主なる神は私たちの「一万タラント」の「負債」を赦して下さった。その限りない“赦 しの恵み”を受けたはずの私たちは、「百デナリ」の「負債」のある隣人をも赦すべきではない か。それが「七たびを七十倍するまで(赦しなさい)」という主イエスの御教えです。「主の祈り」 の「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りは、 まさにこの神の限りない“赦しの恵み”に生かされている私たちの姿を示し、そこに生きる私た ちの幸いを告げているのです。  現実問題として、本当に他者の「罪」を「赦す」ことほど難しいことはないのです。まさにそ の難しさ(人間の限界・罪)のただ中にこそ、今朝の主イエスの御声は響いています。まことに 具体的に、私たちに対して「罪」をおかす人々があるという現実、そして私たちも同じように「罪」 をおかす存在だという現実を、主は語っておられるのです。まさにその私たちにこそ、主イエス は「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈りつつ生き る、新しい祝福の人生を与えて下さいました。  私たちがよく間違えるのはこの「ごとく」です。これを私たちは、自分が相手を赦せば、その 程度に応じて神も私を赦して下さる。つまり神と自分との取引をあらわす意味で「ごとく」とい う言葉を理解するのです。それは間違いです。この「ごとく」とは「程度に応じて」という意味 ではなく「主よ、あなたの十字架の恵みにひたすら立つ者とならせて下さい」という意味です。 従ってこの第5の祈りはこういう意味になるのです。「我らに罪をおかす者をわれらが赦すごと く、主よ、あなたの十字架の恵みにひたすら立つ者とならせて下さい。まさにその恵みにおいて、 我らの罪をお赦しください。そして、まさにあなたの赦しの恵みを、私もまた隣人に対して持つ 者とならせて下さい」。  前回は「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ」との祈りを学びました。この「日用の糧」 とは「不可欠な糧」つまり神の御言葉のことです。その祈りに続いてすぐに、私たちの「罪」の 赦しが祈られるのです。それこそ私たちに「不可欠な糧」だからです。私たちは、どんなに豊か に物に囲まれ、生活に満ち足り、健康に恵まれても、神に対する“罪の赦し”がなければ全ては 虚しいのです。言い換えるなら、神に対する「罪の赦しの福音」に生かされてこそ、はじめて私 たちは心の中の貸借対照表を反故にして、隣人に対しても健やかな関係を築くことができるので す。「一万タラント」を赦して戴いた恵みによってこそ、はじめて隣人の「百デナリ」の「負債」 をも赦しうる者とされるのです。  本日、併せて旧約聖書・詩篇51篇を拝読しました。この詩篇には有名な表題があります。「聖 歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後、預言者ナタ ンがきたときによんだもの」。まことに具体的な「罪」が示されています。ダビデはイスラエル の王という立場を悪用して、家臣ウリヤの妻バテセバを無理やり奪ったのです。加えてその罪を 隠蔽するために、陰謀によってウリヤを激戦地に送って意図的に殺害しました。しかし完全犯罪 に思えたその「罪」は主なる神の眼には明らかでした。預言者ナタンがダビデのもとに来て悔改 めを迫ります。そのときにダビデが歌った詩篇(悔改めの祈り)がこの詩篇51篇なのです。こ の51篇4節に「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行い ました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは 誤りがありません」と歌われています。ダビデがウリヤに対してなした「罪」は主なる神に対す る「罪」であった。そして10節を見ますと「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしの うちに新しい、正しい霊を与えてください」とあります。ダビデはこの祈りにしか生きえなかっ た。自分の内には神に義とされるに相応しい何物もないことを知り、だからこそひたすらに「神 の義」のみを求めたのです。みずからの力によってではなく、神の赦しの恵みに立つ以外になか ったのです。そして17節にはこう祈られます。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神 よ、あなたは砕けた悔いた心を、かろしめられません」。  神こそが、主イエス・キリストのみが、私たちの「罪」を本当に、根本から赦して下さるかた なのです。だから神にこそ「罪の赦し」を祈り求めねばならないのです。私たちにはこのことが、 なかなかわかりません。人に対する「罪」だけを見て神に対する「罪」を見ない時、実は私たち はなお、心の中に貸借対照表を隠し持っています。だからその「罪」は相対的なものに過ぎなく なるのです。「お互いさまではないか」と開き直るのです。罪の認識と自己弁護とが絶えず同居 しているのです。主イエスは、そのような私たちをこの悪循環から解放して下さいます。そのた めにこそ、この第5の祈りを教えて下さったのです。互いに負い目を数え合うのではなく、神に “罪の赦し”を祈り求めなさい、そこにあなたの本当の自由がある。そこにあらゆる人間関係の 破れを癒し、人生を根本から祝福する、本当の生命があるではないか。神との関係において新し くされてこそ、私たちは隣人との関係においても新しく生きる者とされるからです。  そのことはなによりも「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく」という言葉に現れてい ます。ギリシヤ語の原文では、この言葉が「われらの罪を赦したまえ」のあとに来ます。つまり、 この第5の祈りを直訳するとこうなるのです。「罪の贖い主なる神よ、私たちの測り知れぬ罪が、 御子イエス・キリストによって完全に赦された、そのあなたの恵みに生かされた者として、私た ちもまた、隣人の罪を赦す幸いに生きることができますように」。  言い換えるなら、私たちは「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦 したまえ」と祈るたびごとに、私たちがいつも、どこでも、神によって(十字架の主イエス・キ リストによって)測り知れない「罪」(一万タラントの負債)を赦されたのだ、帳消しにして戴 いたのだという“罪の赦しの福音”に生きる僕であることを感謝と喜びをもって言いあらわすの です。なぜなら、神はキリストの十字架において、私たちの「一万タラント」の「負債」を完全 に赦して下さり、私たちを真に自由な神の子とし、御国の民として下さったからです。 「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。私たちはこの祈 りを献げるたびごとに、この私のための、そして全世界のための、十字架のキリストによる“罪 の贖いの恵みの確かさ”に生きる者とされてゆきます。「主の祈り」を与えられている私たちは、 すでに主イエス・キリストの十字架の死による完全な救いの恵みを戴いているのです。私たちは 「一万タラント」の「負債」をすでに赦された者なのです。だから私たちが「われらの罪をも赦 したまえ」と祈るのは、このキリストによって既に与えられている“罪の赦しの福音”恵みを本 当に受け、その恵みの確かさに生きる者とされる幸いです。そこにこそ人生において「最も幸い なること」があるのです。新しいこの2015年の歩みを、希望と感謝の歩みとなすべく、いま私 たちはこの祈りに健やかに立ちたく思います。