説     教    イザヤ書55章1〜5節   マタイ福音書6章11節

「 唯一の御糧もて 」

 主の祈講解(9) 2014・12・28(説教14521569)  聖暦2014年最後の主日礼拝を迎えました。この一年、主から与えられた恵みと祝福を思い、 感謝をもって新しい主の年・2015年へと歩んで参りたいと思います。この2014年最後の主日、 私たちに与えられた御言葉は「主の祈り」の第4番目の祈りです。それは「われらの日用の糧を 今日も与えたまえ」です。この「日用の糧」とはどういう意味でしょうか?。まず「糧」とは元々 のギリシヤ語を直訳すれば「パン」という意味です。ごく日常の食事を意味します。私たちが食 事を「ごはん」と呼ぶのと同じ感覚です。つまり「糧」とは「主食」のことです。「欠かすこと のできない食事」「無くてならない糧」という意味です。それを「今日も与えたまえ」と神に祈 るのです。  そこで、もしこの「糧」を単に「肉体に必要な食物」だと理解するなら、私たちはこの祈りを それほど切実なものとはしないのではないでしょうか。なぜなら、神に祈らなくても食物に困る ことは(少なくとも現代の日本では)ほとんどないからです。どこのスーパーやコンビニに行っ ても、選ぶのに困るほど食物が並んでいます。いつでもなんでも好きなものを好きなだけ食べら れる。そうした中で「日ごとの糧」(主食)を神に願い求め、この「糧」は神からの賜物だと感 謝して食べることは、キリスト者の家庭の「食前の祈り」だけに見られる「特殊な仕来り」にな っているかもしれません。  それならば、今日のような「飽食の時代」の日本において、この祈りは意味を失っているので しょうか?。もちろんそうではありません。むしろ私たちは、食物の有り余る現代社会の中でこ そ、本当の“生命の糧”を得ることができず「飢えている」のではないでしょうか?。主イエス はマタイ伝4章4節に「人はパンのみにて生くるにあらず。神の御口より出る一つひとつの言葉 によるなり」と言われました。実は現代社会においてこそ、私たちは本当の「糧」(主食)に飢 えているのです。私たちの魂を本当に養い育て、力と平安を与える「主食」はいつの時代にも、 どんな状況の中でも、主なる神に祈り求めてゆくべきものなのです。  神から与えられる真の「唯一の糧」なくして、私たちは飢え死にするほかはない存在です。有 り余るほどの食物の中で、魂が餓死してしまうのです。預言者アモスが見つめた「言葉を聴くこ との飢饉」が現代社会を覆っています。あるいはこうも言えるでしょう。どんなに食物が豊かで も、病気になって身体が衰弱すれば、その食事さえ満足に摂れない状態に私たちはなるのです。 点滴だけで生命を維持するという状態になるのです。その時に、私たちを本当に生かし養ってい る「糧」が何であるのか、なおさら明確になるのではないでしょうか。  目に見える「食物」によってしか養われていない人は、それが摂れなくなった時に全てを失い ます。自分を養い、力を与えてくれるものが、何も無くなってしまうからです。しかし魂を養う 真の「唯一の糧」を神から受けている人は、なおそこでこそ豊かに養われ、力づけられ、慰めら れ、支えられているのです。私たちには「悲しみで食事も喉を通らない」ということがあるでし ょう。心を押し潰すような悩み、苦しみ、悲しみ、心配ごとに捕らわれるとき、どんな食物もも はや養いとはなりません。しかし主なる神が下さる「唯一の御糧」に養われる人は、その悩み、 苦しみ、悲しみのただ中でこそ、なお平安の内に立ち上がり、主と共に歩むことができるのです。 それが「我らの日用の糧」の意味であります。それならば「われらの日用の糧を今日も与えたま え」という祈りは、まさにそのような意味で、私たちを本当に生かしめる真の「糧」(無くてな らぬ唯一の糧)を願い求める「祈り」です。その「糧」を天の父なる神に求めるようにと主イエ スは教えて下さり、しかもその祈りを「主の祈り」の第4番目の祈りとして与えて下さったので す。私たちの生活と人生は、ただ神が与えて下さる真の「無くてならぬ唯一の糧」によってのみ 支えられ、養われ、導かれてゆくからです。  そこで、次に私たちのまなざしは「われらの日用の糧」とある「日用の」という言葉向かいま す。これは口語訳の聖書では「日ごとの」と訳され、新共同訳では「必要な」と訳されています。 この両者に大きな違いはありません。「日ごとの糧」はすなわち「必要な糧」だからです。とこ ろが元々のギリシヤ語を見ますと、意外な事実に気がつくのです。「日用の」と訳された元々の ギリシヤ語は“エピウーシオス”という言葉です。これは聖書の中でマタイ伝6章11節だけに 出てくる言葉です。この“エピウーシオス”の“エピ”とは「上」という意味、そして“ウーシ オス”は「本質」また「存在」という意味です。ですからこの「日用の」(エピウーシオス)と は「存在の上の」または「存在のための」という意味になり、そこから「私たちの存在を根底か ら支え養う唯一の糧」という意味になりました。だからそれは「日用の糧」なのです。それを「今 日も与えたまえ」と祈る幸いを主イエスは与えて下さいました。「われらの存在をして存在たら しめる唯一の糧」を「今日も新たに与えて下さい」と祈る幸いです。まさに主イエスが言われた 「人はパンのみにて生くるにあらず。神の御口より出る一つひとつの言葉によるなり」です。そ の「無くてならぬ唯一の糧」こそ、生ける「神の言葉」なのです。  そこで、本日あわせてお読みした旧約聖書イザヤ書55章1〜5節を、改めて心にとめましょう。 その2節にこうございました「なぜ、あなたがたは、糧にもならぬもののために金を費し、飽き ることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べる ことができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる」。私たちはまことに「糧にも ならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労する」ことが多いのではない か?。求めるべき「無くてはならぬ唯一の糧」は求めずして「糧にもならぬもの」を必死で追い 求めている私たちではないでしょうか?。預言者イザヤのこの言葉は、現代の私たちにこそ痛切 に響く問いなのです。  ここに「わたしに良く聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、 自分を楽しませることができる」とあります。この「自分を楽しませることができる」とは「身 も心も、魂さえも豊かに養われ、本当の幸いを知ることができる」という意味です。もし私たち が「われに聞き従え」(御言葉を受けよ)と言われる主の御声に従い、主イエス・キリストを信 じ、教会に連なって信仰に歩むなら、そのとき私たちの人生は真に豊かな「無くてならぬ唯一の 糧」で満たされるのです。虚無と絶望は私たちから去り、キリストの生命に与り、復活の生命に 覆われて生きる者とされるのです。神の言葉を聴き、それに従ってゆくことこそ、本当の「唯一 の糧」なのです。そこに本当に「良い物」「最も豊かな食物」があるのです。  繰り返し申します。神の言葉こそ「無くてならぬ唯一の糧」(われらの日用の糧)なのです。 だからこそ続く3節には、神に「聞き従う」ことの内容がこう告げられています。「耳を傾け、 わたしに来て聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、 とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える」。神の言葉を聴くこ と、その言葉が私たちに与える救いの恵みは「わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立て、 ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える」という主なる神の御言葉を、いまこの私たちの ための永遠の祝福の宣言として聴くことです。だからこの第4番目の祈りでも、神が救い主であ られる事実のみが私たちを覆っています。神が私たちと「変らぬ確かな恵みの契約」を結んでい て下さる。それは神が御子イエスにより、私たちと特別の“永遠の交わり”を持って下さる救い の出来事であり、私たちを神の民として、神のもとで、その恵みと慈しみによって養い、生かし、 導いて下さる幸いです。私たちに相応しさが何ひとつ無くても、ただ神の側から一方的に、私た ちとそのような恵みの関係を結ばんと手を差し伸べていて下さる、その事実をこの御言葉は語る のです。  ですからそれに「聞き従う」とは、神が差し伸べていて下さるその御手に応え、私たちの手を 伸ばすことです。私たちの手を取って下さる神を信じることです。そのとき、私たちは無条件で その交わりに生きる者とならせて戴けます。神の恵みと慈しみによって養われ、生きる者にして 戴けるのです。そこにこそ、「唯一の糧」に養われ「最も豊かな食物」でまことの幸いに生きる、 私たちの存在を存在たらしめる、本当の「唯一の糧」があるのです。そして神は、その「不可欠 な糧」を、何の価もなしに私たちに与えて下さいます。イザヤ書55章1節です。「さあ、かわい ている者は、みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、 金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」。これはまことに不思議な言葉です。「金の ない者も来たれ」と告げつつ、そこで「金を出さずに…買い求めよ」とあるからです。矛盾して いるように見えます。その意味は、既に神の御子イエス・キリストが、十字架によって、私たち 全ての者のために罪の代価を支払って下さった。だから私たちに求められているものは信仰のみ なのです。それが「金を出さずに…買い求めよ」との招きです。  だから、この第4の祈りは、大いなる救いの恵みの宣言です。あなたのために十字架にかかっ て下さった主イエス・キリストを信じなさい。キリストの生命の中に飛びこんで来なさい。主イ エスのみが私たちの全ての罪のために、十字架に贖いの死を遂げて下さった救い主である。私た ちはいま、この十字架の主によって限りない赦しと贖いの恵みを与えられ、神の永遠の恵みのご 支配のもとに生きる、神の民とならせて戴いたのです。代価は全て主が支払って下さった。救い は主が成し遂げて下さった。私たちはみなその恵みを受けるだけでよいのです。「われらの日用 の糧を今日も与えたまえ」とは、まさにこの十字架の主キリストの贖いの完全な恵みによっての み、私たちの日々の祈りとなり、そこに生きる私たち全ての者を「無くてならぬ唯一の糧」によ って養い、力と慰め平安と勇気を与え、神の民としての新しい歩みへと導くものなのです。