説    教    イザヤ書7章14節   ルカ福音書2章1〜7節

「無余地の神」

 2014年 聖夜礼拝 2014・12・24(説教14481568b)  2014年のクリスマスを迎えました。クリスマスとはラテン語で「キリストを礼拝する日」 という意味です。ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった神の御子イエス・キリストを心から 喜び迎え、御子イエスのご降誕の喜びと祝福を全世界に宣べ伝える日、それが今日のクリスマ ス・イヴです。  クリスマスには、2つのクリスマスがあるのです。「キリストがお生まれになるクリスマス」 と「キリストがお生まれにならないクリスマス」です。私たちはもちろん「キリストがお生ま れになるクリスマス」を迎えたいと願います。形だけではない本当のクリスマスを祝うために、 ここに集まっているのです。  今年を象徴する漢字は「税」という文字だそうです。なんだか違和感を感じてしまうのが私 たちの正直な気持ちではないでしょうか?。私たちは改めてこの一年も、人間の自己中心の思 いが世界を支配してしまったことを振返ります。エゴイズムの“エゴ”とはギリシヤ語で「自 分だけ」という意味です。そこに罪の本質があります。「税」という文字もそうです。少なく とも「(税を)納める者」と「税を受けて民を支配する者」の社会であってはなりません。し かし一方で、経済格差や派遣労働者や最低賃金など、構造的弱者を生み出す問題が私たちの社 会にはあるのです。  それでは主イエス・キリストは、どこに、どのような場所に(どのような社会に)お生まれ になったのでしょうか?。それこそまさに「税」という文字が全てを象徴するような社会でし た。先ほどお読みしたルカによる福音書2章1節から7節までのところに、キリストご降誕の 出来事が告げられていました。時のローマ皇帝アウグストが属国ユダヤの人々から人頭税を徴 収するために、全ユダヤ国民に「本籍地に帰って納税の登録をせよ」という無謀な命令を出し ました。この無謀な命令によって、ヨセフは「いいなづけの妻マリア」を伴ってガリラヤのナ ザレから遠く離れた「ユダヤのベツレヘム」まで長旅を強制されたのでした。臨月の妻マリア にとってそれは生命がけの旅でした。しかも、ようやく辿り着いたベツレヘムでは、どこの宿 屋も人で一杯でした。だからマリアは馬小屋で「月満ちて」男の子を産みました。主イエスの ご降誕です。  このように、主キリストはまさに、この世界の「余地なき」暗闇のただ中にお生まれになっ たのです。病院でも王の宮殿でもなく、ユダヤのベツレヘムの片隅にある馬小屋の、飼葉桶を ゆりかご代わりに、主はお生まれになったのです。それは世界で最も貧しく、低く、暗く、寒 いところです。そこに最初のクリスマスの喜びが訪れたのです。神は大切なご自身の独子を「こ の世界は醜い駄目な世界だ」と言って送らなかったのではなく、まさに「醜い駄目な世界」の ただ中にこそお遣わし下さったのです。まさに「余地なきところ」にキリストはお生まれにな ったのです。それはまさしく、今夕のルカ伝2章7節に「「客間には彼らのいる余地がなかっ た」と告げられているとおりです。  「客間には彼らのいる余地がなかった」。この御言葉こそ、今なお続く私たち人間の底知れ ぬエゴイズムの罪を現わしています。主イエスのご降誕をお迎えするのに、どこにも「余地」 がない世界の(社会の)現実があるのです。しかし、どうか心にとめましょう。まさにそのよ うな「余地なきところ」にこそキリストはお生まれ下さったことを!。まことの神は「無余地 の神」なのです。それがクリスマスの出来事です。それは“神の愛の奇跡”です。「余地なき ところ」が「神ともにいます場所」になり、暗黒の中に神が訪れて下さったからです。「余地 なき」世界の現実の中にこそ、キリストはお生まれになったのです。あなたのために。そして 全ての人々のために。  私たちはこのクリスマスの出来事により、神から限りない祝福を戴いています。それは「ど んな時にも神があなたと共にいて下さる」という祝福です。私たちはこういう経験をします。 大きな苦しみに出遭い、孤独の中で苦しみや悲しみを経験するとき、誰か一人でよい、傍らで 共に涙を流し理解してくれる人がいれば、それだけで私たちはどんなに勇気づけられることで しょうか。それならば、そのかたがまことの神ならば、私たちには限りない勇気と希望と力が 与えられるのではないでしょうか。  ヨハネは「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と告げました。果てしない 闇の中に「すべての人を照らすまことの光」が、あなたのために、あなたのもとに来たのです。 この世界をどんなに大きな「闇」が支配しているように見えても、実はこの世界は、神が御子 イエス・キリストを「余地なきところ」に与えて下さったほど、神に愛されている祝福された 世界であり、私たちもまた神に限りなく愛されている存在なのです。その恵みを改めて知る時 こそこのクリスマスです。  だから私たちは、ともに「クリスマスおめでとう」と祝福の挨拶を交わし合います。それは 「無余地の神」のご降誕を喜び迎える時であります。メリー・クリスマスと申します。この“メ リー”とは「限りない喜び」という意味です。  だからメリー・クリスマスとは「クリスマスは限りない喜び」という祝福の挨拶です。ドイ ツ語ではフレーリッヒェス・ヴァイナハテンと言います。この“フレーリッヒ”もまた「限り ない喜び」という意味です。ただし(ここがドイツ語のちょっと深いところですが)“ヴァイ ナハテン”というのは「聖夜」の複数形です。今夜は聖夜(クリスマス・イヴ)ですが、この 聖夜の限りない喜びは、今日で終わってしまうものではない。全ての夜の闇の中に、全ての「余 地なきところ」に、主はあなたのために来て下さった!。この「限りない喜び」の出来事を覚 えて、私たちももた、互いに祝福の挨拶を交わしたいと思います。クリスマス・おめでとう!。 メリー・クリスマス!。フレーリッヒェス・ヴァイナハテン!。