説    教    イザヤ書9章6〜7節   ローマ書3章21〜26節

「 降誕節・インマヌエル 」

 降誕節礼拝 2014・12・21(説教14481568)  クリスマスと言えば12月25日と決まっていると、多くの人は当然のように思っているわけ ですが、実は主イエス・キリストのご降誕の日は、聖書には何月何日と記されていないのです。 12月25日がクリスマスと定められたのは西暦325年のニカイア公会議においてです。それ以 前の古代教会においては、今日でも東方教会ではその伝統に従っていますが、1月5日や1月6 日(顕現日・エピファニー)をクリスマスとしていました。私たちの教会では主日礼拝を重んず る伝統から12月24日直前の日曜日を「クリスマス礼拝」といたします。いずれにせよ、ある 特定の日を「キリストご降誕の日」として礼拝を献げることが全キリスト教会の喜びとなったこ とには大きな意味があります。それは、神がこの世界を罪から救うために独子イエス・キリスト をお与えになった。この確かな救いの出来事はまさに歴史のただ中に、具体的な日時の中に現れ たものだからです。  御子イエス・キリストのご降誕は、永遠が歴史のただ中に、救いが滅びのただ中に突入した出 来事です。神が人となられた出来事です。永遠なる神が私たちの世界に、そして歴史のただ中に、 御子イエス・キリストのご降誕によって(神が人となりたもうた驚くべき仕方で)介入して下さ った明確な救いの出来事こそクリスマスのメリーネス(大きな喜び)の内容なのです。神はこの 世界と人類の歴史全体を罪から贖い、生命を与えたもうために、御子イエス・キリストを、今か ら二千年前のクリスマスの夜、この世にお遣わしになりました。御子イエスは父なる神の永遠の 御心の内に、みずからを全く空しくせられ、僕の「かたち」をお取りなって、私たちのこの世界 に、しかも世界で最も低く、貧しく、寒く、暗いところに、私たちの罪の暗黒のただ中に、お生 まれ下さったかたなのです。  神学者カール・バルトは1936年のクリスマスの説教の中でこう語っています。私たちは毎年 クリスマスを迎えるたびに「羊飼いらは神を讃美しながら帰って行った」という御言葉を聴く。 しかし私たちは本当に真実に、この言葉を心に受け止めているだろうか?クリスマスの祝いが終 わればみな家路に帰ってゆく。私たちも自分の家に帰る。皆がそれぞれに帰る場所(自分の家) がある。羊飼いも東方の博士たちも、天使たちさえも自分の居場所に帰ってゆく。そこにただ一 人だけ例外がある。主イエス・キリストだけはご自分の居場所を持たれない。主イエスただお一 人が、帰るべき場所をお持ちにならない。このかたのみは、私たちの罪の暗黒のただなかに留ま って下さる。私たちはいま、このご降誕の主イエスに信仰のまなざしを注いでいるであろうか?。 バルトは続けて申します。「見よ。主イエスのみは違う道を進まれるのだ。主なる神は、ご降誕 の主イエス・キリストは、私たちと全く違う道を歩まれるのだ。混乱と分裂、殺し合いと悲劇、 戦争と抑圧のなりやまぬこの世界のただ中に、そこでこそ徹底的に私たちと共にあることを欲し たもうかたとして、終わりまで私たちと連帯したもうかたとして、ご降誕の主のみは、私たちと は違う道を歩まれるのだ」。  「アドヴェント」という言葉は「危険」や「冒険」を意味する外国語の語源ともなりました。 それは何よりも、主イエス・キリストが私たちの救いのために歩まれた道を示しているのです。 主イエス・キリストは、クリスマスを祝った人々がみな自分の居場所に帰ったようには歩まれな かった。主イエスのみは私たちのように家路を歩まれなかったのです。主イエスはこの罪の暗黒 の世界のために、最後までご自身を献げたもう「十字架の主」として、罪の暗黒のただ中に留ま る道を歩まれたのです。そこでこそヨハネ伝3章16節はこのように告げています「それ神はそ の独子を賜いしほどにこの世を愛したまえり。そは御子を信ずる者の一人だに亡びずして永遠の 生命を得んためなり」。  それでは、主イエス・キリストが歩まれたその道によって、私たちのこの世界に、この歴史の 中に、いま宣べ伝えられている喜びの音信が(確かな救い)はどのようなものでしょうか?。私 たちがいま与えられている「救い」とはいかなるものでしょうか?。そのことを明確に示す聖書 の言葉こそ、今朝お読みしたローマ書3章21節以下なのです。「しかし今や、神の義が、律法 とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリスト を信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんら の差別もない」。 宗教改革者ルターが「福音の中心」と呼んだこの有名な聖句は、意外にもク リスマスにはほとんど読まれません。しかしここに告げられている事柄こそ、まぎれもなくクリ スマスの福音そのものなのです。  まず「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、現 された」とあります。この「しかし」とは、私たちを捕らえていた罪と死の支配を打ち破る「救 い」の出来事を告げる神の側からの「しかし」です。私たちの世界また歴史は、それ自身の中に 救いと生命の可能性を持ちません。二千年前のベツレヘムの馬小屋を深い夜の闇が囲んでいまし た。いまそれよりもっと深い暗闇が、混乱と分裂と抑圧と戦争が、今日の世界を(私たちを)覆 っているのです。そこでこそ「しかし」という福音の言葉が鳴り響いています。「しかし今や、 神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された」。神はこの 世界に独子キリストを与えて下さったのです。独子キリストは「神の義」(永遠の救いと平和) を世にあらわす救い主として私たちのただ中に来て下さったのです。旧約の時代から人々が待ち 望んでいた救主「全ての人を照らすまことの光」が、私たちのためにベツレヘムの馬小屋にお生 まれになったのです。それがクリスマスの出来事です。  「神の義」とは英語で申すなら“righteousness of God”ですが、ドイツ語では“Gottes Gerechtigkeit”と言います。この場合の「ゲレヒティヒカイト」とは「救い」という意味であ り「神」にのみ当てはまる言葉です。つまり、私たちには自分を救う力は無く、それはただ神に のみあるのです。本当の生命(復活の永遠の生命)は神から来るのです。そこで、この「義」は 私たちの所有ではないからこそ、全ての人を救う確かな「神の義」として、信ずる全ての人に与 えられる喜びの賜物なのです。だからパウロは「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」 それは「すべて信じる人に与えられるもの」であり「そこにはなんらの差別もない」と大きな喜 びをもって告げています。「そこにはなんらの差別もない」この言葉の意味は限りなく大きいの です。  なぜなら、私たち人間は「差別」すなわち「審き」が身に沁みついているからです。他者に対 する「審き」はもちろん、私たちは自分自身をさえ審くのです。自分の価値基準が絶対の正義に なるとき、他者をも自分をも審く自己絶対化の罪を私たちはおかすのです。そのとき私たちの生 の中には既に死が支配しています。そこに人間の「罪」の姿の極致があります。生きているよう で実は死んでおり、殺すこと(審くこと)で自分を生かすことに人間の根本矛盾(パウロの言う 「不義」)があるのです。まさに「しかし」とはこの私たちの根本矛盾の暗黒の中に響くクリス マスの告知です。生きているようで実は死んでいる私たちのただ中に、パウロが「死んでいるよ うで生きている」と語った救いの恵みが現れたのです。ご降誕の主キリストによって「神の栄光」 が現わされた(私たちのために与えられた)のです。それは罪の赦しによる永遠の生命(神への 立ち帰り)です。だから繰返し心にとめましょう。まさに(しかし)この世界の最も低く、貧し く、寒く、暗いところに、主はお生まれになりました。このキリストを「わが主・救い主」と信 じ、ベツレヘムの羊飼いたち(東方の三博士たち)のように喜び迎える(礼拝する)とき、私た ちは復活の生命に覆われているのです。ご降誕の主の「救い」の恵みによって歩む新しい喜びの 人生がそこにあります。まことの神を知り、神の御言葉を聴きつつ歩む新しい生活です。  主がベツレヘムの馬小屋にお生まれ下さったそのクリスマスの日、歴史の意味そのものが変わ りました。紀元前からキリスト紀元(西暦)が始まりました。主が十字架への道をただお一人歩 まれ、私たちの罪の「あがない」として生命を献げて下さった恵みにより、この歴史の混乱の世 界に永遠の神の救いの御業が現れたのです。今日は一人の兄弟が洗礼の喜びにあずかりました。 そこでどうぞ覚えて下さい、過日11月6日にも古野正明さんが病床において洗礼の喜びにあず かりました。先週の月曜日には初めて、衣笠病院ホスピスの一室において聖餐の聖礼典が行われ ました。まさに主は私たちの存在と人生のただ中に、新しい祝福の生命を注ぎこんで下さったの です。自分の中に救いの可能性を些かも持たないこの世界と歴史は、創造主なる神の御子キリス トご降誕の恵みにより、そしてその御子の十字架の「あがない」によって「義とされる」(救わ れる)のです。  そうしますと、この「神の義」とはご降誕の主による救いの御業そのものであることがわかり ます。つまり「神の義」とは私たちのために主がなして下さった全ての御業をさすのです。それ が「神の栄光」なのです。ご降誕と十字架の出来事です。だからこそ主は、あのザアカイに言わ れました「きょう、救いがこの家に来た」と!「人の子がきたのは、失われていたものを尋ね出 して救うためである」と!。神から最も遠く離れていたザアカイのもとに主が来て下さった。そ のことによって、神から最も遠いはずのザアカイがいま「神の義」による喜びの生命に生きる者 とされたのです。同じ救いの恵みが私たちのもとに現されました。例外なく神から最も遠かった 私たちを「義」とするために、主は贖いの恵みをもって来て下さいました。このベツレヘムの御 子、そして十字架の主を信ずる者は生命に覆われるのです。「そこには何らの差別もない」ので す。だからクリスマスは「神の義の顕現」を喜び祝う日です。私たち全ての者を照らす「まこと の光」なる主を生活のただ中にお迎えする日です。まさにその「光」の中でこそ、私たちの歩み は祝福された生命の歩みとされてゆきます。「神の義」にあずかりつつ、主と共に生きる者とさ れるのです。だからクリスマスは限りない勇気と希望の祝日です。たとえこの世界、また私たち の人生を覆っている暗黒がどんなに深くても、主がその暗黒のどん底に来て下さった救いの恵み において、私たちは勇気と平安をもって歩み出す者とされているからです。主キリストにおける 「神の義」(いまあなたのために来た救いの喜び)を知る私たちは、まさに御子キリストのご降 誕の恵みによって、いついかなる時にも、主が共にいて下さる平安の内を歩む者とされているか らです。  かつて、アメリカはシカゴの目立たぬ侘しい裏通りに、貧しい小さなホットドッグ店がありま した。その店にあるとき、大統領がやって来て食事をしました。たちまちその店は全ての人が注 目する有名店になりました。私たちのもとには、私たちの人生には、アメリカの大統領が来たど ころの話ではないのです。神の永遠の御子イエス・キリストが訪れて下さったのです。そしてご 自分の生命を献げて私たちを「義」として下さったのです。クリスマスとはその喜びを共に祝い、 主の訪れを讃美する日です。だからこそ私たちは互いに「クリスマスおめでとう」と祝福の挨拶 を交わします。「主はあなたのために、また全ての人々のためにお生まれになりました」と喜び の出来事を語り合うのです。御子のご降誕の恵みは私たちの新生の喜びです。どうかキリストに おける神の「義」の内に新しく生れた者として、全世界の人々と共に、そして天にある全ての主 の証人たちと共に、心から御子のご降誕の恵みを讃え、勇気と平安をもって歩んでゆく私たちで ありたいと思います。祈りましょう。