説     教     詩篇50篇1〜6節   マタイ福音書6章10節

「御心の天になるごとく」

 主の祈り講解(8) 2014・12・14(説教14471567)  本日は「主の祈り」の第3番目の祈り「みこころが天に行なわれるとおり、地にも行なわれ ますように」を心にとめましょう。私たちの「主の祈り」では「御心の天になるごとく、地に もなさせたまえ」と訳されます。この祈りは「主なる神の御心が行われますように」との祈り です。そこで、その場合の「心」とは何でしょうか?。ある国語辞典によれば「心」とは「人 間の精神的な営みの全体」と定義されています。「知覚、感情、理性、意思活動、喜怒哀楽、 愛憎、嫉妬などとして現われる人間の精神作用」という説明がなされます。しかし「主の祈り」 における「心」(御心)とは、もちろんそういうことではありません。「御心」とは神の「喜怒 哀楽」などではなく、むしろ「神の聖なるご意思」です。何にもまさって、まず「神の聖なる ご意志が行われますように」と祈るのです。ですから英語の主の祈りでは「御心」は“heart” ではなく“will”(意志)と訳されます。主なる神が聖なるご意思をもってなしたもう事柄、そ れがそのままに私の人生に(そして世界に)実現しますようにと祈り求める祈りなのです。  そこでこそ、私たちは改めて顧みざるをえません。私たちは本当に日々の生活において、主 なる神のご意志が実現しますようにと祈り求めているのでしょうか?。むしろ多くの時と場合 において、私たちは“自分の意志”の実現だけを願い求めているのではないでしょうか?。自 分の意志、自分の願い、自分の計画が、そのまま実現することを幸福だと考えているのではな いでしょうか?。人生の意味さえそこにあるのだと私たちは考えていないでしょうか?。その ために日々あくせくと疲れ果て、自分をも他者を審き、倒れてしまう生活を、私たちはしてい るのではないでしょうか?。  まさにそのような私たちに、この礼拝において、そして日々の生活のただ中で、主は「御心 の天になるごとく、地にもなさせたまえ」との「主の祈り」を与えて下さいました。これを祈 る時に私たちが祈り求めるもの、それは私たちの“自分の意志”などではなく“神の御心”な のです。1563年の『ハイデルベルク信仰問答』はその問124において、この第3番目の祈り についてこう申しています。「わたしやすべての人々が自分自身の思いを捨て去り、ただあな たの善きみこころにのみ、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください」。この 祈りに生きることは、私たちが自分自身の願いではなく、主なる神の聖なる御心が、神のご意 志が、私たちの人生に、そしてこの世界に実現することを願うことなのです。  そのことは、実はこれまで学んで参りました第1と第2の祈りについても同じことが言える のです。かつて第2代目の国連事務総長として、アフリカでの内戦の調停に向かう途中、航空 機事故で殉職したダグ・ハマーショルドという人がいました。スウェーデンの人で敬虔なキリ スト者でしたが、このハマーショルドが自分の祈りとして「主の祈り」をもとにした祈りの言 葉を書き残しています。        御名を聖となさしめたまえ。わが名にあらずして。      御国をきたらしめたまえ、わが治世にあらずして。      御意(みこころ)を行わしめたまえ、わが意志にあらずして。  ハマーショルドは、この「主の祈り」の実現にしか世界の本当の平和はありえないと言い切 っています。「御意を行わしめたまえ、わが意志にあらずして」。私たちが自分の意思を押し通 すのではなく、ただ神の御心の実現を祈り求めることです。それは第1と第2の祈りにおいて も同じです。「御名を崇めさせたまえ」とはすなわち「み名があがめられますように、聖とさ れますように」と祈ることであり、それは自分の名ではなく、ただ神の御名のみが崇められ聖 とされんことを祈ることです。また「御国を来たらせたまえ」の「御国」とは「神の永遠の恵 みのご支配」という意味ですから、これはまさしく「神のご支配が実現しますように」という 祈りなのです。つまり、この「主の祈り」によってこそ私たちは、自分の支配や権勢の拡張を かなぐり捨てて、ただ主なる神の「永遠の恵みのご支配」を最も大切なものとして求め歩みに 導かれるのです。「主の祈り」の第1、第2、第3の祈りは、ともに「神の御心の実現」を求め る祈りなのです。  それはルカ伝11章の「主の祈り」の中に、この第3の祈りが出てこない理由でもあります。 ルカ伝では「御名が崇められますように」と「御国が来ますように」だけなのです。主イエス が教えられた本来の「主の祈り」はルカ伝の形であったかもしれません。今朝の第3の祈りは 初代教会が書き加えたものかもしれないのです。だとすれば初代教会がこの第3の祈りを書き 加えたことには大きな意味があります。と申しますのは、この第3の祈りが加えられたことに よって、私たちは“誰の意志を実現しようとしているのか”主なる神のご意志か、それとも自 分の意志か、という問いが明白になるのです。御名が崇められ、御国が来ることを祈ることに おいても、私たちはともすれば、それらが自分とは関係のない、遠い別の世界の出来事(理想) のように感じてしまうことがあります。これらの祈りを口先で唱えるだけで、実は自分は何も 変わらず平然としていることも出来てしまうのではないでしょうか?。  しかし「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という第3の祈りによって、私たち が人生の中心としているものが“神のご意志”の実現にほかならないことが明らかにされるの です。言い換えるなら、どこに私たちの(また世界の)本当の自由と幸いと生命があるかが明 確になるのです。またはこうも言えるでしょう。第1と第2の祈りに真実に生きることは、こ の第3の祈りに集約されるのです。“神の御心”“神のご意志”の実現を求めることが、すなわ ち御名が崇められること、御国が来ることを求めることだからです。  さて、先ほどの『ハイデルベルク信仰問答』の言葉に「あなたの善きみこころ」という言葉 がありました。神の御心はすなわち「善きみこころ」です。そこでこの「善き」とは、私たち の救いのために独子キリストをさえ世に賜わったという意味です。つまり何かと比較して「良 いか悪いか」という程度の問題ではなく、神の絶対の救いの主権において私たちが支えられ満 たされているのだという宣言です。そうしますと、実はこの「主の祈り」が記されたマタイ伝 の文脈が大切だということがわかります。マタイ伝6章5節以下で主イエスは、異邦人の「く どくどと言葉数の多い祈り」と全く正反対の祈りとして「主の祈り」を教えて下さいました。 異邦人が「くどくどと祈る」のは、自分の意志の実現だけを願うからです。だから神に自分の ほうを向いてもらうために「言葉数を多くして」力ずくで神を動かそうと考えたのです。主イ エスは、私たちと主なる神の関係はそのようなものではないとはっきり教えて下さいました。 6章8節です。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じ なのである」。これこそ主イエスが示して下さった、私たちと神との真実な関係です。  神は御子イエスの十字架において、私たちの「天の父」であることがはっきりと示されたの です。神は真の永遠の「父」として「子」である私たちを限りなく愛し、私たちが願う以前か ら必要なもの(最高の賜物)を与えんと御心を注ぎたもう。だから主は言われます、あなたが たはそのような「父なる神」のもとに「かけがえのない子」として生かされているのだ。「だ から、あなたがたはこう祈りなさい」と、主イエスは「主の祈り」を教えて下さったのです。 つまり、ここで「御心」と言われているのは、この“父なる神の御心”神が「天の父」として 私たちを限りなく愛し、必要なものを必要な時に与えて養い導いていて下さるその「御心」で す。それこそ『ハイデルベルク信仰問答』の語る「善きみこころ」です。その「善きみこころ」 が私たちの人生全体を支配することを、この祈りは願い求めているのです。  キリスト教の福音による真の自由の最も大きな幸いのひとつは、私たちがキリストによって 運命の支配から自由な者とされることです。私たちは、私たちの人生を冷たく機械的に支配す る「運命」ではなく、いかなる出来事の中にも私たちを、かけがえのない「神の子」として導 き、養い、完成へと至らせて下さる神の「摂理」を信じるのです。今日の言葉で申しますなら、 まさに私たちは「神の御心」を信ずるのです。「御心が行われますように」と祈ることは、私 たちの人生またこの世界を支配しているのは、冷たい「運命」などではなく“父なる神の永遠 の御心”であると信じることです。だから「御心が行われますように」と祈ることは「運を天 に任せる」生活態度とは正反対に、自分を大胆にキリストの御手に委ねて生きることです。“父 なる神の永遠の恵みのご支配”を信じ、その「善きみこころ」が実現することに、私たちの本 当の自由と幸いと平和があるからです。そこに本当の希望の人生が始まります。私たちは父な る神の永遠の恵みのご支配の「善きみこころ」という、確かな希望に導かれつつ生きる群れな のです。そこにのみ「運命」の力に翻弄されずに生きる、真に自由な、健やかな人間の歩みが 造られてゆくのです。  マタイ伝の終わり近く26章36節以下に、主イエスの「ゲツセマネの祈り」が記されていま す。主は十字架にかかりたもう直前に、ゲツセマネの園で血の汗を流して全世界の救いのため に祈られました。38と39節です「そのとき、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死 ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』。そして少し進ん で行き、うつぶしになり、祈って言われた、『父よ、もしできることでしたらどうか、この杯 をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのまま になさって下さい』」。まさしく主イエスみずから「わが思いにあらで、ただ御心をなしたまえ」 と祈って下さいました。主イエスの「御心」は父なる神の「御心」と全くひとつです。その「御 心」の現れこそ十字架であり、私たちを(また全世界を)罪から救い真の生命を与えるため、 全ての人を御国の民として下さるために、ご自身を全く贖いとして献げたもうことでした。ま さにこの「ゲツセマネの祈り」(十字架)においてこそ「御心の天になるごとく、地にもなさ せたまえ」は実現しているのです。十字架の主の恵みにおいて、神の「御心」はいま全世界を 覆い尽くしているのです。その恵みによってこそ、私たちは新たに「御心の天になるごとく、 地にもなさせたまえ」と祈る者とされているのです。  神の御心は「天になる」ごとく「地にも」行なわれています。この「ごとく」が大切です。 主イエスが既に私たちのもとに来られ、十字架において罪を贖い、復活の共同体である教会を お建てになり、全ての人を招いていて下さるからです。だから「天」とは、この地上とは全く 違う別の世界なのではない。「天」における神の御心は地上の私たちと無関係ではないのです。 神の「天」におけるご意志、それは独子キリストをお遣わしになり、その十字架の苦しみと死 と復活によって全世界を救いたもう「永遠の聖なる御心」なのです。その天における神のご決 意によってこそ、主イエスは私たちのもとに来られ、私たちのために十字架にかかられたので す。  今日はそのアドヴェントの第3主日です。あのクリスマスの晩、天使の軍勢が「いと高きと ころには栄光、神にあれ。地の上には平和、御心にかなう人々にあれ」と歌ったのは、天も地 も被造物全体がこの神の御心、神の永遠の聖なるご意思を讃美したのです。それは御心は「天」 におけると同じく、いま「地」(私たちの人生)においても実現しているからです。そのため に主イエスは十字架におかかり下さった。「わが思いにあらで、ただ御心をなしたまえ」と祈 って下さいました。私たちの「主の祈り」に生きる幸いと喜びは、まさにこの十字架の主の恵 みによるものです。主イエスのみが天と地とを結ぶ贖いを成しとげて下さったからです。だか ら私たちは、いかなる時にも御国の民として生きる者とされています。私たちは主イエスによ って実現した永遠の救いの恵みに支えられつつ祈り続けます。「御心が天になるごとく、地に もなさせたまえ」と。