説     教    詩篇22篇1〜3節  マタイ福音書6章10節

「御国を来たらせたまえ」

 主の祈り講解(7) 2014・12・07(説教14461566)  主イエス・キリストが「汝らかく祈れ」と教えて下さった「主の祈り」の2番目の祈りは「御国が来 ますように」です。私たちの「主の祈り」の言葉で申しますなら「み国を来たらせたまえ」です。この 祈りは人間の言葉として捉えるならば、とりわけ難しい問題をはらんでいます。それはどういうことか と申しますと、この第2の祈りは、様々な悲しみや苦しみが起こるこの「現実」の世界(人生)の中で、 どうか「私の苦しみを取り除いて下さい」という人間の願いと重なるからです。現実の世界には様々な 争いや矛盾があり、地震や津波などの災害もあります。多くの人が家を失い、生命を落とし、差別や迫 害を受けています。不条理を嘆き「どうして」と問わずにおれない状況が私たちを取巻いているのです。  そのとき私たちは、矛盾や問題に満ちた「現実」と「御国」(神の国)とを分けて考えることで自分を 納得させようとします。つまり、現実のこの世界(国家・社会・人生)は「御国」(神の国)などではな い(神とは無関係なものだ)と決めつけてしまうのです。主イエスの言われる「御国」(神の国)は所詮 は理想的なユートピア(ありえない場所)だと考えてしまうのです。仮に「御国」が実現するとしても、 それは遥かに遠い将来の出来事であって、現在の自分の(社会の)苦しみを解決するものではないとい う「諦め」を抱いてしまうのです。    しかし、そうなのでしょうか?。「主の祈り」は私たちをユートピアや「諦め」へと導く祈りなのでし ょうか?。もちろん、そうではありません。「神の国」は断じて「ユートピア」などではなく、私たちが 諦めるべき理想でもありません。マタイ伝4章17節に、主イエス・キリストの福音宣教の第一声が記さ れています。「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた』」。主イ エスみずから「天国は近づいた」(神の永遠の恵みのご支配はいま来ている)と宣言して下さいました。 「天国」とは「御国」と同じです。「神のご支配」という意味です。それが「近づいた」とは恐ろしいほ どにダイナミックな言葉です。それは「今すでにあなたのもとに来ている」という意味だからです。あ なたと共に神の永遠の恵みのご支配が「今ある」という宣言だからです。主イエス・キリストの来臨、 つまり主が私たちのために降誕せられたクリスマスの出来事と、私たちのために担われた十字架の恵み によって、いまここに「御国」が来ているのです。  ですからマタイ伝12章28節には、このような主イエスの御言葉が記されています。「しかし、わたし が神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」。 主イエスは「神の国」(御国)を私たちのただ中に実現して下さるために来られた救主です。主イエスの ご降誕と十字架による贖いの御業によって「神の国」はいま既に私たちのもとに「来ている」のです。 神の永遠の恵みのご支配が、今ものちも永遠までも、私たちと共にあるのです。それが「天国は近づい た」という宣言です。ご降誕と十字架の主によって、私たちはいま既に「神の国」に入れられているの です。ですから「御国を来たらせたまえ」との祈りは、主イエスの来臨の恵みに対する感謝の応答です。 主が共にいましたもう「神の国」の現実の中で、私たちがいつも主と共に生きる者として下さい、とい う「祈り」なのです。  もっとも、そこで更に私たちに大きな疑問が生まれるかもしれません。もし主イエスによって「神の 国」が実現しているのなら、どうしてなおも苦しみ、悲しみ、悲惨なことが起こるのかという疑問です。 「神の国」に入れられたはずの自分が、どうしてなお苦しみや悲しみを経験せねばならないのか?。主 イエスによって「神の国」が近づいたというのは嘘ではないのか?。そういう疑念が私たちの心に生じ るのです。つまり私たちは、私たちがいま生きている現実の生活の中に「神の永遠の恵みのご支配」が あるとは実感できないのです。しかし、どうぞ注意して下さい。そのような私たちの破れの現実のただ 中にこそ、主イエスは紛れもなく「神の国は近づいた」(いま来ている)と宣言して下さったのです。主 イエスの宣言が、どうして嘘でありえましょうか。まさにこの主イエスの現臨の恵みの事実こそ「み国 を来たらせたまえ」との「祈り」の唯一の揺るがぬ根拠なのです。  そもそも私たちは「神の国」をどのように考えているのでしょうか。その私たちのイメージは、悩み も苦しみも争いもない世界、平和で調和の取れた社会、そういうイメージが多いのではないでしょうか。 しかし改めて申しますが「神の国」という言葉の本来の意味は「神の永遠の恵みのご支配」です。神が 恵みをもって支配しておられる、それが「神の国」です。それなら、悩みや苦しみや矛盾が無いところ に「神の国」があるのではありません。(逆に、悩みや苦しみや矛盾があるところに「神の国」が無いの でもありません)むしろ、私たちが「どうして」と問わずにはおれない、悩みや苦しみや矛盾のただ中 にこそ「神の国」(神の永遠の恵みのご支配)は「いま現われており」そこでこそ主は私たちを堅く支え 導いて下さるのです。それだからこそ「神の永遠の恵みのご支配」なのです。主イエスの現臨の恵みで す。  かつて滝沢克己という哲学者がいました。この人が青年であったとき、ドイツに留学できることにな った。1932年(昭和7年)頃のことです。ハイデッガーのもとで学びたいと願って、京都大学の西田幾 多郎のもとを訪ねて、紹介状を書いて欲しいと願いました。すると西田幾多郎は滝沢青年に「ハイデッ ガーには超越的な視点が欠けている。学ぶならばカール・バルトという神学者のもとで学がよい」と勧 めたそうです。それでわけもわからず滝沢青年はバルトのもとで学ぶことになりました。バルトの講義 を聴いて驚いた。それはあたかも説教のようであったからです。バルトは「キリストについて」語らず 「キリストを」語った。やがて滝沢青年は信仰を与えられ、洗礼を受けてキリスト者になりました。そ して帰国してから「カール・バルト研究−イエス・キリストのペルソナの問題」という本を書きました。 私も持っていますが、その本の中心論点は「インマヌエルの事実」にあります。この世界はインマヌエ ル(神我らとともにいます)の事実(福音)の前に立たしめられている。私たちのために降誕せられ、 十字架にかかり、死して葬られ、復活されたイエス・キリストという神の国の出来事(インマヌエルの 事実)に気が付くことが、世界にとって(人間にとって)最も大切な唯一のことである。そのように滝 沢克己は語るのです。    神が主イエスによって、私たちの間に確立しておられるご支配は、まさにその「インマヌエルの事実」 です。「神われらと共にいます」恵みの出来事の中に、私たちがいま生きる者とされている事実です。そ の出来事の主体は私たちではなく主なる神です。だからこそ、その恵みのご支配は、いまここにおける 矛盾や苦しみや悲しみがどんなに深くても、その深さを突き破るようにして、否むしろ、その私たちの 苦しみの深さをそのまま御手に受けとめるようにして、私たちと今ここに共にある「救いの出来事」な のです。それが、私たちのために主イエス・キリストが来臨されたという出来事です。そしてそれこそ が「御国」の出来事なのです。まことの神は私たちを、そのような永遠の恵みのご支配の内に(イエス・ キリストというインマヌエルの出来事の内に)堅く守り支えて下さるのです。そのご支配とはイエス・ キリストのペルソナ(人格=御業)による永遠のご支配です。私たちは主イエスの十字架の御苦しみと 死における神の永遠の愛のご支配のもとに堅く支えられ生かされている。それが、「神の国は近づけり」 という宣言であり「神の国は汝らのただ中にあり」という事実なのです。  まさにこの、神の御国の恵みのご支配が、インマヌエルであられる主イエス・キリストによって、私 たちのただ中に実現しているのです。そこで私たちに求められているものは信仰のみです。インマヌエ ルの出来事の前に立つとは、十字架の主イエス・キリストを信ずる者として生きることです。ルカ伝19 章の取税人ザアカイの救いの物語を心にとめましょう。ザアカイは「罪人」の代名詞・取税人のかしら でした。そのザアカイのもとに主イエスが来て下さいました。「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。き ょう、あなたの家に泊まることにしているから」とザアカイを招いて下さった。そして主イエスみずか らザアカイの家の客となって下さいました。ザアカイはこの主イエスの現臨によって救われるのです。 ザアカイには神の前に義とされるものは何ひとつありませんでした。罪の支配と滅びだけがありました。 しかし客となって来て下さった主イエスを神の子・救い主と信じて、ザアカイはただ信仰によって救わ れたのです。主イエスはザアカイとその家庭を祝福したまい「今日、救いがこの家にきた」と言われま した。それはザアカイのもとに「御国」が来たということです。神の恵みのご支配の中に彼も家族も入 れられたのです。「神の国」はこのようにして、相応しくない私たちのもとに、ただキリストのご訪問に よって来るのです。  「神の国」が来るとは「今日、救いがこの家に来た」というインマヌエルの出来事の内に、私たちが 生きる者とされることです。自分の悩みや苦しみが解決されなければ「神の国」はそこにないというこ とではないのです。神の独子が私たちのために苦しみと死を引き受けて下さった。救いを実現して下さ った。そこに確かに「神の国」は来ているのです。その「神の国」に生きる私たちは、たとえ悩みや苦 しみや悲しみの中でも、主イエス・キリストが共にいて下さり、その悲しみ苦しみの全てを御手に受け とめ、永遠の愛の内に支えていて下さることを信じることができるのです。主イエスご自身が十字架の 恵みをもって私たちを永遠に支え、生命を与えて下さるのです。  今朝、併せてお読みした旧約聖書・詩篇22篇の冒頭に「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられ るのですか」とありました。これは主イエスが十字架の上で叫ばれた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 という言葉です。主イエスはこの詩篇22篇2節を叫んで息を引き取られたのです。それは御国の民では ありえなかった私たちの救いのために、私たちの絶望のそのまたどん底の滅びをも、主イエスが引き受 けて下さった出来事を示すものです。主イエスがインマヌエルの出来事を現して下さったのは、まさに 十字架において徹底的にご自身を棄てたもうことによってでした。それならば「御国を来たらせたまえ」 との祈りには、この主イエスの十字架の恵みが輝いているのです。先ほどの滝沢克己ですが、彼はこの 十字架上の御言葉について思いを深め「インマヌエルの出来事において、我らは絶望からさえも解放さ れている」と語っています。この救いを(神の国の支配を)世に現して下さったゆえに、主の十字架上 での最後の言葉は「全て事終わりぬ」でした。御国は成就したと宣言して下さったのです。  まさに神の御支配「神の国」は、十字架の主イエス・キリストの死と復活によって実現しているので す。「神の国」は罪と死の力に永遠に勝利しているのです。私たちを脅かし、恐れを与えるこの世の力の 究極の死にさえも「御国」は勝利している。その勝利の「御国」が私たちと共にある。「御国を来たらせ たまえ」とはですから、その復活の勝利の恵みの内に私たちが心を高く上げて、礼拝者として歩むこと ができますようにという祈りです。主が十字架によって確立して下さった「御国」が、この現実の世界 のただ中にいよいよ力をもって明らかになりますようにという祈りです。なによりも主はいま私たちを、 その恵みの内を歩む者としていて下さるのです。そして、復活して天に昇られた主イエスはやがて再び 来られ、救いの御業を全世界に完成して下さるのです。「御国を来たらせたまえ」との祈りは、必ず主が これを実現して下さり、完成へと導いて下さるゆえに、それは将来に向かう“希望の祈り”でもあるの です。その希望は「決して失望に終る事はない」(ローマ5:5)のです。