説     教    詩篇103篇1〜22節  ローマ書8章14〜17節

「天にましますわれらの父よ」

 主の祈(5) 2014・11・23(説教14441564)  主の祈りの最初の言葉は「天にまします我らの父よ」という主なる神への呼びかけの祈りです。もと もと主イエスの時代、ユダヤの人々には「シェモネ・エスレイ」(十八連祷)という伝統的な長い祈りが ありました。ユダヤの家庭に生まれた子供たちは、今日のイスラエルでもそうですが、15分はかかる「シ ェモネ・エスレイ」を覚えたのです。それと同様に旧約聖書も全て暗記するまで学びました。主イエス の弟子たちも同じ教育を受けたことでしょう。それならばどうして、弟子たちは主イエスに「わたした ちにも祈ることを教えてください」(ルカ11:1)と願い出たのでしょうか?。伝統的な「シェモネ・エ スレイ」では飽き足らなかったのでしょうか?。むしろ弟子たちは伝統的なユダヤの祈りと主イエスの 祈り(つまり「主の祈り」)との決定的な“違い”に気がついたのです。それこそ最初の「天にまします 我らの父よ」という呼びかけの言葉でした。  もちろん「シェモネ・エスレイ」にも神への呼びかけの言葉があります。それは非常に長々しいもの です。覚えるだけでも大変です。しかし主イエスがお教えになった「主の祈り」では「天にまします我 らの父よ」ただそれだけでした。拍子抜けするほどの単純さです。弟子たちは主イエスの日々の祈りの お姿を通して、このことに心から驚き打ちのめされたのです。しかも主イエスは主なる神を、当時の民 衆の言葉であるアラム語の「アバ」という言葉で呼びかけられたのでした。これは幼い子供が父親を呼 ぶときに用いる言葉です。これによって弟子たちは「ここに自分たちの全く知らなかった本当の祈りが ある」と感じたのです。だから「わたしたちにも祈ることを教えてください」と願い出ずにおれなかっ たのです。  さて、主イエスは先に私たちにマタイ伝6章8節において「あなたがたの父なる神は、求めない先か ら、あなたがたに必要なものはご存じなのである」とお教え下さいました。ここで肉親の親のことを考 えてみたら良いのです。親は愛するわが子のために、いつも最高最善のものを与えんとして心を砕くの ではないでしょうか。それならなおさらのこと、父なる神は私たちに本当に「必要なもの」のいっさい を、私たちがそれを求める以前から「知って」おられ「備えて」いて下さり、私たちに「与え」ようと 心を砕いておられるかたなのです。譬えるならこうも言えるでしょう。もし子供が求めるものを、求め られるままに全て(無条件で)与える親は、決して子供を愛する親ではありません。なぜならその親は 子供に仕える「僕」にすぎず、子供を愛する「親」になっていないからです。本当に子供を愛する親は、 たとえわが子が泣いて求めようとも、それがわが子の益とはならず、かえってわが子を害するものだと 知れば、決して与えることをしません。かえって別の最も良いもの(子にとって最善のもの)を「知っ ており」「備えて」「与える」のが本当の親なのです。  それは子供の側から見ても同じです。自分が求めるものを(無条件で)何でも与えてくれる親は、実 は本当に信頼することができないのです。それは自分を益とせず、逆に害するものかもしれないからで す。子供が本当に信頼し、信頼することによって独立できる親とは、まさに主イエスが語っておられる ように「(わが子が)求めない先から…(わが子に)必要なものを」「知っており」「備えて」「与え」て いてくれる親です。そういたしますと、肉親における親子関係でさえそうならば、ましてや父なる神と 私たちとの関係はなおさらではないでしょうか。当時のイスラエルにおいて神を「父よ」と呼びかける ことはパリサイ人や律法学者でもしていました。しかしアラム語の「アバ」という言葉で神を呼んだ者 は誰もいなかったのです。ただ主イエスだけが「アバ」という呼びかけを私たちにお教え下さったので す。そこには既に神ご自身が私たちをご自身との“真の父子関係”へと招いていて下さる恵みによって です。それは十字架の主イエス・キリストによる罪の贖いの恵みです。  神社に行くと本殿の軒端に大きな鈴が下がっています。あれは神さまを呼ぶ(というより寝ている神 さまを呼び覚ます)ための呼び鈴です。神さま、眠っていないで私の声を聞いて下さいというのです。 しかしまことの父なる神はそういうかたではない。まことの神はいつも私たちを見ておられ、私たちの 祈りを待っておられ、私たちを限りなく愛し、私たちが「求めない先から」私たちに必要なものを「知 っておられ」「備えていて下さり」「与えて下さる」かたです。私たちの祈りがどんなに小さくても、そ れを限りなく喜び待っていて下さるかたです。それなら私たちは、このかたを本当に「わが父よ」(アバ) と呼ぶ幸いをいま与えられているのです。それは真の神の唯一永遠の独子である主イエスの十字架によ る救いの出来事です。ほんらい神を「アバ」と呼べるのは主イエスのみですけれども、私たちは主イエ スの十字架による罪の贖いの恵みによって、神を「アバ」(わが父よ)と呼ぶ者とされているのです。「天 にまします我らの父よ」この呼びかけにはキリストの十字架の恵みが満ち溢れているのです。神の愛に 叛き、神の子である自由と幸いを失ってしまった私たちの罪を、主イエスのみが十字架の贖いによって 担い取って下さったからです。そしてここに、全ての人に対する救いの器(神の家)としてご自身の身 体なる教会を建てて下さいました。ご自身の「主の祈り」を私たちの「教会の祈り」として定めて下さ いました。主に贖われた者の喜びと感謝の生活が、そこから始まってゆくのです。  全世界のキリスト教会において共通の信仰告白として告白される381年制定のニカイア信条に「主は すべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、 父と同質であり、すべてのものはこのかたによって造られました」とあります。まさに主イエスはその ような唯一まことの神と「同質」なる救いの権威を持つキリスト(救い主)として、ご自身の十字架の 恵みをもって私たちを「アバ」(わが父よ)と呼ぶ幸いへと招いていて下さるのです。いま教会に結ばれ て私の贖いのもとにあるあなたはもはや「異邦人」ではない。「神なき者」(救いの可能性の無い者)で はない。罪人にして「異邦人」であった私たちを、主イエスは測り知れぬ十字架の贖いの恵みによって 「アバ」(わが父よ)と神を呼ぶ者として下さったのです。ここにこそ完全な救いの出来事があります。 ルカ伝15章11節以下に記された「放蕩息子の譬」のように、神の子でなくなってしまった私たちが、 まさに父なる神の一方的な愛によって神の子の喜びを回復して戴いたのです。父なる神のみもとに、魂 の故郷なる永遠の御国に、立ち帰る者とならせて戴いたのです。  かつて東京のあるミッション系の大学で教えられたドイツ人の牧師がおられました。このかたが、ご 自分が子供であった時の思い出を語られたことがあります。ドイツ北西部のケルンという街に生まれた 人です。おりしもヒトラーが政権を掌握した時代、ユダヤ人排斥運動の嵐がドイツ全土に吹き荒れてい ました。その影響を受けていつしか少年時代のこの先生もユダヤ人を悪者のように思いはじめていた。 ある日の夕食の席でお父さんにそのことを話した。たちまちお父さんに叱られたそうです。「おまえはな んと恥ずかしいことを言うのだ。ユダヤ人もドイツ人も、同じ人間、同じ主にある兄弟ではないか!」。 そしてお父さんはひとつのことを言われたそうです。それは「主の祈りの最初の言葉は何か?」という 質問でした。ドイツ語では「主の祈り」そのものを「われらの父」(Vaterunser)と申します。おずお ずと「天にまします我らの父よ」と答えた。(ドイツ語ではVater unser im Himmel, geheiligt werde dein Name. Dein Reich komme. Dein Wille geschehe, wie im Himmel, so auf Erden.と続きます)父さんは 「そのとおりだ。主は『天にまします我らの父よ』とお教えになったではないか」。それだけで十分だっ たそうです。この先生にとってその日の出来事は生涯忘れられない経験となりました。この「われらの 父よ」という言葉はそれほど重い。この祈りを共にするとき、私たちは全ての人々をキリストの恵みの もとに新たに見いだすのです。自分の存在をも自分の人生の全体をも「天にまします我らの父よ」この 恵みの言葉のもとに、十字架のキリストの贖いの恵みのもとに、新たに見いだす者とされているのです。  旧約聖書・詩篇103篇13節を改めて思い起こしましょう。「父がその子をあわれむように、主はおの れを恐れる者をあわれまれる」。この「恐れる」とは「真の礼拝」であり、「あわれむ」とは神の「救い」 をあらわしています。私たちはいまここに救われて真の礼拝者とされているのです。それはまさに今朝 のローマ書8章15節に告げられていたように、私たちが「主の祈り」によって「子たる身分を授ける 霊」である聖霊の主権(キリストの救いの権威)のもとに立ち続け「その霊によって…『アバ、父よ』 と呼ぶ」者とされている恵みに生きることです。この恵みを心から感謝し、どのような時にも「天にま します我らの父よ」と祈り続けてゆく私たちでありましょう。御国の民とされた者として、贖われた主 の民として、心を高く上げて、感謝と勇気をもって歩み続ける私たちでありたいと思います。祈りまし ょう。