説    教    創世記15章1〜6節   マタイ福音書6章1〜4節

「報いたもう神」

 主の祈 講解(2) 2014・11・02(説教14441561)  私たちが日常献げている「主の祈り」はマタイ福音書6章9節以下に基づいています。そこでこの「主 の祈り」をマタイ福音書全体の中で見ますと、それは5章から7章に記された主イエスの「山上の説教」 の中心部分であることがわかります。「山上の説教」は「汝らは幸いなり」という祝福の宣言によって始 まりました。その「幸い」とは「天国」(神の恵みのご支配)に今ここにおいてあずかる者とされている 「幸い」です。主イエスの伝道は「天国は近づいた」との宣言において始められました。この「近づい た」とは「いま来ている」という意味であり、主イエスの来臨は永遠なる神の恵みのご支配が歴史の中 に到来したことです。だからこそ、そこに本当の「幸い」があるのです。  そこでこそ、主が繰返しお教え下さったことはマタイ伝5章20節に要約されているのです。「わたし は言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、は いることはできない」。これは厳しい言葉なのでしょうか?。そうではありません。天国に入る資格とは、 自分の清さや正しさではなく、ただ十字架の主を信じ告白し、キリストの義に覆われることなのです。 まさにその「幸い」の中でこそ「主の祈り」が私たちに与えられているのです。  そこでこそ、主は私たちに今朝のマタイ伝6章1節以下の御言葉をお語りになりました。「自分の義 を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」。実はこの御言葉は「主の祈り」全体にか かわる祈りの姿勢です。ここで言われている「義」とは私たちがなすべき「正しい行い」のことです。 主は具体的に「施し」と「祈り」と「断食」の3つを挙げておられます。それは言い換えれば「奉献」 と「礼拝」と「生活」の3つです。これらはみな主なる神に対して献げられるものです。ですから大き な危険は、それらが「見られるために人の前で行う」ものになることです。そこでは「正しい行い」の 意味が全く違ってしまうからです。なによりも主イエスは2節に「偽善者たち」の姿をお示しになりま す。彼らは「施し」をするとき、人から褒められようとして「会堂や町の中」で「自分の前でラッパを 吹きならす」のです。わざと人目を惹くように「あの人は貧しい人々に『施し』をしている立派な人な のだな」と思わせるようにお膳立てをして「施し」をすることです。いわば人からの「報い」を目的と して「良い行い」を吹聴することです。「自分の前でラッパを吹きならす」とはそういうことです。それ が「自分の義を、見られるために人の前で行なおうとする」者の姿なのです。  そこでこそ、主は明確にお教え下さいます。「あなたがたは、そうであってはならない」と。主は私た ちがなすべき「施し」(良い行い)の心を3節と4節に明らかになさいました。「あなたがたは施しをす る場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためで ある」。「施し」は人に見せるためではなく、主なる神に対してなされる感謝のわざです。自分の「施し」 を人に見せつけ、人からの賞賛を得ようとするとき、実は私たちも「偽善者」になるのです。主イエス の弟子とされ「天国」の「幸い」にあずかる者とされている私たちは、むしろそれを「隠す」幸いを与 えられているのです。だからこそ主イエスは「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と言われ たのです。私たちは、この主イエスの御教えにある面で共感を覚えます。ここで「偽善者」と呼ばれて いる人々のように、人の前でこれ見よがしに「施し」を誇示することは、私たち日本人の感覚からして も嫌らしく下品なことです。そんな人間になりたくないと私たちも思います。むしろ「良い行い」は控 え目に「さりげなく」するものだ。そういう社会感覚を多くの日本人が持ち合わせています。それなら 主イエスがここで言われたことも、そのような私たちの社会感覚と同じなのでしょうか?。これ見よが しに「良い行い」をすることは「嫌らしく下品」だからおやめなさい、むしろ控え目になさるのが宜し かろうと、主イエスは語っておられるのでしょうか?。  「良い行い」は目立たぬところで「さりげなく」するべきものだ。そういう価値観(倫理観)は、実 は裏を返すならば「あの人は目立たない所で『良い行い』をしている立派な人だ」と人から評価された い、そういう強い思い(欲求)で成り立っているのではないでしょうか?。つまり私たちは、そこでも 「偽善者」になっているのです。その証拠に、自分の隠れた「良い行い」が人に気づかれなかったり、 評価されなかったりすると、私たちは不満を感じるのです。「報われなかった」と思うのです。たとえば 誰も見ていない所で人に親切にしたとする。私たちはそれを他人に吹聴したりしないでしょう。しかし その人が「あの時あなたからこんな親切を受けた」と感謝し、それを周りの人々にも語ってくれること を、私たちは喜ぶのではないでしょうか。もし相手がぜんぜん感謝もせず、受けた親切を人に語らず、 無視するならば、私たちは陰で「なんて礼儀知らずの人だろう」と腹を立てるのではないでしょうか。 自分の「良い行い」を吹聴しない私たちは、しかしそれが人に知られ、人からの「報い」を受けること を、実は願っているのではないでしょうか。そういう私たちの思いと、人々から賞賛を得ようとして「会 堂や町の中」で「施し」をし、自分の前でラッパを吹き鳴らす「偽善者たち」と、どう違うというので しょうか?。  改めて学びましょう。主イエスが語っておられるのは、これ見よがしに「良い行い」をするより、目 立たない所で控え目にするほうが立派だ、ということではないのです。主イエスは1節で「自分の義を、 見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」と言われました。この御言葉には大切な続き があります。「もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう」 と主は言われたのです。また4節にも「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、 隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」とあります。主イエスが私たちには っきり示して下さることは“天の父からの報い”です。天の父である神からの「報い」は、見てもらお うとして人の前でなされる「良い行い」に対しては与えられない。天の父は隠れたことを見ておられる のだから、あなたがたの施しが隠れたものでなければ、天の父からの「報い」は得られないのだと、主 イエスは言われるのです。  主イエスがここで「報い」ということをはっきり語っておられることに、私たちはある驚きを覚えま す。「良い行い」をすれば良い「報い」が与えられる、それは私たちが心の中で「そうあって欲しい」と 望んでいることです。しかしそれと同時に、私たちは「報い」を期待して「良い行い」をするのは不純 だ、本当の「良い行い」とは「報い」などいっさい期待せず、純粋な心で行われるべきものだ、とも思 っているのではないでしょうか。だから心の中では期待しつつも「良い行い」の「報い」など期待して いない素振りをしている。しかし、主イエスはここではっきりと「報い」を語られます。「報い」を期待 してよいのだと言われるのです。問題は、その「報い」は誰からのものかということです。神が与えた もう「報い」こそが真に大切な唯一の「報い」なのです。2節には「会堂や町の中」で「施し」をする あの偽善者たちは「(既に)報いを受けてしまっている」とあります。それは神からのではなく、人々か らの「報い」です。人に見せようとして「良い行い」(自分の義)を誇示する者たちは、すでに人からの 評価・賞賛という「報い」を「受けてしまっている」。この「(既に)報いを受けている」という言葉は 原文のギリシヤ語では「領収書が発行された」という意味です。「評価が確定している」という意味です。 人からの「報い」を求める者は、もうすでに「評価が確定している」(満たされてしまっている)。もう それ以上の「報い」つまり神からの「報い」などは要らないという生きかた。まさしく「神ではなく人 からの評価を求める生きかた」をしているのです。その人々のことを主イエスは「偽善者」と呼ばれた のです。  どうかはっきりと覚えましょう。主イエスは私たちに、天の父なる神からの「報い」をこそ求める者 になりなさいと言われます。それだけで良いのだ。それだけであなたの人生はかけがえのない「幸い」 な「天国」の民の生活(祝福を他の人々にも伝えゆく生活)になるではないか。主イエスは人からの「報 い」で確定されそうになる私たちの頑なな心を神のご支配(天国)へと向け変えて下さいます。言い換 えるなら、私たちが人から受ける評価や「報い」それは良い評価であったり、悪い評価であったりする わけですが、それが最終決定的なものではない、ただ神による「報い」のみが私たちにとって最終決定 的なもの(大切な唯一のもの)であることを明らかにして下さったのです。  天の父なる神は、私たちのことをどう評価なさるのか。私たちをどのように見つめておられるのか。 天の父は「隠れた事を見ておられる」かたです。それは私たちの人知れぬ良い行いを見ていて下さる、 ということであると同時に、私たちが人には隠している様々な罪や悪しきことをも神は見ておられると いうことです。私たちの良きも悪しきも天の父なる神の前には全て知られている。その神の前でこそ私 たちは「偽善者」の心を捨てることができるのです。私たちは主なる神の評価にとうてい耐えうるもの ではありません。しかしその神は、私たちのために独子キリストを遣わして下さり、主イエスを通して 「心の貧しい人々は幸い、天国は彼らのものである」とはっきり宣言して下さいました。「心の貧しい 人々」とは、自分の中に神に対して誇りうるいかなる富をも持っていない、神の前に無一物の乞食のよ うな者でしかないということです。神の評価に堪えうるいかなる「良いもの」も私たちの中にはないの です。  そのような私たちにこそ、主イエスは「あなたがたは幸いである。あなたがたは天の国にあずかる者 である」と宣言して下さいました。ご自分の十字架の重みをもって、はっきりと私たちを「あなたこそ、 私の民である」と宣言して下さったのです。そして天国にあずかる幸いな者として、私たちを「地の塩、 世の光」であると宣言して下さったのです。あなたがたが持つべき「塩味」「光」とはこのようなものだ と教えて下さった。それが私たちに対する神の評価です。つまり主なる神は、私たちの良きも悪しきも 全てご存じの上で、その私たちをあるがままに、天国の祝福(永遠の生命)にあずかる者として選び、 立て、遣わして下さいました。この恵みは主キリストによっていま与えられている恵みです。神の独子 である主イエスが私たちのために世に来て下さり、私たちの罪の赦しのために十字架に死んで下さり、 復活して下さったことによって、主イエスの父なる神が私たちの天の父となって下さり、私たちを天国 にあずかる者として下さったのです。  天の父なる神にまなざしを向け、神の評価こそ決定的なものであることをわきまえるとは、この神の 恵みの御心をわきまえ、この恵みの中で父なる神との交わりに生きることです。そこにはいつも「あな たがたは幸いである」という主イエスの御声が響いています。「良い行い」など何もない私たちのために、 主イエスにおける神の恵みによって、すでに大いなる恵みが与えられています。その恵みの中でこそ私 たちは「良い行い」に喜んで大胆に励む者とされているのです。そこにおいて私たちは、人の眼、人の 評価、人からの「報い」から本当に自由になることができます。神が私たちに報いて下さるからです。 その私たちに「主の祈り」が与えられています。「天にましますわれらの父よ」と神を呼ぶ者とされてい ます。このかたが私たちの「良い行い」を見ていて下さり、それを喜んで下さり、豊かに報いて下さる のです。「あなたは、天国の民とされているではないか。私があなたを選び、立て、遣わしたその恵みに、 あなたはすでに生きているではないか。そしてすでに『天の父よ』と祈る幸いに生きる者とされている ではないか」。そのように主は私たちに語っていて下さるのです。そこに私たちの本当の幸いがあり、自 由があり、喜びがあることを覚えます。祈りましょう。