説     教     詩篇63篇3〜6節   ルカ福音書11章1〜4節

「祈ることを教えたまえ」

 主の祈り講解(1) 2014・10・26(説教14431560)  本日より「主の祈り」の連続講解説教を通して御言葉を聴いて参ります。主イエス・キリストが私た ちに直接お教え下さった「主の祈り」を通して、福音の真実に共に心を開き、主の御名を讃美告白する 私たちでありたいと願うのです。    さて、今朝の御言葉・ルカ福音書11章の最初を見ますと「イエスはある所で祈っておられた」とあり ます。では主イエスはどのように、どのような言葉で「祈っておられた」のでしょうか?。私たちはそ れを「ゲツセマネの祈り」またはヨハネ伝17章の「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りによって知ることが できます。しかし何よりも大切なことは、私たちは「主の祈り」によってこそ、主イエスの日常の祈り の言葉そのものに触れることができるのです。「主の祈り」はマタイ伝6章とルカ伝11章に記されてい ますが、いま私たちが唱えている「主の祈り」はマタイ伝6章の形に則っています。  「主の祈り」は、キリストの福音が宣べ伝えられたところでは、かならず人々に教えられ、たとえ言 語の違いはあっても、全世界のキリスト者がひとつになれる大切な祈りです。私はかつて東京の教会の 付属幼稚園の園長をしていたことがあります。牧師であると同時に幼稚園の園長でもある日々は大変で したが、多くの恵みも与えられました。その幼稚園の園児たちはみな「主の祈り」を毎日唱えていまし た。年少組の3歳の園児が「天にまします、我らの父よ…」と祈る。そのことにいちばん驚き感動して いたのは園児の保護者たちでした。文語なのです。大人が聴いても難しい文語の祈りを僅か3歳のわが 子が唱えている。このことが保護者には大きな驚きだったようです。そしてその後20年30年経っても、 幼稚園で唱えた「主の祈り」は覚えている。おそらくその子は生涯忘れることはないでしょう。まさに 「三つ子の魂百までも」です。そこで改めて思わされました。これこそ人生最大の宝物ではないか。「主 の祈り」を知っているということが人生最大の宝物である。私たちはいま、その感動に生きているでし ょうか?。  あるとき弟子たちは主イエスに「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈る ことを教えてください」と願い出たのです。おそらくバプテスマのヨハネは自分の弟子たちに「ヨハネ の祈り」とも言うべきものを教えていたのでしょう。それを聴いた主イエスの弟子たちは、自分たちも 主イエスの弟子として「主イエスの祈り」を教えて戴きたいと願ったのです。「祈ることを教えたまえ」 と願い出たのです。そして主イエスご自身、その弟子たちの願いを待っていて下さった。そこで主イエ スが弟子たちにお教えになったのが「主の祈り」です。主イエスの弟子(主を信じ教会に連なるキリス ト者)として生きること。それは「主の祈り」を人生最大の宝物として持つ者とされている幸いです。 「主の祈り」によって示されている神との交わりの中に生きることなのです。  よく「祈りの言葉が出てこない時がある」と言う人がいます。突然の苦しみに出会ったとき、理不尽 な悲しみを経験した時、私たちの心は思い乱れて、それこそ「祈りどころではなくなる」ことがある。 そうした時にもしかし、私たちは「主の祈り」は祈り続けることができます。それこそ自分の祈りが無 くなっても「主の祈り」は祈り続けることができるのです。私はよく勧めることがあるのですが「主の 祈り」を毎日祈りなさい。朝にも昼にも晩にも「主の祈り」を大切にしましょう。そういうことをよく 婦人会などで申します。みなさんは実行して下さっていると思う。言い換えるなら、キリスト者である ということ、キリスト者として生きるということは「主の祈り」と共にある生活をするということです。 さらに言うならば「主の祈り」を祈らないキリスト者の生活はありえないのです。  弟子たちは「祈ることを教えてください」と主イエスに願いました。文語の聖書では「祈ることを我 らに教えたまえ」となっています。弟子たちはここで、単に祈りの言葉を教えて欲しいと願ったのでは なく、“祈ることそのもの”を教えて下さいと願ったのです。そしてまた主イエスも単に祈りの言葉をお 与えになったのではなく「主の祈り」によって示された“祈ることそのもの”を、まことの祈りの世界 を、弟子たちに(私たちに)教えて下さったのです。それにしても私たちは思います、弟子たちのこの 願い「祈ることを我らに教えたまえ」これ自体がなんと素晴らしい「祈り」であることか。この弟子た ちの願いもまた、聖霊なる神によって与えられた願いであり「祈り」そのものではなかったでしょうか。  「祈る」という日本語はほんらい「忌み、宣べる」であるという説があります。「忌み」とは斎戒沐浴 することです。自分の身を清めて神前に出ることです。そして「宣べる」とは祝詞のような言葉を奏上 することです。そこで、これは儀式としていかに賑々しいものになったとしても、その実際はどうかと 申しますと、そこに現れる世界というものは自分が中心です。自分の願い、自分の求め、自分の心が中 心である。だから日本人は「祈り」と言えば「家内安全・商売繁盛・無病息災」祈願だと考えています。 それしか「祈ること」を知らないのです。すると、その「祈り」の対象(祈る神様)は誰でもかまわな いのです。神社でもお寺でも祠でもよい。山でも木でも石ころでも良い。自分の願いを適えてくれるな らなんでもよい。「八百万の神々」という風土が日本にはあるのです。祈っている相手が誰であっても、 この自分の願いさえ適えてもらえればそれで良いというプラグマティズムの宗教観です。  主イエスがお教え下さった「主の祈り」は、この私たちの“自分中心の祈り”を打ち砕いて下さいま す。何よりも第一に主は私たちに、私たちが「祈り」を献げるかたが誰であるか(どなたであるか)を はっきりと示して下さいました。これはとても大切なことです。私たちは漠然とした八百万の神に祝詞 を奏上するのではない。なによりも主イエスは「主の祈り」の最初に「天にまします我らの父よ」との 呼びかけを教えて下さいました。大切なのはこの「父よ」という呼びかけです。私たちは自分が祈りを 献げるかた、主なるまことの神に対して「父よ」と呼んでよい。「父よ」としか呼びえない者として「祈 りを献げる」恵みをいま与えられているのです。  この「父よ」とは、なによりもまず「主イエス・キリストの父」を意味しています。天地を造られた 神と主イエス・キリストは、永遠の三位一体の関係において御父と御子との関係です。だから主イエス が神を「父よ」と呼ぶのは自然なことです。しかし主イエスは、私たちもまた同じように神に向かって 「父よ」と呼ぶようにお教え下さいました。主イエスのみが私たちを、神に向かって「父よ」と呼ぶ関 係へと招いて下さったのです。キリスト者であるかないか。それは、この天地を創造された全能の父な る神に向かって「(我らの)父よ」と呼ぶ「主の祈り」に生かされていることです。この短いひと言「(我 らの)父よ」が唱えられたなら、その人はもう間違いなくキリスト者なのです。その人はもう洗礼を受 けて良いのです。なぜなら、神に向かって「父よ」と呼ぶ者はすでに“神のかけがえのない愛し子とさ れている”からです。罪人として神に叛き続けていた私たちが、主キリストの救いの御業にあずかり、 神との永遠の交わりに招いて戴いたのです。私たちが神に向かって「父よ」と呼び、神が私たちに「我 が子よ」と呼んで下さる、永遠の生命の関係に入れて戴いたのです。ここに私たちの祈りの世界が造ら れてゆきます。この神と私たちが父と子の関係にある、そのような関係へと私たちは招かれているので す。この事実こそ私たちに与えられた救いです。  だから使徒パウロはガラテヤ書3章26〜29節でこう語りました「あなたがたはみな、キリスト・イエ スにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマ(洗礼)を受けたあなたがたは、 皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もな い。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、 あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」。  神を「(我らの)父」と呼ぶのは、全てのキリスト者に与えられた測り知れない恵みです。神は私だけ の「父」ではなく「我らの父」です。ここに私たちの祈りが、孤独な一人の祈りではなく、愛する兄弟 姉妹らと共に祈る「教会の祈り」であることが示されています。「聖なる公同の教会」(聖徒の交わり・ キリストの身体)という永遠と歴史を繋ぐ救いの恵みの中でこそ、祈りは自分が中心ではなく、主なる 神が(十字架のキリストが)中心である幸いに導かれてゆきます。ユダヤ人、ギリシヤ人、僕、自主の 人という社会の枠組みさえも超えて、万人への救いという拡がり(普遍性)を持つ、神の御業にあずか る新しい生活が「主の祈り」によって形作られてゆくのです。  ときどき、こういうかたがいます。どう祈ったらよいか「祈りかた」がわからないというかたは、神 に向かって「天にまします我らの父よ」と呼びかけてみればよいのです。そのあとの言葉が続かなくて もよい。言葉が出なければそれでもよいのです。神を思い「天にまします我らの父よ」と呼びかける。 十字架のキリストを思い描き「主の祈り」を祈る。そうすると、そこにどんなに豊かな祈りの世界が、 また生きた信仰の世界が拡がってゆくことか。どうしても祈れない時は「天の父なる神さま。私はいま 祈ることができません」と祈ればよいのです。それも立派な祈りです。だから伝統的な祈りを知ってい たはずの弟子たちも主イエスに「祈ることを教えてください」と願ったのです。私たちは主イエスの十 字架の贖いによって父なる神に立ち帰った者として、神に愛されているかけがえのない愛し子として、 あるがままの言葉で祈れるのです。それこそ本当の意味で「忌み、宣べる」ことです。父なる神の前に、 その愛する子として立つ私たちは、キリストの御手の守りの内に立つからです。まことの父なる神を知 る時にのみ、私たちは本当に自由な者であることができるのです。  たとえば十戒もそうです。キリスト者として神を「(我らの)父」とお呼びする喜びに生きる者たちが、 真の自由の生活へと召されていることを示すのが十戒です。神を「天にまします我らの父よ」と呼ぶこ とにおいて、私たちは真に自由な僕とされているのです。神の御国の民とされているのです。パリサイ 人の義にまさる本当の義(キリストによる神の義)に生きる者たちとされているのです。神との交わり の中で、真に自由な者として生きる。それこそ父なる神が私たちに求めておられることです。この自由 こそ、パリサイ人たちが知らなかった、主イエス・キリストによって与えられた神との生きた交わり(祈 りの生活)なのです。  神を「父よ」と呼び、まことの神との永遠の交わりに生きるところに、聖霊なる神によって新しくさ れた人間の姿があります。それこそ詩篇63篇3節から6節に示されている恵みです。特に3節4節に心 をとめましょう。「あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえ る。わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる」。十字架の主が、私た ちの罪のための「いけにえ」そのものとなって下さいました。そのキリストの十字架の恵みという「い つくしみ」にこそ「主の祈り」に生きる私たちの喜びと幸いが成り立っています。そして贖いの主は私 たちに「祈りの手本」として、ご自身の祈りそのもの「主の祈り」を与えて下さいました。この主イエ スの祈りを日ごと朝ごと夜ごとに祈りつつ、この祈りに導かれ励まされて、新しい生命の歩みを始めて ゆく私たちです。ともに「手をあげて、み名を呼びまつる」幸いに生き続けようではありませんか。「い のちにもまさる」救いの恵みに支えられていることを感謝しつつ「主の祈り」を唱えつつ、新しい一週 間の歩みを歩んで参りたいと思います。