説    教    詩篇27篇1〜5節    マタイ福音書6章5〜8節

「キリスト者の祈り」

 主の祈り講解(3) 2014・11・09(14421562)  マタイによる福音書の6章5節以下には、主イエスの「祈りについての教え」が語られています。「祈 ること」は私たちにとって「主日の礼拝を守ること」「日々聖書に親しむこと」と並んで、信仰生活の基 本的な三本柱のひとつです。私たちの信仰は「神」や「人間」や「救い」に関する知識ではありません。 信仰が生きた「信仰生活」になるのは何よりも「祈り」においてです。日々「祈り」を献げることによ って、はじめて私たちの信仰は単なる知識の域を超えて、活ける神との交わりの生活となるのです。  今年、私たちは幾人もの主にある親しい信仰の友を天に送りました。甘利保子さん、そして星野淳さ んのことを思い起こすのです。二人とも「祈りの人」でした。甘利さんは4人のお子さんたちに先立た れるという、母として最大の悲しみを経験された人です。しかしその悲しみの中で、祈りの生活は深め られてゆきました。いつも葉山教会のために、そして私の牧師としての働きのために、祈りを献げてい て下さいました。星野さんも祈りの人でした。お元気なころは祈祷会にも休まず出席されていました。 星野さんの祈りはとにかく長かった。熱誠溢れる祈りをいつも献げられました。それは自宅においても 変わることはありませんでした。このような「祈りの勇者」たちの歩みを思うたびに、私たちは彼らと 共に主に栄光と讃美を帰したてまつるのです。  さて「祈り」はそのように、私たちの信仰生活の大切な“生命線”です。だからこそ主イエスは、そ の大切な「祈りの生活」について、今朝のマタイ伝6章5節において「また祈る時は、偽善者たちのよ うにするな」と厳しいことを仰せになりました。先週に続いてここにも「偽善者」という言葉が出てき ます。私たちがふだん考えているような意味ではなく、なにが私たちの祈りを“真実なもの”にするの かをお教えになっておられるのです。なによりも主は「(あなたが)祈る時には…偽善者たち」のようで あってはならないと言われました。ここでの問題の中心は「礼拝」にかかわることです。「祈り」の生活 とはそのまま「礼拝」の生活だからです。だからこそ、それは崩れてはならないものです。もしそれが 崩れたなら、植村正久牧師は「腐った鯛ほど始末に負えぬものはない」と語られました。どんなに立派 な鯛も、否、それが立派な鯛であればあるほど、もし腐ったならば、なおさら鼻持ちならぬものになる のではないでしょうか。それが「偽善者たちのようにするな」と言われた主の御言葉です。  では「偽善者の祈り」とはどのようなものでしょうか。なによりも主は5節にはっきりと言われます 「彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む」。なるべく人が大勢集まる ところで、人々の注目を浴びながら祈ろうとする、それが“偽善者の祈り”だと主は言われます。その 背景には、当時のイスラエル社会において“祈ること”が立派な「義」なる行為として尊敬されていた という事実がありました。現在の私たちの社会においては、そういう感覚は全くないでしょう。たとえ ばもし私たちが逗子駅前のロータリーで祈っていたとしたら、尊敬されるどころか「なにやら怪しい集 団がいる」と思われるかもしれない。だから私たちにはここに書かれているようなことは、まず無いと 申しても過言ではないのです。しかし、事柄はそういう問題なのでしょうか?。もちろんそうではあり ません。  むしろ続く6節に「あなたは祈る時、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあ なたの父に祈りなさい」と言われていることに、私たちは心を向けねばなりません。それはただ「人目 につかぬ場所で祈りなさい」(駅前広場で祈るべきではない)という意味ではありません。大切なのは続 く御言葉です「隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」。誰も見ていない所で祈れば、その祈 りは真実なものになるのだということではないのです。たとえ人の目があっても無くても「隠れた所に おいでになるあなたの父」である“神のまなざし”の前で祈ることにおいてこそ、その「祈り」は本当 の「祈り」になるのです。主イエスが「偽善者たちのように祈るな」と言われたのは、あなたは人前で 祈るにせよ、一人で祈るにせよ、あなたの「祈り」がいつも父なる神に向けられたものでありなさいと いうことです。だから問題は、人が見ているか見ていないかということではない。ただ主なる神の前で の「祈り」の生活になっているか否かということなのです。  よく「私は誰それさんのような立派な祈りはできません」等と言って、人前での祈りを遠慮するかた があります。しかしそれは、神の前での謙遜とは違うと思うのです。そこでも主イエスの「偽善者」と いう言葉が響くのではないでしょうか。私たちはいつでも人からの「報い」を求めてしまうからです。 「人からの報いを受ける」とは元々のギリシヤ語では「領収書を受けてしまっている」という意味です。 逆に言うならば「私のこの貧しい祈りは、人から評価を(領収書を)戴くに値しません」という遠慮を 私たちはしてしまう。それこそ「偽善者」の祈りになってしまうのです。大切なのは神からの「報い」 (評価)です。領収書を出して下さるかたは神なのです。その領収書にはこう書かれています「あなた の罪の代価は御子イエス・キリストの十字架によって完全に支払われた」と。私たちはその「神からの 報いたるキリストの恵み」を拒絶するような「祈り」の生活をしてはいないでしょうか。そこでこそ主 イエスは言われます「あなたの祈りは、偽善者の祈りであってはならない」と!。  私が親しくしているある牧師先生ですが、まだお子さんたちが(お嬢さんたちが)小学生であった頃、 家族でファミリーレストランで食事をしていたとき、食前の祈りの声が小さいと、お嬢さんたちに言わ れたそうです。「お父さんはずるい」。「お父さんはいつも家では大きな声でお祈りするのに、どうしてフ ァミレスでは小さな声なの?」と言われたそうです。これには参ったとその牧師先生は語っておられま した。またこれは私ごとですが、天に召された中田荘一さんと、何かの用事で東京行きの電車に乗って いましたとき、中田さんが電車の中でいつもの、あの大きな声で祈られたことがあった。私は正直に申 して少し慌てました。ほぼ満員に近い電車だったからです。しかしそれも立派な祈りの姿勢ではなかっ たでしょうか。人に見せんとしてではない、ただ主なる神の御前で祈りを献げたのです。私はよく病院 に行きますが、病室で祈りを献げます。あまり大きな声では祈りませんが、狭い病室ですから他の患者 さんたちにも聞こえます。すると予期せぬ反応が返ってくることがあります。「キリスト教のお祈りは良 いですね。私も教会に行きたくなりました」と言われたことが幾度もありました。人の顔に対してでは なく、ただ神の御顔のみを仰いで祈る。その基軸が明確であるなら、たとえどこで祈ろうとも、私たち は祝福を告げる主イエスの僕とされているのではないでしょうか。  続く7節と8節には「異邦人のように、くどくどと祈るな」と教えられています。この「異邦人」と は、まことの神を知らず、むしろ神に叛く歩みをしている人のことです。そうすると「祈り」が対象の ない「祈り」になってしまう。だからその祈りは「くどくどと祈る」ものとなり「言葉かずが多ければ、 聞きいれられるものと思っている」偽善者の「祈り」になってしまうのです。この「くどくど」と訳さ れた言葉は「呪文」というギリシヤ語です。本当の神を知らない人たちが、数多くの神々の名を呪文の ように羅列して唱えたことをさしています。その呪文の中心は人間である私たちであって、主なるまこ との神ではありません。だからこそ、ここでも私たちは、自分を度外視することはできないのです。  私たちの「祈り」もまた、ともすると自分の願いだけの「呪文」に似たものになってしまう危険があ るからです。神を「呪文」で動かそうとする「偽善者の祈り」に似たものになることがあるのです。私 たちこそ「祈り」において「異邦人」になることがあるのです。だから「彼らのまねをするな」と主は 言われます。「まねをする必要はない」と主は言われるのです。それほどあなたは、本当の「祈り」の幸 いに生きる者とされているではないか。まことの神を知らない「異邦人」は、どの神が自分に恵みを与 えてくれるか知らないから「言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている」。神々の名を手当 たり次第に呼んで、どれかが答えてくれると期待するのです。私たちの「祈り」は違います。私たちは 御子イエス・キリストを世に与えたもうたほどに、私たちを、またこの世界を、限りなく愛しておられ る父なる神に祈るのです。  だから主は8節にこう言われました。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必 要なものはご存じなのである」。御子イエスをさえ惜しまず世に与えて下さったまことの神は、願う前か ら私たちに必要なものをご存じでありたもう。「異邦人」の神は、人間が願い求めを「呪文」のように繰 返させねばならない神です。しかし主イエスが私たちに教えて下さったまことの神は「求めない先から、 あなたがたに必要なものはご存じ」でありたもうのです。なぜでしょうか?。「異邦人」の神は、私たち とは別のほうを見ているから、私たちは「呪文」によってその神に振り向いてもらわねばならない。だ から「異邦人の神」への「祈り」は「呪文」になるのです。私たちが祈るまことの神はそういうかたで はない。私たちが神に目を向け願う以前から、つまり私たちが信仰を持ち祈る以前から、まことの神は、 まず私たちのことを知りたまい、私たちを見つめたまい、私たちの救いのために御業を現して下さるか たなのです。ご自分のほうから私たちに近寄って来て下さったかたなのです。そして、私たちの必要を ご存じである神は、必要なものを必要な時に与えて下さるかたです。だからこそ私たちは全き信頼をも って「キリスト者の祈り」に生きうるのです。  まことの神がそういうかたであられることは、なによりも、今朝の教えを語られた主イエス・キリス トのご生涯を見ればわかるのです。主イエスは父なる神によってこの世に、私たちの罪のどん底に遣わ された独子です。神が独子を遣わして下さったのは、人間がそのように祈り求めたからではなく、神の 無償の(一方的な)恵みのゆえにです。そして主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架上に死 んで下さいました。それは、私たちが神を知らず神に叛いていた時にさえ、まことの神はその独子を世 に遣わし、主イエスの十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、永遠の生命を私たちに与えて下さ ったのです。  まさに真の神は、私たちに本当に必要な救いを、恵みを、祝福を、それを私たちが願う以前に備えて いて下さり、最も良き時に与えて下さるかたです。私たちはその恵みを、主イエスの十字架の贖いによ って知る者とされたのです。だから主イエスが「父よ」と呼びたもう神を、私たちもまた「天にましま す我らの父よ」と呼びまつる者とされているのです。この主イエスの恵みを覚えつつ、その祝福の中で 神の子として、御国の民とされた者として、私たちは「キリスト者の祈り」に生き続けます。今朝の詩 篇27篇4節を心に留めましょう。「わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、そ の宮で尋ねきわめることを」ここに「祈り」の幸いが私たちと共にあります。この恵みが、この幸いが、 私たち一人びとりと共にあることを覚え、感謝をもって「キリスト者の祈り」の生活を続けてゆきたい と思います。