説     教      創世記28章16節    エペソ書1章23節

「キリストの身体」

2014・10・19(説教14421559)  私たちは「教会生活」という言葉をごく普通に用いています。しかし考えてみれば、これは不思議な 言葉ではないでしょうか。少なくとも他の外国語にはあまり例がないのではないかと思います。それは 「教会を中心とした日常の生活」という意味でありましょう。その意味で、私たちの教会は「教会生活」 を大切にする教会です。「礼拝を大切にする教会」と言い換えても良いでしょう。かつて昔の中国のプロ テスタント教会のキリスト者たちは、礼拝を生活の第一の日とする意味で、日曜日のことを「礼拝」と 呼び、月曜日を「礼拝一」、火曜日を「礼拝二」、水曜日を「礼拝三」というように呼びました。礼拝(主 の教会における祝福の御言葉)を機軸として、一週間のそれぞれの日へと“遣わされている”ことを言 い現したのです。これは素晴らしい伝統です。私たちにも自覚をもって継承すべき「教会生活の光栄と 幸い」があるのではないでしょうか。  私たちは、みずからの功績、資格、清さ、正しさなどによらず、ただ御子イエス・キリストの恵みに よって尊い救いへと招き入れられ、キリストの十字架と復活の身体なる教会に結ばれた者たちです。教 会は主なる神が御子と聖霊によって全世界に行っておられる救いの御業の器であり、私たちはみずから の意思や計画によってではなく、ただ恵みによって教会に招かれ、主の復活の生命に連ならせて戴いて います。言い換えるなら、私たちは自分の意思で教会生活を選んだのではなく、主がここに導き招いて 下さったゆえに葉山教会に連なっているのです。教会の主がキリストであられるように、私たちは「教 会生活」においてこそ、主キリストに絶えず結ばれた者として生きる幸いを与えられているのです。  そこで、教会に連なること(教会生活を大切にすること)は、キリストに連なる生命を大切に生きる 幸いです。すなわち教会から離れることは、キリストの生命から離れてしまうことです。だから「私は 神を信じるけれども、教会生活(礼拝)はしない」という信仰の生活はありえません。キリスト者であ ることと教会生活者であることは不可分離です。枝が幹から離れたなら枯れてしまうほかはないように、 教会という信仰の幹から離れた信仰生活は、やがて主観的な生命の無いものになり、個人崇拝や分派の 弊害に陥り、生命が枯渇してしまうほかはありません。「教会生活」は聖霊なる神が御言葉において示し て下さる信仰の道を、神の導きによって忠実に歩む生活です。この信仰の道の中心は、神の御言葉が「い まここにおける、私たちの救いの出来事」として宣べ伝えられていること、そして宣べ伝えられた御言 葉に私たちが聴き従い、信仰によって応えることです。私たちは御言葉を宣べ伝えつつ神を礼拝し、神 を礼拝しつつ御言葉を宣べ伝える群れです。毎週の主日ごとの礼拝こそ信仰生活の基本軸であり中心で す。それはなぜでしょうか?。礼拝は、キリストご自身にあずかる出来事(主に結ばれる祝福の出来事) だからです。そこに全ての人々が招かれているのです。  だから礼拝は、キリスト教についての講演会や聖書についての勉強会ではありません。同じように教 会は、私たちの知識や経験に新たな項目を加えるカルチャーセンターではありません。私たちが教会に 集い礼拝を献げるのは、知識や教養や人生教訓を得るためではなく、キリストにおける「いまここにお ける救いの出来事」(神の救いの御業)にあずかり、神を讃美し、ただ神にのみ栄光を帰したてまつり、 御言葉に生かされる新しい人生を歩むことです。礼拝において起る出来事は、人生にプラスαを与える ライフスタイルの充実ではなく「罪の贖い」であり「死者の復活」であり「身体のよみがえり」なので す。それをこそ、私たちはいま味わい知る者とされているのです。  今朝の御言葉、エペソ書1章23節をもう一度お読みしましょう。「この教会はキリストのからだであ って、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしておられるかたが、満ちみちているものに、ほか ならない」。ここに「この教会はキリストのからだであって」と告げられています。なんと感謝すべきこ とでしょうか。私たちが教会員として連なっているこの葉山教会は「キリストのからだ」なのです。「キ リストのからだ」であるということは、その枝(肢体)である私たちにキリストの生命が注がれている ことです。そして同時にここには「すべてのものを、すべてのもののうちに満たしておられるかたが、 満ちみちている」のです。私たちは全てのものを失った(奪われた)としても、キリストの身体なる教 会に連なっているなら、いっさいのことにおいて「満たされている」のです。この限りない幸いと祝福 を知るということが「教会生活」の幸いを知ることです。同じエペソ書3章16節以下をお読みしまし ょう。「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くし て下さるように。また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根 ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解する ことができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、 あなたがたが満たされるように、と祈る」。そしてコロサイ書2章3節「キリストのうちには、知恵と 知識との宝が、いっさい隠されている」。  よく申し上げることですが、ドイツ語では「礼拝」のことを“ゴッテスディーンスト”と言います。 これは2つの意味を持つ言葉です。第一には「私たちが神に献げる奉仕」。第二は「神が私たちに献げ て下さった奉仕」です。大切なのは第二の意味のほうです。礼拝は(つまり私たちの教会生活は)主イ エス・キリストの十字架による罪の贖いという測り知れない恵みの出来事の上に成り立っているものな のです。キリストの十字架の恵みの満ち溢れる豊かさの上に、私たちの献げる「礼拝」が成り立ってい るのです。これを知るならば、私たちは「教会生活」においてこそ「知恵と知識との宝が、いっさい隠 されている」ことを知る者とされているのではないでしょうか。旧日本基督教会の信仰の先達、植村正 久牧師は、キリスト者が喜び祝うべき礼拝の精神を「まつろひ」という日本語であらわしています。あ る説教の中でこのように語っています。「まつろひは背くの反対にして、心の底より服従し、深く恭敬の 意を表はし、上よりの命あらば、直ちに其の事を承はり行はんと待ち構ふる意なり」。植村牧師は旗本幕 臣の家に生まれた人ですから、そこには具体的なイメージがあったのでしょう。それは私たちにとって も同様の光栄であり幸いであると思うのです。私たちがキリストの十字架の恵みを「いまこの私への救 いの出来事」として信じ、全ての人を救う神の「わざ」として受けいれ、謹んでその御言葉に従い、「上 よりの命を承はり行はんと待ち構ふる」礼拝こそ、神奉仕(ゴッテスディーンスト)の本質なのです。  ここに、ひとつの憂うべき現実があります。ある人が、現代日本のキリスト者の「教会生活」につい て調査をしました。結果はどうであったかと言いますと、せっかく洗礼を受ける喜びを与えられたにも かかわらず、そのうちの少なからぬ人々が、平均するとわずか2年半で教会から足が遠のいているそう です。その人はこう語っています「日本のキリスト者の平均寿命は2年半である」と。もしそれが現実 なら、その原因は何でしょうか?。それこそ私たちが植村牧師の語る神への「まつろひ」(教会生活の光 栄と幸い)を失っていることによるのではないでしょうか。もしそうなら、私たちはいま改めて福音を 聴く者とされています。ここにパウロはまぎれもなく「この教会はキリストのからだであって」と語っ ているのです。「いま私たちが連なる主の教会、それはキリストの身体である」と宣言されているのです。 私たちは教会生活(礼拝者の生活)においてこそキリストの満ち溢れる祝福の富にあずかる者とされて いるではないか。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知り、神に満ちているもののすべてをもって、 満たされる」者とされているではないか。主が贖いお建て下さった教会生活を生きる僕とされているで はないか。主みずからそのように告げていて下さるのです。  私の好きなドイツの作家にアルプレヒト・ゲースという人がいます。ほんらいこの人は牧師でありま して、その牧会の経験の中から深い人間洞察と同時に、人生の勇気と祝福を指し示す慰めに満ちた小説 を幾つも書いている人です。この人がある小説の中でこういうことを語っています。私たちはやがてい つの日か、この地上における旅路を終えて神のみもとに召される時を迎える。そのとき私たちは、御国 (天国)においてどのようなことを語り合うのか。天国は永遠の喜びと幸いがある場所である。私たち がそこで語り合う光栄と喜びとはどのようなものなのか?。ゲース牧師はこう語るのです。「使徒ペテロ は、3度も主イエスを裏切った自分がどんなに大きな主の愛によって再び使徒とされたか、その喜びを 語るであろう。サマリヤのスカルの女性は、罪人のレッテルを貼られていた自分に主が井戸端で出会っ て下さり“生命の水”で満たして下さった喜びを語るであろう。マルタとマリヤの兄弟ラザロは、死ん でから4日も墓に閉じこめられていた自分を、主が御言葉によって甦らせて下さった喜びを語るであろ う。では私たちはそこで何を物語るのか?。私たちは自分が歩んできた「教会生活」の光栄と幸いを語 るのではないか。罪の塊りのようなこの自分を、主が十字架の贖いによって救って下さり、なんの値も ないまま、あるがままに、主の教会に連なる者として下さった、その喜びを語るのでなくして、他のど んな喜びと幸いを語るというのか。  その意味では、私たちはまさにこの歴史と地上における「教会生活」の中でこそ、永遠に向けての備 えをしているのです。主の御前に立つ喜びと光栄を先取りしつつ、主がこの私を招いていて下さる十字 架の贖いの恵みをもって、ご自身の血潮を流してまでも私の全存在を贖って下さった、その幸いを全て にまさる光栄としまた喜びとして、私たちはいまここに、この葉山教会に連なる者とされているのです。 この「教会生活」の中でこそ、私たちの日々の生活は礼拝を基本線としたキリストの祝福を全ての人に 証するものとされるのです。主の教会に時と力と宝と祈りとをもってお仕えすることを通して、私たち は永遠の御国において主にお仕えするための備えをしているのです。  その意味で、私たちは「教会生活」の深みに大胆に踏みこんでゆく僕となりたいのです。キリストが 私たちをどんなに限りない愛をもって愛して下さったか、そのキリストの愛に応えて生きるとき、私た ちの人生には本物の光栄と幸いがあるのです。あるがままに“神の家庭の家族”とされた私たちです。 神が私たちに無償で与えて下さった新しい生命の喜びと幸いに支えられ、それを他の多くの人たちにも 分かち合うものとされているのです。私たちはこの世の旅路を歩みつつ、同時に主の身体に堅く結ばれ た者として御国への道を歩む復活の共同体なのです。この世の旅路の中で御国の糧に養われてゆく光栄 と幸いに生きる僕たちなのです。  スイス改革派教会の神学者カール・バルトは「教会は礼拝のたびごとに新たにされてゆく」と語りま した。これは16世紀以来私たちの教会の標語とされている「御言葉によって改革された教会は、絶え ず御言葉によって改革され続ける」という言葉と繋がります。ここにも「教会生活」の光栄と幸いがあ ります。ただ神の栄光のみを現わす真実な礼拝が献げられ、御言葉によって私たちが打ち砕かれて、キ リストの生命に連なる者とされてゆくとき、その教会はたとえこの世の目からはどんなに小さな群れで あっても、キリストの大いなる救いの出来事を、全世界に告げてゆく群れとされているのです。まさに 「まつろひ」の生活です。私たちもまた礼拝のたびごとに新たにされ、御言葉に養われ、死から生命へ と移されて、主にある真の自由と祝福と幸いとを、全ての人々に担いゆく者とされているのです。