説    教    申命記10章12〜13節  ヨハネ福音書6章70〜71

「ユダの姿、我らの姿」

2014・10・12(説教14411558)  聖書に登場する人物の中で、イスカリオテのユダほど多くの謎に満ちた人間はいないでしょ う。ユダの名は「裏切り者」の代名詞にもなっています。英語でも「ユダ」と言えば「裏切り 者」という意味です。「あれはユダのような人間だ」と言えば「あの人は信頼できない人間だ」 という意味になるのです。もっとも、もしユダが主イエスの十二弟子の一人でなかったなら、 こうした汚名もなかったことでしょう。ユダが「裏切り者」の代名詞になったのは、彼がまさ にキリストの「十二弟子」であり、キリストに「選ばれた人」であったにもかかわらず、キリ ストを「裏切った」事実によるのです。今朝の御言葉・ヨハネ伝6章71節には「このユダは、 十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた」と記されています。主イエス に選ばれ、主イエスに愛され、主イエスと共にありながら、なお主イエスを「裏切った」こと に「イスカリオテのユダ」の「罪」があると、ヨハネははっきりと語っているのです。  ある西洋美術の専門家から、イスカリオテのユダの描きかたが時代によって変化してきたと いう話を聴いたことがあります。12世紀ぐらいのヨーロッパ中世の絵画を観ますと、ユダは実 に醜い悪魔のような姿で描かれています。頭に角があったり、尻尾があったりする。16世紀ぐ らいになっても、他のキリストの弟子たちと区別して、ひと目でユダだとわかる描きかたがさ れています。ところがレオナルド・ダ・ヴィンチが最初なのだそうですが、レオナルド・ダ・ ヴィンチは、あの有名な「最後の晩餐」という壁画において、それまでの絵とは全く違ったユ ダを描いているのです。横長の画面にキリストを中心に左右6人ずつの弟子が描かれています。 さらに弟子たちは3人ずつ4つのグループになっています。その4つのグループがそれぞれ「つ ぶやき」あっている場面です。そのどこにユダがいるのか、全く見当がつかないのです。おそ らくレオナルド・ダ・ヴィンチは大胆な問いをもってこの絵を描いています。それは「ユダと は、もしかしたら自分なのかもしれない」と気づかせる絵なのです。自分の外にユダがいるの ではなく、自分の中にこそユダがいるのだということに、この絵は気づかせるのです。  かつて、スイス生まれの思想家マックス・ピカート(敬虔なプロテスタントの信者であった 人です)が「われわれ自身の内なるヒトラー」という本を著しました。日本語にも翻訳されて います。あの悲惨な第二次世界大戦が終わり、敗戦国も戦勝国も国際社会全体が戦争責任を巡 ってせめぎ合う中で、ピカートは「戦勝国も敗戦国も戦争責任においては平等である。なぜな ら、われわれの中にこそヒトラーは存在するからだ。誰でもがヒトラーになる可能性を、すな わち神に対する罪を持っている」と語っているのです。その「罪」の問題の解決なくして、新 しい世界の平和の秩序を構築することはできないと訴えるのです。  もともと「ユダ」という名前は「神を讃美しよう」という意味のヘブライ語で、そこに悪い 意味など少しもありません。今朝の6章71節には「イスカリオテのシモンの子ユダ」とユダの 父親の名さえ記されています。「シモン」とは「神は聴きたもう」という意味ですから、おそら くユダは敬虔なユダヤ人の家庭に生まれ育った人なのです。「イスカリオテ」については諸説あ ります。「ケリオテの人」を意味するという説と「スカル出身の人」と理解する説があります。 もし「イスカリオテ」を「スカル出身の人」と解釈するとすれば、ユダは「十二弟子」の中で ただ一人サマリヤ出身の人だということになります。この他にも「イスカリオテ」を「イーシ ュ・シッカリ」(熱心党の人)と読む説、あるいはユダがマルタ、マリア、ラザロの兄弟だとす る説もあります。いずれにせよ、今朝の御言葉において最も大切なことは、主イエスご自身が ユダについて語っておられる70節の御言葉です。「イエスは彼らに答えられた、『あなたがた十 二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは、悪魔 である』」。そして続く71節の最初には「これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言わ れたのである」と記されています。そのあとで「このユダは……イエスを裏切ろうとしていた」 と続くのです。  これは、まことに厳しい御言葉です。これ以上に厳しい言葉はないと言えるでしょう。主イ エスみずからはっきりと「イスカリオテのユダ」に対して「悪魔」という言葉を用いておられ る。それなら、まさにここにこそ私たちの「罪」の姿が明らかにされているのです。私たち人 間にとって自分の「罪」ほど「わかりにくいもの」はないからです。主にはっきりと指摘して頂 かなくてはわからないのです。あなたの「罪」は何かと問われて明確な返事ができる人はいな いのです。まさにその私たちのために、主は「悪魔」という言葉をさえ用いて下さいます。こ こに私たちははじめて、みずからの「罪」の正体に直面するのです。この「悪魔」とは「神に 敵対する者」という意味の「サターナー」(サタン)というヘブライ語です。ですからそれは一 般的な「悪」「弱さ」「愚かさ」とは違います。主イエス・キリストが明確にご自分の十字架に よって私たちを贖って下さった「罪の支配」「死の力」こそ「悪魔」(サタン)です。つまり私 たちの「罪」を主が「悪魔」と語って下さる意味は、主イエスのみが私たちをその「悪魔」(罪 と死の支配)から十字架の贖いをもって救って下さる唯一の救い主であることを明確にしてお られるのです。  それならば、大切なことですが、主がここで「イスカリオテのユダ」を「悪魔」と呼んでお られるのは、ユダを排斥しておられるのではないのです。その逆なのです。まさにご自分こそ 「イスカリオテのユダ」に対しても「救い主・キリスト」であられることを明らかにしておら れるのです。なによりも主イエスご自身、あの荒野の四十日の試練において「悪魔よ退け」と 「罪の支配」に勝利して下さいました。ただ神の言葉による真の自由と幸いと慰めとに、十字 架により(教会により)私たちを連ならせて下さったのです。だからこそ主イエスはここにユ ダに対しても宣言して下さるのです「あなたは私が弟子として選んだ者である。あなたは『罪 の支配』にあなたの人生を委ねるのではなく、私に委ねる者になりなさい。なぜなら私は、あ なたの罪を贖うために来たからだ。私はあなたのために十字架にかかり、復活の生命を与える ために来たのだ。だから私の恵みのもとに留まっていなさい。信仰に堅く立ちなさい」。そのよ うに主はユダに対して語っておられるのです。マタイ伝11章28節を心に留めましょう。「すべ て重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさ い。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、 わたしの荷は軽いからである」。  ユダヤにおいては2頭の家畜がひとつの「くびき」を負いました。同じように主イエスはい ま、イスカリオテのユダの「罪」という重い「くびき」を(彼が決して負うことのできない重 い「くびき」を)担って下さるのです。そのとき、あなたの人生を圧し潰すその「くびき」は、 私がそれを共に担うことによって、軽やかな負いやすい「わたしのくびき」(キリストの祝福) となるのだ!。そのとき「あなたの魂に休みが与えられる」のだと主は宣言して下さるのです。 だからこそ改めて気がつきます。ユダは私たちの外にいる「誰か」のことではなく、キリスト を裏切ったユダはまさに私たちの姿なのです。自分の周囲を見回して「あそこに怖ろしい罪が ある。しかし自分は無関係である」ということではない。ユダの罪こそはまさに私たちの姿な のです。その「悪魔」が私たちを滅ぼそうとするとき、重い「くびき」が私たちを押し潰そう とするとき、主がここにはっきりと告げていて下さいます。私はまさにあなたをその「罪」(く びき)から解放するため、あなたを神の恵みの支配のもとに取り戻すために来たのだ。  「もしユダに救いがなければ、この私にも救いはなかった」と語った人がいました。私たち の「罪」はユダの「罪」と同じなのです。それならユダの救い主は私たちの救い主なのです。 キリストを「裏切った」「罪」はイスカリオテのユダも他の弟子たちも全く同じでした。ペテロ などは3度も主イエスを裏切りました。他の弟子たちもみな十字架を前にしてクモの子を散ら すように逃げてしまった。キリストを「裏切った」のです。私たちを神から引き離そうとする「罪 の支配」は全ての人間が持っているのです。ユダの罪こそほかならぬ私たちの姿なのです。私 たちは聖書がユダの悲劇的な最後を描いていることを知っています。では、大きな疑問を私た ちは抱きます。ユダは救われたのでしょうか?。それとも滅びてしまったのでしょうか?。… それは私たちの窺い知れる事柄ではありません。大切なこと(確かなこと)はただひとつです。 それは、主イエス・キリストはユダに対しても(ユダに対してこそ)「救い主」(キリスト)で あられたという事実です。「罪のまし加わるところ恵みもまし加われり」です。「悪魔」の力を 打ち砕く唯一の“救いの権威”(十字架)をもって、主はユダに対しても「救い主」であられた のです。  だからこそ、そこで際立つのはユダと他の弟子たちとの主イエスに対する態度です。信仰告 白の問題です。ペテロや他の弟子たちはみな、取り返しのつかない大きな「罪」の中から、た だキリストの恵みに拠り頼みました。これを聖書では「悔改め」と言います。「悔改め」とは「神 に立ち帰る」ことです。大きな「罪」の中で、キリストの慈しみ御手に自分を明け渡したので す。神に立ち帰ったのです。主を3度も裏切ったペテロは夜が更けるまで泣き続けました。泣 きながら思い続けたのは主の御言葉でした。ペテロは主の御言葉を思い続け、主の恵みの御手 に自分の全てを委ねました。そこにペテロの「使徒」としての新しい生命の歩みが始まりまし た。他の弟子たちも同じでした。神の前に誇れる何物もなかった彼らはただ、全ての人を十字 架によって「罪の支配」から贖いたもうキリストの「恵み」のみを誇った(信じた)のです。 キリストの恵みと憐れみのもとに立ち続けたのです。  しかしユダはどうであったか。ユダは自分の「罪」の解決を、人間に求めてしまいました。自 分が銀貨30枚を受け取った祭司長たちのところに行き「私は罪なきかた(主)を裏切って罪を おかしました。どうしたら良いでしょうか?」と訴えたのです。彼らの答えは「そんなことは われわれの知ったことか。自分で始末をつけるがよい」というものでした。この冷酷な祭司長 たちの言葉により、ユダはついに自らの生命を絶つ道を選んでしまいました。絶望してしまっ たのです。ユダは自分の魂を絶望という「罪」の手に委ねてしまったのです。ペテロの魂も同 じように砕けました。ユダ以上の罪をおかしたペテロは、しかし自分の魂を絶望に委ねたので はなく、キリストの慈しみの御手に委ねたのでした。ユダは砕けた魂を人間に向かって注ぎ、 ペテロは神に向かって注いだのです。そして、砕けた魂を受けとめて下さるのは神のみなので す。それを人間に委ねるなら、そこには救いも希望もなく、悲しみと絶望だけが残るのです。 重い罪の「くびき」を自分が負い続けるほかないからです。その「くびき」がユダの存在を圧 し潰したように、私たちの存在をも押し潰すのです。  まさにそのユダに対して、主イエスは最後まで「救い主」でありたもうた。ユダのために(私 たちのために)主は十字架を担われたのです。イスカリオテのユダが「救われた」のか「滅び た」のか、その答えは私たちには出ないでしょう。大切なことはただひとつです。「神の受けら れるいけにえは砕けた魂。神よ、あなたは砕けた悔いた心を、軽しめられません」(詩篇51:17)。 たとえ誰であれ、どんな罪をおかした者であれ、キリストの御手に自分の魂(存在)を委ねる ならば、その魂を主は必ず受けとめて下さいます。新たな生命を与えて下さいます。立ち上が らせて下さいます。絶望に向かう重い「くびき」さえも、主は軽やかな「祝福のくびき」に変 えて下さるのです。その「くびき」を負うとき、私たちは「悪魔」の支配を打ち砕いて下さっ た永遠に変らないキリストの恵みのご支配の内を生きる者とされるのです。インマヌエル。主 が我らと共におられるのです。そこに私たちは「キリストの内に自分を見出し」キリストの生 命を戴き、贖われた僕として歩んでゆきます。その生命の恵みにいま、全ての人が招かれてい るのです。