説    教     詩篇79篇9節   ヨハネ福音書6章28〜29節

「 神のわざ 」

2014・10・05(説教14401557)  私たちキリスト者の「救い」は、キリストの十字架による罪の贖いにより「永遠の生命」を戴 くことです。この「永遠の生命」とは「神との正しい生きた関係に入らせて戴くこと」です。こ れなくして、私たち人間は本当に生きた者とはなりえません。だからこそ主イエスから“生命の パン”を戴いた人々は、主イエスに深い問いを投げかけています。「神のわざを行うために、わ たしたちは何をしたらよいでしょうか」。まことに不思議な問いです。「何をしたらよいでしょう か」とは「なすべき(人間の)わざ」を問うことです。しかもそれは「神のわざを行うために」 と言うのです。実はそこにこそ、全ての人の本当の魂の飢え渇きがあるのではないでしょうか。 「永遠の生命のパン」があるのではないでしょうか。「人間のわざ」が「神のわざを行う」こと になる生活。そこに私たちの人生の最大目的があるからです。  この、最も大切なヨハネ伝6章28節の「問い」に対して、主イエスははっきりと「神がつか わされた者を信じることが、神のわざである」とお答えになるのです。「神からつかわされた者 を信じることが、神のわざである」。つまり「神からつかわされた者を信じること」(教会に結ば れた信仰生活)にこそ、人生の最大目的があり最大幸福があるのだと、主は明確に答えておられ るのです。  そこで、もし私たちならこの「問い」にどう答えるでしょうか?。おそらく私たちは「神のわ ざを行う」ことは全く問いもせず、ただ「何をしたらよいか」という人間の行為(当為)の問題 だけに終始してしまうのではないでしょうか。もちろん、人間の行為の問題(何をなすべきか) も大切です。いわゆる倫理道徳(主義主張)の問題です。哲学の課題としての人生の最大目的で す。そしてそれについては、人それぞれ十人十色の様々な答えが出てくることでしょう。少なく とも人間の行為の問題に関するかぎり「なすべき唯一の正しい行い」というものは存在しえない。 それは比較対象すべき問題ではなく、その人その人にとっての「そのつど為すべきより正しい行 い」を問うことでしかありえないからです。相対的な問題なのです。だからそこには主義主張の 対立が起こります。ある人にとって「正しい」ことが、他の人にとっては「正しくない」という ことが起こりうるのです。パリサイ人たちの律法をめぐる議論と同じです。パリサイ人たちはま さに、比較対象できない倫理道徳の問題を絶対化しようとして袋小路に陥っていたのです。相対 的な問題を絶対化しようとするとき、人間は例外なく「審き」という名の袋小路に迷いこむので す。  そうした私たちに対して、主イエスはまことに明確な唯一の答えを与えて下さいます。それが 今朝の御言葉の29節です。「イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じるこ とが、神のわざである』」。実に主イエスは驚くべきことを語られます。「神がつかわされた者を 信じること」それ以外に「神のわざ」を行う道はないと言われるのです。これこそ相対的な倫理 道徳を超えた、人生の最大目的を告げる福音の言葉です。私たち人間の(世界の)混乱と無秩序 に対する神からの返答です。そこで、これを聴いたパリサイ人らは本当に驚いたと思います。な ぜならここで、主イエスは倫理の問題を踏み越えておられるからです。「行い」ではないと言わ れるからです。主が求めておられることはただひとつです。「神がつかわされた者を信じること」 です。そしてこの「神がつかわされた者」とは十字架の主イエス・キリストのことです。十字架 の主イエス・キリストを信じること。十字架の主に自分を投げかけること。それこそ「神のわざ を行う」ことなのです。  改めて考えるなら、もし私たちが自分の「行い」を問われるなら、絶望するしかないのではな いでしょうか。なぜなら、私たちには神の御前に誇りうるいかなる功績も無いからです。神の前 に「功績」ありとすればそれは完全な人です。もし完全な人だけが救われるのだとすれば、私た ちには「救い」は無いと言わざるをえないのです。この袋小路に陥る私たちに対して、主イエス はただ「信仰」のみをお求めになる。ヨハネ伝15章4節が私たちに告げられています。「わたし に繋がっていなさい」と主はいま語っていて下さいます。そして「わたしはいつも、永遠までも、 あなたと共にいる」と約束して下さるのです。これが今朝の御言葉の意味なのです。  そこで私たちは、同じ新約聖書マルコ伝14章3節以下に、ひとつの出来事が記されているの を知ります。ベタニヤという町のある家で主イエスが食事をしておられたとき、その食事の席に いきなり一人の女性(主イエスから罪の赦しを戴いた女性)が入って参りまして「非常に高価で 純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼ」を壊し、中身の香油をぜんぶ主イエスの御頭に注 ぎかけた。それは神に対する彼女の感謝と献身の現れでした。ところが見ていた人々は彼女の行 為を非難したのです。「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以 上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」と言ったのです。そして「女をきびし くとがめた」と記されているのです。  そのとき、主イエスは人々を諌めてこう言われました。「するままにさせておきなさい。なぜ 女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒 にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたとい つも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだ に油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこで でも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。主は「行 い」(倫理)を軽んじておられるのではありません。「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒に いる」という言葉がそれを明確に現わしています。しかしこの女性が主イエスにした精一杯の行 為を「もったいない」と言ってなじり、彼女を審いた人々は不思議なことに「いつも一緒にいる」 はずの「貧しい人たち」の存在を忘たように無視していました。しかしこの名もなき女性は、主 イエスに自分のいちばん尊い持物を献げることによって、主イエスを救い主(キリスト)と告白 し、主イエスの十字架のために「葬りの備え」をしたのです。彼女は倫理を大上段に振りかざす 人々によって審かれました。しかしその審きの視線の中で、キリストに自分の全てを投げかけ(委 ね)ました。自分こそ正義であると誇り昂ぶる人々の中で、彼女はひたすら十字架の主のみを見 つめ、十字架の主の恵みの中に立ち続けたのでした。彼女の持物を金額でしか評価しなかった 人々の前で、彼女はそれを全部ささげて、なお足りぬ感謝を主に献げたのでした。  主はここで宣言して下さいます。自分を誇り昂ぶる“正しい人々”にではなく、まさにこの、 人々に審かれ蔑まれ汚名を着せられた名もなきこの女性のことを「全世界のどこででも、福音が 宣べ伝えられる所では、この女のしたことも記念として語られるであろう」と宣言して下さいま す。なぜか?。彼女は主イエスを「十字架による私の罪の贖い主」と信じたからです。「神がつ かわされたかた」を信じたからです。ここにこそ全ての人の「救い」そのものである「神のわざ」 があると主は宣言して下さったのです。彼女を審くパリサイ人らに対して、主は「この『神のわ ざ』にあなたがたも生きる者になりなさい」と言いたもうたのです。私の十字架の贖いの恵みの 中でこそ、この女性のなした「わざ」が全世界に記念されるであろうと宣言されたのです。  私たちは、人間関係のことだけに心を向け、いかにもそれを重んじているようでありつつ、実 はその人間関係においてこそ自己中心であり、相手を審く「罪」をおかし続けているのではない でしょうか。むしろ私たちは知らねばなりません。私たちにとって最も大切な「なすべきわざ」 とは「神がつかわされたかた(十字架の主イエス・キリスト)を信じること」なのです。それこ そが人生の最大目的であり「最大幸福」(ジョン・オーマン)なのです。私たちは自分の功績で 「神のわざを行う」ことは決してできません。そうではなく「神がつかわされた者を信じること が、神のわざ」なのです。「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」 と問う人々に対して、主イエスはただ「信仰」だけをお求めになるのです。  私はドストエフスキーの小説が好きですが、それはドストエフスキーは「神の問題」をいつも 中心に据えているからです。では神のことだけを語っているのかと申しますと、そうではない。 神について語ることは、実は最も深く鋭く真実な意味において「人間」を語ることになるのです。 礼拝も同じです。日曜日の礼拝出席を妨げる原因など幾らでもあります。その「人間のわざ」を 思い切りよく棄てて、日曜日の礼拝(神のわざ)へと私たちの全生活を切り替えることが必要な のではないでしょうか。神が遣わたもうた御子イエス・キリストを「わが主・救い主」と告白す る信仰においてこそ、はじめて人間関係も正しく形作られてゆくのです。本当に健やかな人間関 係(社会生活)はなによりもまず、神の御子イエス・キリストを信ずる信仰に生き切ることによ るのです。  詩篇79篇9節「われらの救の神よ、み名の栄光のためにわれらを助け、み名のためにわれら を救い、われらの罪をおゆるしください」。ここに「み名のため」「み名のために」と繰り返し祈 られます。これは文語では「御名のゆえに」です。この「ゆえに」とは、唯一の御名(イエス・ キリスト)を信じることです。まさに「神が遣わされたかたを信じること」です。私たちはただ キリストによってのみ救われるのです。他のなんの功績もありえないのです。なんの資格や条件 もいらないのです。ただひたすらキリストの御名のゆえに、キリストに自分を投げかける(委ね る)のみです。キリストを信じ、キリストを「わが主」と告白するのみです。それが「神のわざ を行う」ことなのです。 もう一度今朝の御言葉を心にとめましょう。「そこで、彼らはイエス に言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』。イエスは彼らに 答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」。