説    教    詩篇89篇8〜9節   ヨハネ福音書6章15〜21節

「嵐の中の平安」

2014・09・28(説教14391556)  それは弟子たちだけで、ガリラヤ湖を舟で渡ろうとした時のことでした。今朝のヨハネ伝6章15節 を見ますと「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また 山に退かれた」と記されています。主イエスがなさった数々の不思議なわざの噂を聞いた人々は、なん とか主イエスを「とらえて王に(祭り上げようと)して」いたのです。その企てを知られた主は、お一 人で「山に退かれ」祈りに専念しようとされたのです。主イエスが世に来られた目的は、全ての人々の 罪の贖いのために十字架におかかりになり、世界の「救い」を成し遂げられるためです。この世の王に なることではありません。しかしそれを全く理解しない群集が、主イエスを王に仕立てようとしていた のです。主はこうした場面でしばしば「山に退いて」おられます。十字架への道を歩まれるためです。  さて、ここでぜひとも覚えておきたいことは、ガリラヤ湖をめぐる山々のどこからでも、湖の様子が 非常によく見わたせるということです。私は25年ほど前にガリラヤ湖を訪ねたことがあります。主イ エスが人々に生命のパンをお与えになった祝福の丘にも登りました。空気が乾燥しているせいもありま して、山に登りますと湖の向こう岸まではっきりと見えます。ですから、弟子たちだけで舟に乗ってガ リラヤ湖を渡っていた時も、主イエスは彼らを見ておられたのです。しかも深い祈りのうちに、彼らを 見守っておられたのです。これはとても大切なことです。弟子たちからは主イエスのお姿は見えません が、主はいつも弟子たちを見つめておられるのです。私たちの人生にもこれと同じことがあります。「主 はこんなに苦しむ私のことを、見ておられないのだろうか?」と疑問を抱くことがあるのです。しかし 主イエスは弟子たちを(私たちを)いつもまなざしにとめておられる。まさに「見守る」という言葉が これほどふさわしい場面はないのです。私たちが主を見失って慄いている時にも、主は変わることなく 私たちを見守っていて下さるのです。  ガリラヤ湖は楕円形の湖ですが、短いところでも対岸まで約12キロあります。しかも突然突風が吹 いて2メートル以上の大波が立つことがあるため、熟練した漁師でも遭難することがありました。弟子 たちの多くはもと漁師でした。特にペテロは熟練した漁師であり、このガリラヤ湖の怖さを知り尽くし ていましたが、彼らがこのとき遭遇した突風は今まで経験したことのない激しいものでした。今朝の16 節を見ますと「夕方になったとき、弟子たちは海べに下り、舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウ ムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった」と 記されています。この「すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかっ た」という言葉のうちに、この時の弟子たちの言い知れぬ不安を読み取ることができます。嵐の夜の海 ほど恐ろしいものはありません。弟子たちは自分たちの身に訪れた危機を知り、そこに主イエスが共に おられない事実に焦りと苛立ちを顕わにしました。それが「主イエスはまだ彼らのところにおいでにな らなかった」という言葉に示されている弟子たちの心の状態です。しかも次第に強まる風雨の中を、す でに舟は19節にあるように「四、五十丁(も)こぎだし」ていました。湖の真中で進退窮まる事態に 直面したのです。  私たちの人生にも、同じ場面があるのではないでしょうか。進むことも引き返すこともできない。周 囲は荒れ狂う波ばかりという恐ろしい場面です。しかも私たちがいちばん主イエスを必要とするそのよ うな場面に限って、主イエスは私たちと共におられないように私たちは感じるのです。だから、この時 の弟子たちの焦りと苛立ちは私たちにもよくわかるのです。「主よ、あなたはどうして、苦しみ悩む私を お見捨てになるのですか?」「この肝心な時に、どうして私と共にいて下さらないのですか?」「あなた は私のことを、忘れておられるのですか?」。恨みごとを言いたくなる場面です。遠藤周作の作品に「沈 黙」という小説がありますが、まさに私たちが苦難を受けているあいだ、沈黙を続けておられる神に、 私たちの恐れはいっそう増幅され、苛立ちはさらに募るのです。  しかし、まさにそのような場面でこそ、私たちはいま、主イエスからはっきりと約束を戴いています。 それは同じヨハネ伝14章18節の言葉です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」。そして 14章1節にはこうあります。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じな さい」。そして16章7節にはこうもあります。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるの だ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう」。いま私たちは、こ のような主の御言葉を正しく聴いているのか、問われているのです。キリスト者の生活とは、神の言葉 を聴いて生きる生活です。神の言葉を聴いて生きるとは、御言葉を正しく聴いて、信仰をもって応える ことです。  私たちは、私たちの目に主イエスが見えないことは、主イエスの目にも私たちが見えないことだと、 愚かにも決めつけるのです。私たちが主のお姿を求めているとき、主は私たちの姿を見ておられないの だと決めつけるのです。そのようにして私たちは、自分を取り囲む人生の波風だけに心を奪われてしま います。「恐れ」のあまり人生の海の中で「漕ぎ悩む」のです。人生航路を見失ってしまうのです。この ときの弟子たちがまさにそうでした。弟子たちだけではなく、彼らが乗っているこの小さな舟は私たち の人生そのものの象徴です。それはいま激しい波風に遭い、沈没してしまいそうなのです。私たちの知 恵や力は、突如として襲いかかる人生の波風の前に余りにも無力です。私たちの経験も知識も、いや信 仰さえも、せいぜい岸から「四、五十丁」のところで力尽きてしまうのです。帆を上げても降ろしても、 漕いでも漕がなくても、事態は何も変らないと絶望する思いに捕らわれます。しかも容赦なく滅びの時 だけは近づいています。絶望さえそこでは無力です。何ひとつとして助けはなく、私たちはみずからの 無力と空しさをいやというほど味わわされるのです。  しかしどうか、そのような所でこそ、私たちは主イエスの御言葉に堅く立ち続ける者でありましょう。 「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」。さらに「わたしが去って行かなければ、あなたがたの ところに助け主はこない」と言われた主の言葉を、いまこそ真剣に、正しく聴く者になりたいのです。 たとえ私たちの目に主イエスのお姿が見えなくても、主イエスの目には私たちの姿はいつも見据えられ 「見守られて」いるのです。主はまさに深い祈りの中で、弟子たちの(私たちの)人生航路の全体を見 守っておられます。私たちが主を忘れているときも、主は私たちを決してお忘れになりません。人生の 荒波のただ中でこそ、主は私たちと共にいて下さるのです。私たちの全存在を、罪の深淵から守り、決 して沈むことのないようにして下さるのです。  マタイ伝14章の同じ記事を見ますと、弟子たちは(私たちは)自分の恐れや苛立ちに心塞がれ、嵐 の海の上を歩いて近づいて来られる主イエスのお姿さえ、それが「幽霊」に見えて「恐れた」と記され ています。この「幽霊」とは「幻想」(ファンタスマ)という言葉です。私たちの「罪」は人生の嵐の中 で主イエスを「幻想」にしてしまうことです。私たちの混乱した心には、真の助けさえ「幻想」のよう に映るのです。自分で幻想に捕らわれ、尊い救いの機会を失ってしまうのです。しかし主イエスは私た ちを人生の「幻想」から解放して下さいます。ニーバーというアメリカの神学者は「キリスト教の信仰 は、人間を虜にする全ての幻想から私たちを解き放ち、真のリアリティ(現実)へと立ち向かわせるも のである」と語りました。まさに私たちにそのリアリティ、人生の現実に立ち向かう生きる力と平安を 与えて下さるかたこそ主イエスなのです。主イエスは嵐の中でこそ私たちに御声をかけて下さいます。 20節です。「すると、イエスは彼らに言われた、『わたしだ、恐れることはない』」。この「わたしだ、お それることはない」というのは、文語の聖書では「我なり、懼るな」です。少し難しい漢字を書きます が、この文語の「懼れる」とは「かしこまる」という字です。フリーズする、身動きできなくなる、と いう意味です。私たちは人生の中で「幻想」に捕われ、真の神を見失うとき、そこで身動きできなくな ってしまうのです。まことの神から離れた人生は、人生の意味と目的を見失った、身動きの取れない人 生です。人間としての喜びと幸いが失われてゆくのです。  まさにそのような弟子たちに、私たちに、主ははっきりと語って下さいます。人生航路に漕ぎ悩む私 たちを、御言葉をもって「幻想」から解き放って下さいます。すなわち同じヨハネ伝16章33節です「あ なたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 まさに人生の嵐のただ中でこそ、主は「わたしだ、恐れることはない」とはっきり告げていて下さるの です。人生の嵐の中で「こうしなさい」とか「こうしたら良い」とか「こうすべきだ」と語れる人はい るかもしれない。しかし「わたしである、恐れることはない」とご自分をさしてはっきり語って下さる かたは主イエスだけです。どんな思想も主義主張も政治も哲学も人生論も、自分が「救い主」だとは告 げてくれません。ただ主イエスのみが「わたしだ、恐れることはない」と告げて下さるのです。そのよ うな唯一のかたとして、私たちの人生のただ中に主は御声をかけて下さるのです。  主は嵐のただ中でこそ、私たちを見守りたまい、私たちに近づいて来て下さり、私たち一人びとりに 「わたしである。恐れることはない」とはっきり告げて下さるかたなのです。私たちを宇宙の孤児とは なさらず、助け主なる聖霊を与えて下さるかたなのです。吹きつのる嵐の中でこそ、私たちの全存在を 支え、導き、慰め、力強く主の道を歩ませて下さるのです。だから今朝の21節には「そこで、彼らは (弟子たちは)喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に ついた」と記されています。なんと慰めに満ちた言葉でしょうか!。私たちがなすべきことは、人生の あらゆる苦難の中で「喜んでイエスを舟に(つまり、私たちの生活のただ中に)迎え」ることです。そ うするなら、私たちは必ず「行こうとしていた地に」着くことができるのです。主が私たちの歩みを導 き、支えて下さるのです。それは、主は私たちの罪を担って十字架におかかりになった「救い主」だか らです。罪と死に勝利された唯一のキリストが、私たちの変わらぬ主であられる。ここに私たちの変わ らぬ幸いがあり、喜びがあります。「嵐の中の平安」があるのです。