説    教   ダニエル書7章13〜14節  ヨハネ福音書5章25〜29節

「主は生命を注ぎて」

2014・09・21(説教14381555)  主イエスは不思議なことを言われます。今朝のヨハネ福音書5章25節以下の御言葉です。「よく、よ く、あなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そし て聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にも また、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」。ここに一つの問いが出て参ります。 私たちには「自分のうちに」生命はないのでしょうか? 私たちには、父なる神、また、御子なるイエ ス・キリストが持っておられるような生命がないのでしょうか?。  答えは「然り」です。私たちにはそのような生命はありません。私たちは自分自身の「うちに」生命 を持つ存在ではないのです。言葉の最も厳密な意味において、私たちは自立的な生命というものを持っ てはいないのです。たしかに私たちは、生物学的な意味では生命を持っています。生きている存在です。 しかし、それはあくまで肉体の生命であって、私たちを真に人間たらしめる生命とは別のものです。私 たちは、たとえどんなに肉体が健康であっても、それだけでは、本当の人間の幸いな生活とは言えない のです。むしろ、神の前にいかに生きているかが問われるのです。生物学的な生命ではなく、霊的な生 命こそが人を活かすのです。主は言われました。「人はパンだけで生きるものではなく、ただ神の口から 出る一つひとつの言葉によって生きる」。  するとどうでしょうか。今朝の25節にある「死んだ人たち」とは、ほかならぬ私たち自身のことな のです。たとえば、私たちが毎週告白する使徒信条に「死人のよみがえり」という言葉があります。あ れを私たちはどのように理解しているのでしょうか。あれは生物学的に「死んだ人」のことなのか?。 そうではないのです。「死んだ人たち」とは、罪によって神から離れてしまった人間の姿をさしているの です。すると「死んだ人たち」とは私たち自身の姿です。私たちこそ罪によって「死んでいた」者です。 その私たちがいま、教会により、キリストの復活の生命に連なる者とされ、キリストの復活の生命に生 かされていることを、私たちは「信じ」るのです。  ですからその霊的な生命とは、ほんらい私たちの「うちに」は無かった生命です。その真の生命はた だ主イエス・キリストの「うちに」あるのです。そのことを主は今朝の26節において「父がご自分の うちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになっ た」と語っておられるのです。もし私たちがキリストを信じて神の子となるなら、父なる神が子なるキ リストに与えたもうたのと同じ霊の生命が、キリストを通して、また教会により聖霊によって、私たち にも豊かに与えられているのです。それならば、その生命は恵みの賜物です。私たちが自分の所有とし ている「もの」などではなく、私たちが生きるべき本当の生命(生ける神との永遠の交わり)を、主は ご自身の十字架の贖いによって回復して下さった。だからそれは「新しい創造の御業」とさえ呼ばれま す。この世界が神の言葉によって創造されたのと同じように、神は受肉した御言葉であるイエス・キリ ストによって私たちを新しく生れさせて下さったのです。私たちの真の生命を創造して下さったのです。  だからこそ、ニカイア信条では聖霊のことを「生命を与えたもう主」と告白します。イエス・キリス トは十字架において罪と死に勝利され、天に上られて父なる神の右に座したもうかたとして、父なる神 のもとから聖霊を私たちにお与えになり、ここにご自分の御身体である教会をお建てになり、ここに連 なる私たちに、罪と死に打ち勝つ「復活の生命」を与えて下さった。そこでこそはじめて私たちは、真 に生きた者となるのです。死によって終る生物学的な生命ではなく、死を超えたキリストの生命に連な る者とされているのです。罪に支配された生活ではなく、勝利者なるキリストに結ばれ、キリストの恵 みの主権のもとを歩む、新しい生活を造る者とされてゆくのです。  現代は人間が「真に生きる」とはどういうことか、生命の質そのものを真剣に問わずにいられない時 代です。過去数十万年の人類の歴史を通して、今日ほど物質的に恵まれた時代はありません。しかしそ の半面、驚くほどの生命軽視と虚しさの風潮が広がっています。江戸時代の封建制度のもとでさえなか ったほどの深刻な閉塞感、絶望感、倦怠感が社会全体を覆いつつあります。人間が自由に生きる環境は 整っているのですが、それを私たちは用いえないでいるのです。ある教育の専門家が語っていたことで すが、今日の日本の青少年を取り巻く環境の中で深刻なものは、表面に現れない「いじめ」の問題だそ うです。少なくとも外から大人が見ている限りは、その子が「いじめ」に遭っているとは見えない。隠 れた「いじめ」がふえているというのです。たとえば一つの教室の中に幾つかの生徒たちのグループが ある。「仲良しグループ」のようなものです。その「仲良しグループ」の内側で、メンバーによって「い じめ」が起こるのです。するとどういう構図になるかと申しますと、ある特定のグループに属していれ ば、少なくとも他のグループの子たちからは「いじめ」られずにすむ。そういうことから、子供たちが いちばん恐れることは、グループから孤立することなのだそうです。  するとどうなるか、どのグループにも属さない子供、いわば個性的な生徒、独立心の強い生徒、いわ ゆる「少し変わった子」は、どのグループからも「いじめ」を受けることになるのです。それで子供た ちは、グループからはぐれることがいちばん怖いと言う心理状態になるそうです。私はこれを聞いて、 ああここには紛れもなく大人社会の縮図があるなと思いました。問題は子供たちのことではありません。 私たちの社会全体がどのような生命を重んじ、どのような生命に生きているかが問われているのです。 私たちこそ「協調性」という美名のもとに、実は徒党を組んで目に見えない「いじめ」の循環を作って いるだけのことはないでしょうか。  キリスト者は徒党を組みません。徒党を組む必要がないのです。それは人間の集団の中に生活の指針 があるのではないからです。永遠なる神の言葉の中にこそ、私たちを導く真の指針があるのです。真の キリスト者は付和雷同せず、また人にも付和雷同を求めません。自分が神の前にいかに生きているかが 問われるのであって、他人の評価や毀誉褒貶で人生の価値が決まるのではないからです。それは個々の 人間の生きかただけではありません。いわゆる「近代民主主義国家」というものも、その根底には独立 自主の人格が確立していなければ、民主主義というシステム自体が機能しないのです。人格は真の神と の「我と汝」の関係で成り立ちます。ですから真の神が信じられていない限り、日本はいつまで経って も真の民主主義国家にはなりえないのです。東ヨーロッパ諸国が約20年前に劇的な政変をとげ、従来 の社会主義から一挙に民主主義国への道を歩みはじめました。わが国の政治家たちがそれを見て、日本 は民主主義の先輩なのだから教えてやろうと申しましたが、私はそれは逆だと思いました。チェコにせ よポーランドにせよハンガリーにせよ、社会主義という衣装を無理やり着せられていただけで、その本 質はキリスト教に基づく自由主義国家です。だから多少の混乱はあったものの、今の日本よりもはるか に実質的な民主主義制度を形成してゆくのは自然な筋道でした。むしろ私たちのこの国のほうが問題な のです。  そして、このような個人の、社会の、あるいは国家の制度そのものにさえかかわる問題の根底には、 人間が自分を真に生かす「生命」を持ちうるか否かという問題があるのです。きわめて神学的な問いが 横たわっているのです。端的に申しますと「人間自身の内側に人間の救いはあるか」という問題です。 それに対して聖書ははっきりと「否」を語るのです。人間を救う力は、生命は、人間自身の内には「な い」ということをはっきりと語るのです。私たちは自分の「うちに」自分を真に生かし、また他者をも 真に生かしめる生命を「持ってはいない」のです。それが社会形成の原動力とはなりえないのです。そ うではなく、私たちを真に生かす生命は、ただ主イエス・キリストの「うちに」あるのです。それが聖 書の告げている福音の本質です。なぜなら、福音とは「救いのない者にこそ救いがある」という音信だ からです。「救いのない者には救いはない」というのは人間の限界性の表明にすぎません。その限界性を 打ち破って、私たちを新しい生命に生かしめるものこそ主イエス・キリストの福音です。キリストは私 たちの罪のどん底に来て下さったかたです。キリストが担われた十字架は、私たちの罪と滅びそのもの です。それを主は身代わりに担って下さった。死すべき私たちを生かし、滅ぶべき私たちを救うために、 神の子みずから十字架に死なれ、滅びを引き受けて下さったのです。それがキリストの十字架の意味で す。  このキリストの十字架の御業において、罪と死が私たちの人生に引く冷徹な限界はことごとく取り去 られたのです。神と私たちとを隔てる中垣が取り除かれたのです。聖所の幕は取り払われたのです。キ リストの贖いの御業によって、私たちはもはや恐れることなく大胆に恵みの御座に近づくことができる のです。主の御顔を拝することができるのです。主にお仕えすることができるのです。主に従う歩みが 造られるのです。そこにこそ人間の本当の幸いがあり、自由があり、平和と喜びがあるのです。徒党を 組む必要などどこにもないのです。まことの牧者なるキリストがおられるからです。付和雷同する必要 もないのです。キリストが審き主であられるからです。  今朝の御言葉は、さらに28節にこう語ります。「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たち がみな神のこの声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々 は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」。ここには、主が再び世 に来られるとき何が起こるかが記されています。しかしここで大切なことは、私たちの「行い」云々で はなく、むしろ真の審き主が十字架の主であるという事実です。そもそも私たちが自らの力で「善をお こなう」ことができるでしょうか。たとえ力の限り善きわざを行おうとも、神の前にはそれは少しも私 たちの救いとはなりえません。私たち自身の内側には私たちを救ういかなる生命もないからです。そう ではなく、キリストの生命のみ私たちを救うのです。  それならここに記されていることも、善なることをなしえず、むしろ主の前に「悪しき者」でしかあ りえない私たちをこそキリストは贖って下さった。その贖いの恵みの真実にあなたは立ち続けなさい、 という招きの言葉なのです。それ以外に私たちの幸いの人生はありえない。キリストに贖われた者とし て、教会により復活のキリストに連なって生きる生活のみが、私たちに真の生命を与える生活なのです。 何よりも「墓の中にいる者たちがみな神の声を聞く」とは、いまここにおいて、この礼拝において、私 たちの生活のただ中において、実現していることなのです。“罪”という名の決定的な“墓”の中にあっ た私たち、神の前に「死んだ者」であった私たちが、今ここで神の御声を聴いているではないか。その 御声を聴いた者(キリストに出会った者)は永遠の生命(復活の生命)に生かされているではないか。 私たちはその出来事を経験しているではないか。その喜びと幸いのうちに新しい生活が造られてゆくで はないか。そのことを今朝の御言葉は全ての人々に宣べ伝えているのです。  審かれるほかはない私たちの「わざ」です。死する以外にはない私たちの生命です。しかしその私た ちのわざを、主は教会に連なる新しい人生において、真の生命の祝福へと変えて下さいました。死する 以外にない私たちの生命ではなく、ご自分の復活の生命に連なって生きる者として下さいました。ここ に本当の人間の生活が、歩みが、造られてゆきます。キリストに従い、キリストの贖いのもとを、キリ ストを見上げつつ、信じつつ、讃美しつつ歩む、新しい生活です。それは決して終ることはないのです。 それだけが永遠に続く価値ある生活なのです。そこに、今朝の御言葉を通して、全ての人々が等しく招 かれていることを覚え、主が生命を注いで与えて下さった生命の祝福に、喜び勇んで生きる私たちであ りたいと思います。