説     教     創世記3章8〜9節    ヨハネ福音書7章10〜13節

「汝は何処に居るや」

2014・09・14(説教14371554)  主イエス・キリストは、多くの人々に「あなたもエルサレムに行って、そこで自分を公に現したらどう か」と勧められたとき、「わたしの時はまだきていない」とお答えになり、ガリラヤにとどまる道を選ばれ ました。それがヨハネ伝7章9節までの場面です。 ところが今朝の7章10節以下を見ますと「しかし 兄弟たちが祭に行ったあとで、イエスも人目に立たぬように、ひそかに行かれた」とある。あまり体裁の 良い場面とは言えないように思えます。というのは、主イエスは一度は「行かない」と決心されたエルサ レムへの上京を、あとから「人目にたたぬように、ひそかに」行くことにされたと読めるからです。主イ エスほどのかたが決心を翻されたと読めるからです。しかし、事実はもちろんそうではありません。何よ りここに「人目にたたぬように、ひそかに行かれた」とあるのは、単に“人目を避けて”という意味では なく“ただ神のみを見つめて”という意味です。主イエスはいつも父なる神の御心のみを行い、神の言葉 にに従う歩みをなさったかたです。ですから主がこの時期にエルサレムに行かれたのは、父なる神に礼拝 を献げるためであって、ご自分を「世に現すため」などではない。だからこそ主は「ひそかに(エルサレ ムに)行かれた」のでした。  それに加えて、主イエスはエルサレムにまで、ご自分に関わる様々な噂が広まっているのを知っておら れました。もし人目につく形でエルサレムに行けば、たちまち群衆が「待ってました」とばかりに主イエ スを取り囲むでしょう。人々は主イエスに、新しいイスラエルの「王」となるべきことを期待していたか らです。ローマ帝国の圧制から民衆を解放し、ダビデ時代の繁栄をユダヤに再現してくれる力ある「王」 が待望されていた時代でした。その「王」であるメシア(救主)がエルサレムに入城することを民衆は待 ち焦がれていたのです。その「王」こそナザレのイエスであると人々は考えました。つまり主イエスを「十 字架の主」ではなく「政治的メシア」と理解していたのです。エルサレムの人々は主イエスをこの世の「王」 に祭り上げようとしていたのです。  主イエスの「兄弟たち」が、主イエスにエルサレム行きを強く勧めたのも、まさにその世論に後押しさ れてのことでした。主イエスの弟子たちもまた、同じような期待を抱いていました。だからこそ、あたか も新内閣の閣僚のポストを狙うかのごとき争いが弟子たちの間で繰り広げられたのでした。主イエスはこ のような動きを強く誡められ、ご自分がエルサレムに行くのは「人々によって十字架にかけられ、死んで 葬られ、甦るためである」ことを繰返し語られました。「わたしが世に来たのは、王になるためなどではな く、全ての人の罪の贖いとして十字架にかかるためである」とお教えになったのです。  しかし「仮庵の祭」の熱気に咽返るエルサレムの巷で、弟子たちも多くのユダヤ人も、もはや神の言葉 を聴く耳を持ってはいませんでした。神のことを思わず、ただ人のことのみを思っていた人々は、主イエ スが「ひそかに」エルサレムに来られたという噂を聞くや否やいち早く行動に出ました。私たちは神の言 葉を聴いて動くのではなく、人の噂を聞いて動くことがいかに多いことでしょうか。そこにも私たちの罪 の姿があります。神の言葉によっては動かないのに、口さがない人の噂によっては簡単に動く私たちの姿 があるのではないでしょうか。まさにその私たちの姿が今朝の11節以下にはっきりと示されています。 「ユダヤ人らは祭の時に、『あの人はどこにいるのか』と言って、イエスを捜していた。群衆の中に、イエ スについていろいろとうわさが立った。ある人々は、『あれはよい人だ』と言い、他の人々は、『いや、あ れは群衆を惑わしている』と言った。しかし、ユダヤ人らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者は いなかった」。  主イエスについて、エルサレムの人々は様々な「うわさ」を立てました。毀誉褒貶が入り乱れていまし た。しかし陰で謗り合うだけで「(誰も)イエスのことを公然と口にする者はいなかった」のです。律法学 者や祭司たちの仕打ちを恐れていたからです。神への畏れを失うとき、私たちは人を恐れる者になるので す。この「公然と」というのは“神の言葉に照らして、信仰によって”という意味です。だから「公然と 口にする者はいなかった」とは“神の言葉に照らして、信仰によって”主イエスを見ていた者は「いなか った」ということです。神の言葉ではなく、人の噂で動いていたのです。信仰によって主イエスを見てい なかったのです。  さて、今朝の11節以下の御言葉の中で、私たちが心をとめるべき言葉がもう一つあります。それは11 節に「ユダヤ人らは祭の時に『あの人はどこにいるのか』と言って、イエスを捜していた」とあることで す。これは一見もっともらしく聞こえます。主イエスがエルサレムに来られた「らしい」という「うわさ」 を聞いた「ユダヤ人ら」が、ではその主イエスはどこに居るのか“捜した”ということでしょう。噂の主 (ぬし)に会ってみたいと願うのはいつの世にも変らぬ人情です。そこで、これは言い換えるなら、私た ちが主イエスを尋ね、私たちが主イエスを(神を)捜し求めることです。もっともらしく聞こえるという のは、まさにその点なのです。およそ人類の歴史が始まって以来、どのような宗教や哲学も、それらはす べて私たちが神を、また真理を“捜し求める歩み”でした。いわば私たちが「神」または「真理」を尋ね て、それに出会うまでの道のりのことを「宗教」また「哲学」と呼んだのです。例外はありません。たと えば古代ギリシヤの哲人プラトンは「エロースの階段」ということを言いました。「エロース」というのは 真理を求める人間の歩みです。真理を愛する愛のことです。  その愛(エロース)が、あたかも階段を一歩ずつ昇るように真理に向かって己を高めてゆく。ごく限ら れた天才、また極限までの修行や学問を積んだ僅かな人のみが、最終ステージまで行き着くことができる。 その最終ステージのことをプラトンは「イデアの世界」と呼び、仏教では「悟り」と呼び、他の宗教では 「解脱」また「成就」また「救い」と呼び、哲学では「完成」「理想世界」「絶対無の境地」「永遠の道徳律」 「進化の最高段階」などと呼んできたのです。しかし、それらはすべて私たちの側から神を尋ね求めよう とする歩みです。言い換えるなら、それが可能だ(できる)と考える自惚れの上に「エロースの階段」は 成り立っています。人間は自分の意志や努力や修行によって救いに到達することが「できる」という自惚 れです。だから「エロースの階段」は人間の自己栄化の上に成り立っているのです。  聖書はまさしく、その人間の自己栄化こそ「虚しいもの」であり「罪そのもの」であると宣言している のです。私たち人間はいかなる意味においても、自分の側から神に到達することなどできない存在だから です。人間の側から真の神に達する道はありえない。そこから“救いの物語”を始めているのが聖書です。 そこに、聖書(キリスト教)と他の宗教や哲学との根本的な違いがあるのです。それでは、聖書はどのよ うに私たち人間の「救い」を教えているのでしょうか。それが最もよく現れているのが、今朝お読みした 創世記の第3章です。いわゆる「失楽園物語」と呼ばれる箇所ですが「エデンの園」を「楽園」と訳すの は適当ではありません。むしろエデンの園においてアダムとエバが置かれていた状態とは“神との完全な 交わり”つまり人間にとって真の「救い」そのものの状態です。神との完全な一致と平和です。人間が「あ るべき場所にある」という状態です。神から離れないでいる祝福の状態です。しかしそうした「救い」そ のものである状態から、罪をおかしてアダムとエバは離れてしまう。それがこの創世記3章に記された事 柄です。その「罪」とは、神の言葉に叛いて自分が神に成り代わろうとしたことです。「神のように善悪を 知る者」になろうとしたことです。神との交わりではなく自分が世界の中心であろうとしたこと、しかも それを「救い」だと自惚れたことです。それが私たちの「罪」の姿なのです。  まさにその「罪」をおかしたとき、私たちはどのような行動に出たのか。どのような生きかたをする者 になったのか。それが3章の8節に記されています。「園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた」とき、 神が私たちに近づいて来られたとき「人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」 のでした。神の御顔を避ける者になったのです。これは「人類始祖の物語」つまり“過去の神話”ではあ りません。私たちの現在の姿を示す御言葉なのです。だからこそ創世記の第3章は私たちの「罪」を示す だけで終わらず、続く9節を見ると、そこに神からの私たちに対する明確なメッセージが響いています。 すなわち「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」。左近淑という先生(世界最 高の旧約学者の一人でした)があるとき「『あなたはどこにいるのか』この訳語はいけない。むしろ文語訳 の『汝は何処に居るや』これでなくては意味が通らない」と言われたことがありました。親が自分の子供 に「あなたは」と言うだろうか。「汝は」つまり口語で言うなら「おまえは」「君は」と言うのが本当なの です。  「汝は何処に居るや?」。これは警察官が犯人を追及する言葉ではありません。親が失われたわが子を捜 し求める血の出るような叫びであり、私たちに対する神の慈愛に満ちた今ここでのメッセージなのです。 罪をおかして神との交わりから離れ、救いから落ちてしまった(救いを失ってしまった)私たちに、神は 「汝は何処に居るや?」と私たちを必死に捜し求めて下さるのです。叛き続けるわが子を訪ね求める親の ように、もはや「子」と呼ばれるに値せぬ私たちを、神は慈父のごとき熾烈な愛をもって「汝は何処に居 るや?」と呼びかけ続けていて下さるのです。  創世記が書かれた紀元前7世紀は、バビロン捕囚という歴史的悲劇が起こった、イスラエルの歴史にお いて最も苦難に満ちた時代でした。もし神がおられるなら、なぜこの世界にかくも筆舌に尽くしがたい苦 しみや悲しみが起こるのか。人々は神の義を疑い、この世界が呪われた世界であると感じ、歴史に絶望し ていた。まさにそのような暗黒の時代にあって、イスラエルの民は「いや、そうではない、この世界は私 たちの罪によって、こんなに破局に満ちた世界となったけれども、まさにこの荒廃し破れきった世界、そ こに生きる私たち一人びとりに、主なる神は『汝は何処に居るや』と呼びかけて下さっている、その神の 御声によって支えられ、保たれ、支配されている歴史なのだ」と、声高く告白しているのがこの創世記な のです。  そして私たちを、限りない愛をもって捜し求めて下さる神、私たちを救いへと導こうとしておられる神 は、御子イエス・キリストを惜しみなくこの罪の世界に与えて下さった神なのです。私たちに対して「汝 は何処に居るや?」と呼びかけていて下さる神は、まさにその呼びかけの愛において、ご自身の独子をお 与えになったのです。私たちはあるべき所におらず、あるべきではない所に居る存在です。神の言葉と聖 霊の支配する場所に居らず、罪の支配するところに生きている私たちです。空しき栄華の影を追い求め、 根拠のない希望を抱き、頼りない慰めに自分を委ね、虚しい自由を探して、滅び去ってゆく者でしかあり ません。そのような私たちに主なる神は、御子イエス・キリストを(ご自身を)与えて下さいました。御 子イエスは父なる神の御心のままに「失われた者を尋ね出して救うために」あのベツレヘムの馬小屋に人 となり、苦難の道を歩まれ、十字架を担われ、私たちの罪の贖いとなって、ご自分の生命を献げ尽くして 下さったのです。まさしく「汝は何処に居るや?」と、私たち罪人を尋ね求めて下さった神の熾烈な愛が、 御子イエス・キリストに形をとって現れているのです。この十字架のキリストにより、私たちは罪の贖い と赦しを戴いているのです。キリストは罪と死の支配する私たちの人生を、永遠の恵みの支配する人生に 造り替えて下さるために、十字架に死んで下さったのです。  この“十字架の主”が共におられるところ、もはや罪と死の支配は私たちに何の力も持ちえません。今 朝のヨハネ伝7章11節において、ユダヤの人々は「あの人はどこにいるのか」と主イエスを捜し求めて いました。それは私たちの姿です。私たちは最も大切なことを知らずにいます。それは私たち自身こそ「汝 は何処に居るや?」と主なる神に呼びかけられている存在だということ!。私たちが神を捜し求めるとこ ろに私たちの「救い」があるのではなく、神がまず私たちを捜し求めて下さった事実にこそ、私たちの永 遠に変らぬ「救い」があるのです。その最も大切なことを、今朝の御言葉ははっきりと示しているのです。 神は私たちの「救い」のために、御子イエスをお与えになった。この十字架のキリストにおいて「汝は何 処に居るや?」と今なお全人類に呼びかけていて下さるのです。私たちはこの主の御声に「われここに立 つ」「僕は聴く、主よ、語りたまえ」と応えつつ、信仰の歩みを続けてゆく僕でありましょう。真の教会は 神の言葉のみが正しく語られ正しく聴かれるところに立ち続けます。御言葉への従順の歩みにおいてこそ、 真に健やかな揺るぎなき群れを、私たちはここに建てて参りたいと思います。「汝は何処に居るや」との御 声に、主よ私はあなたの教会に連なっています。あなたの贖いのもとを歩みますと、喜びと感謝をもって 応えてゆく私たちでありたいと思います。