説    教     イザヤ書16章6節   第一コリント書8章1〜13節

「 永遠と歴史の切点 」

2014・09・07(説教14361553)  使徒パウロは西暦65年にローマで殉教の死をとげるまで、伝道者として幾度も伝道旅行を行い、今 日のシリア、トルコ、ギリシヤ、イタリヤなどを巡り、数多くの町や他方に伝道をしました。その中で もギリシヤ南部の港町コリントにおける伝道はその困難において特筆すべきものでした。コリントはパ ウロの時代すでに60万人もの人口を擁する大都会でしたが、そのうちの約40万人、つまり全人口の三 分の二がローマ帝国における奴隷階級に属する、まことに異常な都会でした。人類の歴史を顧みても奴 隷制度を容認する社会が永続した例はありません。コリントという街はいわばローマ帝国の構造的な末 期症状の上に辛くも成り立っていた“病める大都会”であったわけです。  事実、当時のコリントの街を道徳的な退廃と虚無主義、快楽主義が支配していました。人々は労働を 「奴隷の仕事」として卑しみ、学問さえ浅薄な知識欲に取って代わられ、青年たちには希望がなく、退 廃的な雰囲気が街中を支配していたのです。当時のギリシヤ語に「コリント人のように振舞う」という 表現がありましたが、それは「慎みのない淫らな行為」を意味していたほどです。ギボンという歴史家 は「ローマ帝国衰亡史」の中で「ローマ帝国は国家を生み出したが文明を生み出さなかった」と語って います。それはコリントにおいてとりわけ顕著でした。物質的な豊かさだけが重んじられ、人間の魂が (精神が)蔑ろにされていたのです。  この困難の中に、パウロは一歩もひるむことなく、ただイエス・キリストの福音によるまことの「救 い」のみを宣べ伝えました。アテネ伝道において用いた「すぐれた言葉や知恵」をいっさい用いること なく、コリントにおいては「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」のみを宣べ伝え てやまなかったのです。その結果、多くの困難のすえ、コリントには有力な教会が形成されました。ア テネでの伝道は家庭集会に留まりましたが、コリントには立派な教会が建てられたのです。伝道とはキ リストの身体なる教会を建て、私たちが心をひとつにして教会に連なり、主の身体なる教会に仕えるこ とです。ところが使徒パウロがコリントの教会を離れ去った後で、そこに予期せぬ問題が起こりました。 そのひとつが今朝の第一コリント書8章1節以下に現れている「偶像への供え物の問題」でした。いっ たいどのような問題だったのでしょうか。  コリントはギリシヤの街には珍しく、豊富な地下水に恵まれた都会でした。今日のような冷蔵庫がな かった時代、人々は肉類を保存するのに、井戸の中に籠に入れた肉を吊るすという方法を用いました。 つまり井戸は天然の冷蔵庫であったわけです。これは今日でもイタリアやスペインでは行なわれている 方法です。井戸の途中に吊るした肉は夏でも4日間は保存できたそうです。するとどういうことが起こ るかと申しますと、異教の神殿において偶像の神々に献げられた生肉が、井戸に保存された偶像への供 え物が、そのまま数日後に市場で食用品として売りに出されるということがあったらしい。当時の多く の人々の感覚では、偶像の神々に献げられた生肉を食べることは、その偶像との交わりであると解釈さ れました。「(神仏の)福のお裾分けを戴く」という感覚です。わが国でも神社の祭礼などにはそういう 考え(習慣)が残っています。神前に供えられた供物を、あとで氏子たちに「お裾分け」する。そこに 氏神との交わりが生まれるという感覚が今日の日本にもあるわけです。具体的に、コリント教会の中に 2つの対立する立場(グループ)が現れました。第一は、そういう偶像に供えられた肉は、たとえ知ら ずに食べたとしても偶像と交わることになる。だから今後はいっさい市場で肉を買うのはやめよう(肉 そのものを食べまい)と主張した人々です。第二に、これに対して、そんなことはどうでも良い、たと え偶像に供えられた肉であろうが何であろうが、肉は単なる肉に過ぎない。だから市場で肉を買って食 べても全くかまわないのだと主張する人々がいたわけです。  この二つのグループは、ただ見解の相違というだけにとどまらず、事柄をいっそう複雑にしたのは、 後者のグループの人々が「自分たちには知識がある」と称して、前者の「肉を食べてはならない」と主 張した人々を審いたことでした。彼らは自分たちこそ「知識のある強い者」であると主張し、肉を食べ るべきではないと主張する人々を「知識のない弱い者」として蔑んだのです。そしてやがてこの二つの 立場の違いはコリント教会の内部分裂へと発展してゆきました。もうあの連中と一緒に礼拝を献げるこ とはできない。同じ礼拝堂で礼拝を献げたくないと、お互いにそう言い出しまして、自分たちの正当性 を主張し、相手の信仰を罵り審き合う事態に発展したわけです。  問題を整理しましょう。もとを質すなら、まことに些細な問題(食物の問題)にすぎません。しかし 人間同士の分裂は、そういう些細なことが契機になって起こるのです。それはコリント教会の未熟さの 現れでしたが、何よりも私たち人間の「罪」の現れでした。弱さや未熟さそのものは決して「罪」では ありません。しかし自分を正当化して相手の弱さを審くことは「罪」なのです。そこに「強い者たち」 と「弱い者たち」との不信と対立が生まれます。「罪」が生み出す果実はいつでも「審き」です。同じ主 にある兄弟姉妹たちが審き合うことが「罪」の結果なのです。たとえ弱くても強くても、互いに主の前 にあるがままに、ただキリストのみに栄光を献げつつ礼拝者として生きることができたはずです。それ ができずに教会分裂に発展したのは、自分たちの正当性のみを振りかざし、十字架のキリストの恵みを 見失っていたからです。言い換えるなら、コリント教会の弱さとは、人間の正しさの上に教会を建てよ うとした「弱さ」でした。  この問題をパウロは心から憂い、そして信仰生活の原点(十字架のキリストの恵み)に立ち帰るよう にと、力強く勧めているのが今朝の御言葉です。すなわち1節にパウロは申します。あなたがたに「知 識がある」ことは私にもわかっている。「しかし知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」のです。「も し人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っ てはいない。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである」。これがパウロがコリ ントの人々に、また今日の私たちに宣べ伝えている福音の内容です。わが国のキリスト者の詩人・八木 重吉が「魂」という短い詩を書いています。「不思議なものは魂である。まったき魂は腐れている。砕か れているときのみ、魂は完全である」。コリントの人々は、否、私たちこそ、この「砕かれている魂」の 幸いを知らずにいることはないだろうか。大切なことは「(私たちが)神を愛するなら、その人は神に知 られている」という事実なのです。  この「神に知られている」とは、死に至る罪の支配から、キリスト・イエスによって贖い取られたと いう恵みの宣言です。この十字架のキリストの恵みを知る者は、もはや自分を「知識のある強い者」と は呼べなくなるのです。自分は何者かと言えば、キリストに贖われた僕である。キリストの教会に仕え、 キリストの恵みを証し、神の栄光を現わすために召された僕である。この喜びと幸いが私たちの共通項 (人生全体を貫く芯柱)となるとき、そこにはじめて、真の「キリストの教会」が形成されてゆくので す。詩篇51篇の詩人ダビデも「神よ、汝の喜びたもう犠牲は悔い砕けし魂なり」と歌いました。キリ ストの恵みを見失い、教会に仕える喜びを失って、信仰生活が観念論に陥るとき、私たちは「神に知ら れていること」の幸いから離れて、自分の強さと知識を誇る「罪」に陥るのです。信仰が虚しい「誇り」 に変わってしまうのです。  ですから今朝の御言葉に「誇らせる」とある言葉を、ある英語の聖書ではバブルを意味する「インフ レイツ」と訳しています。私たちの信仰(教会生活)はそのようなものであってはなりません。知識は 永遠との切点を必要とします。歴史(人間社会)は永遠(神の言葉)との切点によって救われるのです。 歴史は信仰(イエス・キリスト)という切点を持たないとき、その歴史は徳を立てず、むしろ他者を審 くものになり、自分を誇らせる虚しい虚栄に終わるのです。だから今朝の7節にパウロはこう語ります。 たとえ偶像に供えられた肉を食べたとしても(食べなかったとしても)それが私たちを少しも損なうも のではない。「食物はわたしたちを神に導くものではない」(8節)からだとパウロは明確に語るのです。  しかしまだそのように理解しない、いわゆる「弱い兄弟たち」がコリントの教会にいることも事実で す。そこで今朝の10節以下にパウロは「強い」と自称する人々に訴えています。あなたがたのその「強 さ」をなぜ兄弟姉妹たちに対する「愛」になすことができないのか。どんなに自分を「強い」と主張し ても、もし愛が無ければいっさいは虚しい。そして11節にこう申します「するとその弱い人は、あな たの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。このよ うにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯 すことなのである」。  あなたがたは、自分を神として兄弟たちを審こうとしているのか?とパウロは問うのです。むしろそ の「弱い」兄弟たちのために、主が十字架に死んで下さった恵みを覚えなさい。そして共に主の身体な る教会に喜びと感謝をもって連なり、主に仕える僕となろうではないかと勧めているのです。自分を基 準にした生きかたではなく、キリストを中心(主)として生きる生活にのみ、本当の自由と幸いがある からです。そしてパウロは自分ならどうするか、そこまで具体的に語っています。13節です「だから、 もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて 肉を食べることはしない」。  終戦後まもなくスイスから来日して、東京神学大学やICU(国際基督教大学)などで教鞭をとられた エーミル・ブルンナーという神学者がいました。このブルンナー先生が来日して間もない頃、ある会合 でさかんにパイプをくゆらせていた。その席に一人の婦人がおられ、ブルンナー先生に「先生、日本で は牧師先生は煙草を吸わないものですよ」と申し上げた。ブルンナー先生は「あーそう」と言われてす ぐにパイプをしまわれた。それから2年半の日本滞在中、ブルンナー先生は二度と煙草を吸わなかった というのです。ふだん「テオローグ・ムス・ラウヒェン」(神学者は喫煙すべし)と言っていたブルンナ ー先生を知るあるドイツの牧師がそれを知って、ああそれはいかにもブルンナー先生らしい振舞いであ る。彼はキリストにある本当の自由を知っているからね、と言ったそうです。  今朝の御言葉で「徳を立てる」と訳されたのは「教会を建てる」(キリストの肢体として私たちが建て られてゆく)という意味です。一人でも多くの人が主の教会に連なり、神の祝福と真の救いにあずかる ために、私たちは主に仕える者とされています。そのようなキリスト者の自由を、朗らかな自由な生活 を、私たちも持つ者とされているのではないでしょうか。第一コリント書13章13節をお読みしましょ う。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、 愛である」。人知を遥かに超えたキリストの愛を知り、その愛に生かされること、その愛をもって互いに 徳を立てること。ここに私たちの主にある新しい自由の生活の原点があり光栄があるのです。