説     教    イザヤ書46章3〜4節  ピリピ書4章4〜7節

「 主は近し 」

2014・08・31(説教14351552)  「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容 を、みんなの人に示しなさい。主は近い」。このように使徒パウロは、今朝のピリピ書4章4節以下の 御言葉を「いまこそあなたがたは、主にありていつも喜びなさい。なぜならば、主は近きに在したもう のだ」という音信をもって始めているのです。この「主は近い」という音信はピリピ書だけではありま せん。すでに聖書は創世記1章1節において「はじめに神は天と地とを創造された」との御言葉をもっ て、この世界万物が神の御手のわざであることを示し、そして最後のヨハネ黙示録22章20節において 「『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ」との祈りで締め括っているの です。  神はこの世界万物を聖なる目的をもってお造りになり、そしてその創造の御業とひとつである救いを 完成されるために、主イエス・キリストが再び世に来たりたもうという音信、これを“キリストの再臨” と申しますが、そのように聖書は「天地創造」と「キリストの再臨」という大切な2つの音信をもって、 歴史の初めと終わりを語っているのです。すなわちこれは、初めをも終わりをも、神が主イエス・キリ ストにおいて私たちと絶えず共にいて下さるという福音の音信であり、限りなき慰めと喜びの告知なの です。  私たちは毎週の礼拝のたびごとに、使徒信条を歌い告白します。その中に「かしこより来たりて、生 ける者と死ねる者とを審きたまはん」という告白があります。この告白を私たちは日ごろどれだけ正し く、また真実に受け止めているのでしょうか。私たちはこれが本当に、私たち人間の真の「救い」に関 わる告白であることを正しく理解しているでしょうか。惰性でお題目のように唱えていことはないでし ょうか?。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。初代教会のキリスト者たち はこの告白を文字どおり生命を献げて言い表したのです。宗教改革者カルヴァンは今から450年ほど前、 ジュネーヴにおいて大胆な礼拝改革を実行しました。このカルヴァンの礼拝改革は、聖書の御言葉を通 して初代教会の礼拝(つまり教会のあるべき真の礼拝)を回復したものです。宗教改革はその意味で何 よりも「礼拝の改革」でした。従来の魔術的ミサ聖祭から御言葉の宣教と聖礼典とを行なうキリストの 身体なる教会へと、礼拝を通して成長していったことです。  ヨハネによる福音書4章に、サマリヤのスカルという町で一人の「罪人」のレッテルを貼られた女性 に、主イエスが昼下がりの井戸端で出会って下さり「生命の水」をめぐる対話が始まりました。あの対 話の中で、自らも知らずして激しい魂の飢え渇きを抱いていた女性が、主イエスによって導かれたのが “まことの礼拝とは何であるか”という問いでした。ヨハネ福音書4章19節以下です。「女はイエスに 言った、『主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、 あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています』。イエスは女に言われた、『女よ、 わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝 する時が来る。……まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そう だ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、 礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである』。女はイエスに言った、『わたしは、キリス トと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、いっさいのことを知 らせて下さるでしょう』。イエスは女に言われた、『あなたと話をしている、このわたしが、それである』」。  主イエスはこの女性に対して、人の手によらない「霊とまこと」による真の礼拝の回復お示しになり ました。それなくして人間は人間たりえないのです。それが「真の礼拝」です。礼拝は私たちを極みな く愛したもう真の神に対する私たちの感謝と讃美の応答です。赤ちゃんの成長は親の語りかけで決まる と言われています。親との交わりを失えば、子供の成長は停まってしまいます。それならばなおさらの こと、造り主なる真の神との交わりを失うなら、私たち人間は人生の目的と意味を見失ったまま「停ま って」しまうほかはないのではないでしょうか。まさにこの、神との交わりを失っていた女性、そして 私たち一人びとりに対して、主イエス・キリストは、十字架の贖いによって建てられた真の教会に連な り、キリストのご臨在のうちに、神をわが主・わが父として告白する、唯一の「真の礼拝」の道をお示 しになるのです。スカルの女性はすぐに主イエスに申します。ああ主よ、私はどんなにかその時を求め ていることでしょう。ゲリジムの山でもシオンの山でもない、ただ神が御言葉と聖霊によって親しく臨 在して下さる場所において、神の喜びたもう「真の礼拝」が献げられるとき、その時にこそ私の魂の飢 え渇きは満たされ、いっさいの罪が贖われ、新たな者とされて、この私もまた「真の礼拝」に喜びと勇 気をもって生きる者ととされるのです。その日その時はいつ来るのでしょう?。そうだ、私はひとつの 事実を知っています。メシヤと呼ばれるキリストがいつか必ずこの世界に来て下さる。その時こそ全て の者が「真の礼拝」においていっさいを満たされ、主なる神にみまえるでしょう。その時にこそ、私の 魂の放浪は終わりを告げ、真の平安が私の存在と全生涯とを満たすでしょう。  なんと幸いなことでありましょうか!。まさにそこ(私たちの人生のただ中)でこそ、この女性に、 否、私たち一人びとりに、主イエスははっきりとお告げ下さるのです。「あなたと話をしている、このわ たしが、それである」と!。礼拝者として生きるとは、このように語ることのできる唯一のかたを「わ が主・わが神」と呼びつつ、そのかたの御前で、その恵みの内を歩むことです。そればかりではありま せん。私たちが主を求めていたそのはるか以前から、主みずから私たちを知りたまい、私たちを捕らえ、 いまあなたのためにここに来たのだと、主みずからはっきりと告げていて下さるのです。カルヴァンが 「真の礼拝」を回復しようとしたとき、それはまさにいま申したような意味でと御言葉と聖霊による(「霊 とまこと」による)主キリストの御臨在のみが鮮やかに証しされる「真の礼拝」の回復と再建を願った のでした。その結果、今日私たちが献げているような、御言葉と聖礼典(聖餐と洗礼)が難く結びつい た礼拝の形が確立したのです。新約聖書を通して明確に示されることは、ピリピの教会ももちろんです が、そこに「主は近し」との確信と喜びとが生活のただ中に満ち溢れていることです。いま私たちはこ の礼拝を通して、活ける贖い主なるキリストに出会っているのです。主は私たちの永遠の贖い主として 「近い」かたなのです。この恵みの事実に打ちのめされ、新たにされる幸いにおいて、時間的にもいっ そう主の来臨に近いはずの私たちが、ピリピの人々よりも心鈍く、信仰が眠っていることがあってはな りません。  かつて冨士教会を牧された福田雅太郎先生が、常々「日本の教会に最も欠けているものは健全な終末 論である」と語っておられたのを思い起こします。「健全な終末論」とは、今朝の御言葉で言うところの 「主は近し」との確信に生きる信仰の姿勢です。「真の礼拝」に生きる者の人生態度です。主は私たちに 近く在したもう。それは礼拝において、説教と聖礼典において現される恵みです。それを人生態度(生 活の中心)としないなら、私たちは自己中心の人生態度に変わってしまうでしょう。自己中心主義が私 たち畝支配するでしょう。私たちが召されている本当の信仰生活とは、ご臨在のキリストの前に自分の 全生活を整え従うことです。私たちは「主は近し」との確信に生きる群れなのです。それならば信仰生 活においても、人生態度全体において、キリストに自分を従わせるのです。バルトの言う「御言葉を支 配するのではなく、御言葉に従う生活」(Den Text nicht meistern, sondern ihm dienen!)です。そこ に私たちの本当の自由があるのです。  「終末論」のことを英語でエスカトロジーと申しますが、それはもともと「目的」という意味のギリ シヤ語「エスカトン」から来ています。つまり「主は近し」との「健全な終末論」に生きるとき、はじ めて私たちは、人生の本当の目的を見失うことのない生活(「口先で主よ、主よと唱えつつ、御父の御心 を行なわない」生活)から自由な僕とされるのです。それゆえにこそ、使徒パウロは今朝の御言葉の4 節以下に「あなたがたは、主にあって、いつも喜びなさい」と告げているのです。もはや私たちの生活 は漂流者の生活ではない。神が導いておられる救いの歴史において、かけがえのない神の恵みの器とさ れている僕の生活なので。だからこそパウロは「繰り返して言うが、喜びなさい」と告げています。主 キリストがあなたの全ての罪を贖い、死に勝利され、あなたと永遠に共にいて下さる。だから、あなた はどのような境遇にあっても、決してキリストの恵みの主権から離れることはないと、パウロははっき りと告げているのです。  そのとき私たちは「いつも喜びなさい」という命令形が、驚くべき自由の福音の音信として告げられ ていることを知ります。つまり「主は近し」そして「主にありて」という恵みの事実が、私たちの生活 を「いつも喜んでいる」ものとなすのです。この「喜び」を私たちから奪う力は存在しません。キリス トの救いの恵みに勝る罪の力は存在しません。キリストが私たちのために十字架にかかりたもうた、そ して墓に降られ甦られた。この事実こそ「主は近し」という恵みの事実のいっさいの根拠なのです。私 たちはいま「主に結ばれて」ここに存在しているのです。キリストの勝利の内に共に生かされているの です。だからローマ書5章1節が告げているように「信仰によって義とされたのだから、わたしたちの 主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」のです。そして同じローマ書5章10節にあ るように「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、 和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」と告げられているのです。 「そればかりではなく」さらにパウロはこうも申します「わたしたちは、今や和解を得させて下さった わたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。  宗教改革者マルティン・ルターは「主にありて喜ぶ者は、隣人に対して、徹底的な厳しさをもって義 を要求することはない」(隣人を審かない)と語っています。それこそ本当の“キリスト者の自由”では ないでしょうか。それは本当の唯一の審判者を知る者の生活です。「キリストにありて(キリストに結ば れた者として)神を喜ぶ」ことこそ私たちの人生の本当の目的であり幸いなのです。その人生の真の目 的と幸いを知る者は、もはや他者に対しても自分の義を貫く必要はなくなるのです。神によって一万タ ラントの負債を赦された者は、百デナリの負い目ある隣人を審くことはできなくなるのです。まさに今 朝の御言葉が語る「寛容」が私たちの人生態度となります。「あなたがたの寛容を、みんなの者に示しな さい」とあることです。  どうか私たちも「主にありて喜ぼう」ではありませんか!。なぜなら「主は近い」からです。まさに そこでこそ今朝の6節が告げられています「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をも って祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知では とうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって 守るであろう」。古くから伝えられたドイツの祈りに「キリストの香り」という祈りがあります。短い祈 りです。「主よ、願わくはわれをして、キリストの香りを世に伝える僕とならしめたまえ。わが言葉も、 わが思いも、わが行いも、なんじの赦しの恵みに輝くことをえしめたまえ」。この祈りが私たち一人びと りの祈りとなるところ、それこそこの「真の礼拝」であり、礼拝において始まる新たな一週間なのです。 他の誰でもなく私たち一人びとりを、主はご自身の「香り」を世に伝える器として、いまここに招いて いて下さる。そして世に遣わして下さるのです。まさに「主は近し」との永遠の恵みの事実に生きる僕 として、私たち一人びとりが、その祝福を伝えゆく器とされたいと思います。祈りましょう。