説    教   イザヤ書60章10〜14節   第一コリント書2章1〜4節

「福音と文化」

2014・08・17(説教14331550)  使徒パウロがギリシヤの都アテネを訪れたのは西暦50年から51年にかけて、今から1964年前のこ とです。その事情や伝道の様子について、使徒行伝16章と17章が詳しく物語っています。パウロは当 初、小アジヤのフルギア・ガラテヤ地方(現在のトルコ東部)から北上して、黒海沿岸のビテニヤ地方 に向かう予定でした。しかし「イエスの御霊がそれを許さなかった」と使徒行伝16章7節にあるよう に、何かの事情で正反対の南に進まざるをえなかった。パウロはこのことを、主の聖霊の導きであると 確信しました。それでパウロは、エーゲ海に面したトロアスの港からただちに船出して、マケドニア(今 日のギリシヤ北部)に渡る決意をするのです。かくしてヨーロッパにおける福音宣教の第一歩が記され ることになったのです。  さて、パウロによるヨーロッパ伝道の最初の受洗者となったのは、ピリピに住むルデヤという名の婦 人でした。実にこの女性こそ、ヨーロッパにおける最初のキリスト者となった人なのです。彼女はパウ ロの説教を聴いて回心し、家族や使用人ともども洗礼を受け、そこにヨーロッパ最初の教会が誕生しま した。アンリ・ピレンヌという歴史学者が語っているのですが、ヨーロッパという概念そのものがキリ スト教の伝道と共に始まった、そういう意味ではルデヤの「家の教会」こそヨーロッパ発祥の地となっ たのです。私たちはここにも神のなさる御業の測り難きを思わずにはおれないのです。とまれこのよう にして、ピリピにヨーロッパ伝道の拠点を据えたパウロは、さらに南下してテサロニケとベレヤに伝道 の戦いを広げ、来るべきアテネ伝道の機の熟するのを待っていました。おりしもユダヤ人たちの扇動に よってマケドニヤに激しい迫害が起こったため、パウロは2人の弟子(テモテとシラス)をベレヤに残 して先にアテネへに向かい、そこで2人の弟子の到着を待つあいだ、アテネの街をつぶさに観察するこ とにしました。それがすなわち使徒行伝17章15節までに記されている事柄です。  もともとパウロにとって、アテネ伝道は積年の願いでした。アテネは文字どおり古代世界に冠たる学 問文化の中心地であり、ヘレニズム文明揺籃の地であったからです。かつてわが国においても安土桃山 時代、最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸したのち、直ちに京都におけ る伝道を開始しています。それもまた、日本文化の本丸に福音を伝えんとする志であったでしょう。と りわけパウロは小アジヤの国際貿易港タルソの出身でした。幼い頃からごく自然にヘレニズム文化の深 い素養と知識を身につけていた人です。それだけにパウロは文化そのものの唯一の救いがキリスト教に のみあることを身に滲みて感じていたことでした。ここにキリストの福音とアテネのヘレニズム文化、 そしてキリシヤの宗教が大きく触れ合い、激しい火花を散らす事態が生じたのです。ヘレニズム的異教 社会の潮流のただ中に、まことの唯一の神を宣べ伝える福音の潮流が猛然と流れこんだのです。そこに ヨーロッパ文明を形作るヘレニズムとヘブライズム2つの潮流が混然一体になったのです。  さて、アテネの街でパウロが見たものは何だったでしょうか。アテネの中心には有名なアクロポリス の丘が聳え、そこにはギリシヤの神ゼウスを祭るパルテノン神殿が建っていました。それ以外にもニケ ー、エレクテオン、ポセイドン、アフロディテなどの神殿が建ち並んでいました。それ以外にも街中の 至る所に数々の神々を祭る祠がありました。そしてアクロポリスの丘の北西には「アレオパゴス」と呼 ばれる集会所がありました。そこはかつてキリシヤ哲学華やかなりし頃、ソクラテス、プラトン、アリ ストテレスらが哲学を講じた場所です。パウロの時代にはかつての栄華は無かったとはいえ、なおその 栄光は黄昏のような残光を留めており、エピクロス派とストア派が論陣を張り、アテネ市民の精神生活 の拠り所となっていたのです。  しかしパウロは、キリストの伝道者として、そのようなアテネの表面的な栄華に潜む無秩序と虚無的 雰囲気を見抜いていました。パウロが何よりも問題にしたのは、市中におびただしく氾濫していた偶像 の洞でした。使徒行伝17章16節には「パウロはアテネで彼ら(テモテとシラス)を待っている間に、 市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた」と記されています。この「憤り」とは、 全ての人に唯一の救主キリストを宣べ伝えずにやまぬ伝道者の熱情です。そして「偶像」と訳された元々 のギリシヤ語は「虚しいもの」という意味の「イドラ」という言葉です。これが英語の「アイドル」の 語源にもなりました。アテネの人々は「アイドル」(虚しいもの)を哲学の装いに隠しているにすぎない のです。この事実がパウロの「憤り」を呼び起こしたのです。イギリスのウェストコットという聖書学 者は「まさにこの“憤り”こそ、人々に対するパウロの燃えるがごとき愛であった」と語っています。 滅びゆく者のために十字架の道を歩まれたキリストの愛が、伝道者パウロを駆り立ててやまないのです。 まことの神を知らず、虚しき「アイドル」に拠り頼む人間の現実を断じて見過ごしにはできないのです。  事実このキリストの愛に突き動かされて、パウロは2人の弟子の到着を待たずして直ちにアテネ伝道 の戦いを繰広げます。パウロが最初に向かったのは「アレオパゴス」の集会所でした。最初アテネの人々 は集会所の真中でキリストの福音を宣べ伝えるパウロの言葉に興味津々の様子でしたが、パウロの話が 十字架のことに及ぶや否や、露骨に軽蔑の念をあらわし、群衆の間に嘲笑いが起こりました。使徒行伝 17章21節を見ますと「アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞 いたりすることのみに、時を過ごしていた」とあります。彼らの耳は軽佻浮薄な知識を求めるのみで、 福音の真理には閉ざされていたのです。このアテネ人の現実こそ、現代の日本の精神状況と見事に重な り合っているのではないでしょうか。否、今日の日本のほうが、古代アテネより深刻な状況かもしれま せん。私たちの町には至る所に偶像の洞はないかもしれない。しかし人間の心の中に「罪」という最も 巨大な偶像が厳然として存在し猛威を振るっているのです。その結果、今日の日本人こそ「何か耳新し いことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごして」いるのではないでしょうか。人間を人間た らしめるものが見えなくなっているのです。その結果「虚しいもの」に拠り頼み、いよいよ人生と世界 の意味がわからなくなる、そうした時代に私たちは生きているのです。  そこで、パウロのアテネ伝道の言葉に、私たちこそ耳を傾けなくてはなりません。17章22節以下で す。まず「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられる と、わたしは見ている」とパウロは語りました。相手を煽てているのではありません。人間の心の奥深 くにある「宗教心」を手がかりに、パウロは人々の耳を福音へと開こうとしているのです。すなわちパ ウロは街角で見た「知られない神に」と刻まれた祭壇のことに触れ「あなたがたが知らずに拝んでいる ものを、いま知らせてあげよう」と語り、イエス・キリストの福音を宣べ伝えようとしました。同時に パウロは、アテネ出身の詩人アトラスの詩の一節を引用しています。「われわれも、確かにその子孫であ る」という言葉です。これをもってパウロは「あなたがたはいま、真の神に立ち帰るべきである」と語 っているのです。  今でもアクロポリスの丘には、このパウロのアレオパゴスにおける説教を刻んだ銅板があります。し かしアテネにおける伝道の成果は、決して思わしいものではありませんでした。アレオパゴスの裁判人 デオヌシオ、そしてダマリスという名の婦人のほか、数名の人々が洗礼を受けたのみだったのです。マ ケドニアやギリシヤ各地で教会を建てたパウロも、ついにアテネには教会を建てることはできなかった。 いわばアテネにおける福音伝道は失敗に終わったかに見えました。伝道とは単に個人を回心させること ではなく、そこにキリストの教会を建てることです。少なくともアテネに教会が建たなかったというこ とは、それ以後パウロが伝道の方針を一大転換する契機になりました。事実パウロは次の伝道地コリン トにおいては、伝道の方法を根本的に変えています。すなわち学者や知識人の集まる集会所で、哲学や 詩を通して伝道のをするのではなく、アクラとプリスキラという天幕作りのユダヤ人夫婦(一般庶民) の協力を得て、直接に十字架のキリストのみを語る方針に転じています。この頃からテモテとシラスも パウロに合流して伝道を助けるようになりました。この当時の心境についてパウロは、第一コリント書 2章1節以下に次のように語っています「兄弟たちよ、わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、 神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリ スト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心し たからである」。  パウロはアテネでは、哲学者や知識人らと対等に議論して一歩も引けを取りませんでした。しかし主 イエス・キリストを宣べ伝えるという大切な一点においては不本意な結果に終わったのです。そこでコ リントでは、パウロは申します「神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用い」ることな く「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知 るまいと、決心した」。この「決心した」というのは文語の聖書では「心に定めたり」です。つまり愚直 なまでに十字架のキリストの福音のみを語ることが、パウロの全生涯を通じて変わらぬ伝道の基本方針 になったのです。偶像崇拝の愚かさを哲学的に証明するのではなく、むしろ大胆果敢に十字架の福音の みを語ることによって、全ての人々にキリストによる救いの確かさを証したのです。ですから2章3節 以下には「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わ たしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。そ れは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」と語ってい ます。ここで大切なのは「そして」(それゆえにこそ)という言葉です。パウロはコリントでは「巧みな 知恵の言葉」を全く用いなかった。それゆえにこそ、コリント伝道は「霊と(神の)力の証明による」 ものになったのです。それは「あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるた めであった」と言うのです。パウロはここに、伝道の基本方針を確立したと言って良いのです。おのれ の力に少しも頼らず、ただ聖霊と神ご自身の力によって、十字架のキリストのみを宣べ伝えるのが私た ちの伝道です。ただそこにのみ本当の教会が建てられ、強められてゆくのです。  コリントはある意味で、アテネよりももっと世俗化した伝道困難な都会でしたけれども、パウロのこ うした伝道の結果、そこには有力な教会が建てられ、救いにあずかる者たちが日ごとにまし加えられて ゆきました。さきほどアテネ伝道は人の目には失敗に終わったと申しましたが、その失敗の中からコリ ントにおける教会形成が生まれたことを思いますとき、伝道の成果は決して数や教勢によって判断でき ないのです。むしろアテネ伝道の結果、裁判人デオヌシオ、そして婦人ダマリスが洗礼を受けたと記さ れている事は、彼らのその後の生涯が忠実な主の証人の生涯であったことを示しています。モファット 牧師のたった一人の受洗者リビングストンは、アフリカ全土に福音を伝える伝道者へと成長しました。 私たちもまた一人びとりが「神の力による」まことのキリスト者へと成長してゆかねばなりません。終 わりに、私たちの教会は日本という文化的土壌の中に建てられています。教会は文化的真空地帯に建つ ものではなく、それぞれの国や民族の独自の文化的土壌の上に建つキリストの身体です。そして文化は 福音によって救われなくては本物にはならないのです。世界と歴史はキリストによる救いを待っている のです。アテネ文化の衒学趣味とコリント文化の退廃主義は、ともにキリストの福音と真の教会によっ てのみ、はじめて祝福された完成へと導かれてゆきました。文化は人間の営みであり、キリストの贖い なくして完成しません。ただ十字架のキリストの福音によってのみ、文化は罪の縄目から解き放たれ、 本当の輝きを放つものとなるのです。  私たちはこの日本という文化の中に建つ教会に連なる者として、いよいよ福音伝道の務めを忠実に果 たし、礼拝者としての生涯を全うし、神の力によるところの生きた証しをなし、喜びと感謝をもって、 主の御身体に仕えて参りたいと思います。