説     教    詩篇23篇1〜6節   マタイ福音書22章1〜14節

「永遠の祝宴への招き」

2014・08・10(説教14321549)  「イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、『天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催 すようなものである…』」。主イエス・キリストは「天国」を「王子の婚宴」の様子に譬えて語られま した。古代イスラエルにおいて、婚宴は非常に大切かつ厳粛なものでした。そこに招かれること、し かも「王子の婚宴」に招待されるということは、大変な名誉を意味したのです。主が言われる「天国」 という言葉は「神の永遠のご支配」という意味です。言い換えるなら、神との永遠の交わりの内に私 たち一人びとりが、何の値もなきままに、ただ恵みによって招き入れられるのです。それはちょうど 「王子の婚宴」という最上の祝宴に、なんの縁(ゆかり)もない人々が招かれるようなものだと主は 言われるのです。  そこで聖書では、マタイ伝が語る「天国」、マルコ伝やルカ伝が語る「神の国」、そしてヨハネ伝が 語る「永遠の命」は、ともに同じ神の絶対的な恵みのご支配を意味しています。その本質は「神の永 遠のご支配」です。使徒パウロは同じ恵みを「神の義」という言葉で現わしました。つまり「天国」 「神の国」「永遠の命」「神の義」これらはみな同じ「神の永遠のご支配」を意味する言葉なのです。 この最も大切な福音の真理を、主イエスは今朝の御言葉において「王子の婚宴」にお譬えになったの です。  さて「婚宴」の中心には一つの食卓が置かれています。招かれた人々はみな共にその食卓を囲み、 生命の糧に与る者とされるのです。私たちの教会の中心にも聖餐の食卓(聖餐卓)があります。そこ から生命の御言葉が宣べ伝えられ、キリストの贖いを意味するパンとぶどう酒が配られます。キリス トご自身に私たちは与るのです。教会を意味するコイノーニアというギリシヤ語は「ともに一つの糧 にあずかる者たちの集い」という意味です。私たちの教会は「ともに唯一の救主イエス・キリストに あずかる(キリストに結ばれた)者たちの集い」なのです。  そういたしますと、私たちが献げているこの礼拝、私たちが連なっているこの教会そのものが、実 は「ひとりの王の、独子である王子の婚宴」に連なることではないでしょうか。その「ひとりの王」 こそ父なる神であり、その「独子である王子」こそ主イエス・キリストです。そして婚姻の相手とし て選ばれたのは、私たちのこの教会なのです。ですから教会は昔から「キリストの花嫁」と呼ばれて きました。つまり私たち教会に連なる一人びとりは、キリストと教会との「婚宴」にただ恵みによっ て招かれている者たちなのです。  私の書斎に「もしも宮中晩餐会に招かれたら」という本があります。長年皇居の大膳科で大膳科長 (コック長)を務めてきた人が書いたものです。「もしあなたが宮中晩餐会に招かれたら、どういうこ とが起こるか」について丁寧に書かれています。実際に天皇や皇太子の宮中晩餐会に招かれた人たち は、あまりの名誉に恐懼して、だいたい一人あたり数百万円かけて準備をするのだそうです。しかし それは「少しも陛下のお心ではない」とその人は書いています。自分が持っている中で最上の服装で、 普通のタクシーに乗って皇居に来てくれれば十分なのだ…と書いています。私はそれを読んで思いま した。人間が主催する宮中晩餐会に招かれてさえ、私たちはそれほど恐縮し、それほど心遣いをする。 それならばなおのこと、私たちは宇宙万物の創造主にして、私たちの唯一の贖い主なるまことの神の 独子の婚宴に招待されているのです。それがこの礼拝であり、聖餐の食卓なのです。そこでこそ問わ れることは、私たちが主の御招きに相応しい“装い”をしているか否かということです。  「唯一の王」である主なる神が、その「王子」すなわち御子キリストのために、教会という花嫁を 迎え、その「婚宴」に私たちを招待して下さる、それが今朝の御言葉の内容(マタイ伝22章1節〜 14節)です。そして婚宴の席に入るための礼服は王みずからが備えてくれたのです。私たちはあるが ままに(手ぶらで)招きに応じれば良いのです。ところが、そこに信じられないことが起ります。も ともと私たち人間の罪は「信じられない」ほど大きく根深いのです。王は侍従たちを招待客一人びと りに遣わして、婚宴の準備が整いましたから、どうぞおいで下さいと言うのです。ところが招かれて いた人々は、それを一様に「断りはじめた」のでした。5節です「しかし、彼らは知らぬ顔をして、 ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、またほかの人々は、この僕たちをつかまえて 侮辱を加えた上、殺してしまった」。  このことから私たちは、この王が使わした「僕たち」とは預言者のことを指しているのだとわかり ます。言い換えるなら、ここには私たち人間の、主なる神に対する「罪の歴史」が凝縮されているの です。ところが王は忍耐と寛容をもって、3度までも侍従を招待者のもとに遣わします。3度目には、 その侍従が殺されるという最悪の事態まで起こります。これはバプテスマのヨハネの悲劇を意味して います。事そこに至って、王はこの「招かれていた人々」が「相応しくない人々」であったと知って 悔いるのです。そして7節にあるように「軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き 払った」と言うのです。これは「そのような仕打ちを受けて当然なことではないだろうか」という問 いかけの言葉です。聴いていた人々も、本当にそのとおりだと思ったことでしょう。  聖にして義なる神は、私たちを限りなく愛しておられるかたですから、私たちの罪を決して容赦さ れません。黙認なさいません。親は愛するわが子を愛するゆえにこそわが子を叱るのです。主なる神 は、たとえ軍隊を送ってでも私たちの「罪」を滅ぼしたもうのです。だからこそ、神の恵みと慈しみ はそこで終わりとならず、むしろそこから新たに始まります。すなわち8節以下の御言葉です。「そ れから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であっ た。だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』そこで、僕た ちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱい になった」。  私たちはここに「出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきた」とあることに注目したいのです。 キリストのもとに招かれている人々「神の永遠のご支配」のもとに招待されている人々の「相応しさ」 は、悪人とか善人という人間の側の価値基準を超えているのです。そうではなく、まことに信じ難い ことですが、ここではただ王である神の“招きの恵み”だけが大切なのです。つまり、その招きの恵 みに心から従った人々であるという事実だけ(つまり信仰だけ)が「相応しさ」の条件なのです。使 徒パウロは、この実に驚くべき恵みの出来事を、ローマ書3章21節以下にこのように告げています。 「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現わされた。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるもので ある。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人々は罪を犯したため、神の栄光を受けら れなくなっており、彼らは値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義 とされるのである」。  すると、どういうことになるのでしようか。さきほど私たちは「悪人でも善人でもみな集めてきた」 と、王であられる神の御業を読みました。しかし本当には、私たちは主なる神の前に誰一人として例 外なく「悪人」(罪人)であるにすぎないのです。今のローマ書3章に「すべての人々は罪を犯した ため、神の栄光を受けられなくなっており…」とあるように、私たちは主なる神の御子の婚宴に招か れるに全く相応しくない者たちです。その全く相応しくない私たちが、ただ主なる神の恵みによって、 御子イエス・キリストとの永遠の交わりの内に招かれているのです。これほど大いなる慰め、またこ れほど忝い恵みが、どこにあるでしょうか。  私たちの側のいかなる良き行いも、神の招待を受ける条件とはならず、また逆に、私たちのいかな る罪といえども、神の招待から遠ざける理由とはならないのです。ただキリストにおける神の恵みの 招きだけが大切なのです。それだけが私たちの唯一絶対の救いなのです。そこにこそ、ただそこにの み、私たち全ての者の真の救いと喜びがあるのです。だから同じローマ書3章27節以下に、パウロ はこのようにも申しています。「すると、どこにわたしたちの誇りがあるのか。全くない。なんの法則 によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである」。まさにこの「信仰 の法則」こそ、主なる神の招待を受けた私たちが装うべき唯一の晴れ着なのであります。だからこそ、 続けてパウロはこのように語ります。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いに よるのではなく、信仰によるのである」。  そうすると、次の11節以下の言葉の意味も、明らかになるのではないでしょうか。「王は客を迎え ようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どう してあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた」。主イエ スの時代のイスラエルにおいて、王の婚宴に招かれた客は、控えの間で自分が着てきた服を脱いで、 王が用意してくれた礼服に着替える習慣になっていました。譬えて言うなら、宮中晩餐会に招かれた 私たちのために、皇室が礼服を用意してくれるようなものです。ですからこの場合の礼儀とは、喜ん でその礼服に着替えることです。王が用意した礼服に着替えないで婚宴の席に入ることは、大変な失 礼とされていました。この人か理由を問われて「黙っていた」のは、王との交わりを拒絶していたこ とを意味します。つまりこの人は、招きには応じたけれども、王との交わりは拒絶していたのです。  私たちにも、その罪があるのではないでしょうか。教会生活(信仰生活)がキリスト中心ではなく、 いつも自分本位のものになってしまう罪を、私たちもおかすのではないでしょうか。教会生活におい てキリストの栄光(救いの恵み)という礼服を着るのではなく、自分の服装に固執してしまう(自分 を実現することを求めてしまう)罪をおかすのではないでしょうか。私たちは主の教会に謙虚に、招 かれた喜びをもって仕える者とされたいのです。  使徒パウロは信仰を「キリストを着る」ことに譬えています。「着る」という元々のギリシヤ語は「覆 い包む」という字です。罪あるがままの、滅びの子でしかない私たちを、神は御子イエス・キリスト によって、その十字架の贖いによって「覆い包んで」下さった。キリストを着る者として下さった。 御前に恐れなく立つ者として下さった。ローマ書13章14節「あなたがたは、主イエス・キリストを 着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。またガラテヤ書3章27節「キリストに合 うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」。そして第二コリント書5章3節 には、もし私たちが「キリストを着た」ならば、私たちはキリストの義によって覆われた、新しい人 になるのだと告げられています。  私たちの教会は、私たちのいかなる資格や相応しさをも超えて、つまり律法を超えて、ただ贖い主 なるキリストの主権において建てられた「贖われた者たちの群れ」です。ここにおいて私たちは、た だ「キリストの義」のみを、罪と死に勝利する復活の生命を与える喜びの礼服として身にまとい、キ リストに覆い包まれたものとして御前に生き続けます。礼拝に招かれているということは、キリスト を着る新しい生命の生活へと招かれていることです。いま私たちが、この永遠なる祝宴に連なる者と されているのです。