説     教    イザヤ書53章6節  マルコ福音書12章38〜44節

「 神への奉献 」

2014・08・03(説教14311548)  聖書を初めて読む人は、聖書というものは「何々をしなさい、してはならない」「何々すべし、すべか らず」という、道徳の教えで満たされているように感じるものです。たとえば今朝お読みしたマルコ伝 12章38節以下の記事も、一読しますところ、あなたがたは律法学者のようになってはならない。それ に対して貧しい寡婦(やもめ)はなんと立派であったことか。あなたがたもぜひ、彼女に倣う者になり なさい、そのような御言葉に受け取れるのです。しかし、今朝のこの御言葉は「何々を行え」あるいは 「行なうなかれ」という、単なる道徳(行為)の問題にとどまらない、非常に大切な福音の本質を、私 たちに告げているものなのです。  主イエスは弟子たちをお連れになって、ユダヤの各地を巡回伝道され、数多くの奇跡や御教えを人々 のために行なわれた後、いよいよ都エルサレムに入城なさいました。ちょうどイスラエルの三大祭のひ とつである「過越の祭」が近づいた時でもあり、エルサレム神殿の境内は、ユダヤ全土また世界各地か ら訪れた大勢の参詣者で賑わっていました。主イエスはこの神殿の境内で、当時の宗教的指導者であっ た祭司長・律法学者たちを厳しく叱責されたのです。その様子が今朝の御言葉の直前、12章37節まで のところに詳しく記されているわけです。  さて、主イエスによって民衆の面前で面子を潰された祭司長や律法学者たちは、何とかして主イエス を陥れんとして難問を持ちかけましたけれども、どうしても勝てませんでした。実は直接には、このと きの祭司長・律法学者らの恨みが、主イエスを十字架に追いやる契機になったのです。ともあれ、主イ エスは民衆に対する御教えの中で繰返し「律法学者らに気をつけなさい」と言われました。今朝の38 節以下の御言葉です。「律法学者らに気をつけなさい」。何に気をつけるのでしょうか。主イエスは律法 学者らが「長い衣を着て歩くこと」「広場で挨拶されること」「会堂の上席、宴会の上座を好んでいるこ と」の3つを挙げられます。これは多くの人々の注目を引き、尊敬を集めるための律法学者らの演出で した。「長い衣」とは足元まで覆うガウンつまり権威の象徴です。「挨拶」も賑々しい儀式的なものでし た。このように律法学者たちは、どんな時でも自分たちを民衆の支配者(指導者)として顕示していた のです。  そこで、本来なら、こうした権威を身に纏うということは、大きな責任を伴うことであるはずです。 「高貴なゆえの責任」(ノーヴレス・オブリッジ)が伴うべきなのです。しかし彼らは逆に40節にある ように「やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りを」していました。もともとイスラエルで は「寄留者やみなしごの権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない」(申命記 24:17)という社会的な弱者保護の規定がありました。それを実施するための裁判官の役目を委ねられて いたのが祭司長や律法学者たちであったのです。ところが彼らは、弱者を保護するどころか、むしろ裁 判を求める寡婦たちに対して、高額な代金を要求して平然と私腹を肥やし、かえって弱者を苦しめると いう非道なことをしていました。しかも外見だけはいかにも敬虔なふうを装い「長い祈り」をするとい うに至っては「神と人を欺く」大きな罪をおかしているわけですから「もっともきびしいさばきを受け るであろう」と主が言われたの当然のことなのです。  しかしこれは、当時の祭司長・律法学者たちだけに向けられた主の御言葉(戒め)なのでしょうか?。 「気をつけなさい」との主の御言葉は、実は今日の私たち一人びとりにも同じように向けられているの ではないでしょうか。弟子たちは召命を受けたとき、ただちに全てを捨てて主に従う者となりました。 しかし主イエスのお側近く仕え、主の御教えを聴く中で、彼らは弟子に相応しい者に成長したかと申し ますと、必ずしもそうではなかったのです。むしろ弟子たちは「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」 と言い争いをしたり、他の弟子たちを差置いて政治的な出世を主イエスに約束させようとしたり、主イ エスが招かれた幼子たちを邪魔者扱いしたり、主イエスの十字架と復活の予告に対して、そんなことは あってはなりませぬと、主の袖を引いて戒めるようなことをしたり、数々の愚かさを繰返した弟子たち でした。私たち人間は主の御側に仕えていてさえ、このように罪をおかし続ける存在なのです。  事実、私たち自身の信仰生活を顧みるとき、私たちはそこに、いかに数多くの主イエスに対する不従 順を見出すことでしょうか。主イエスが中心ではなく、自分のことばかりを中心にした信仰生活(教会 生活)に私たちはなっていることはないでしょうか。改めて洗礼を受けたときの志に立ち帰らねばなり ません。私たちはいつのまにか、純粋な思いで主イエスを見上げることを忘れ、不平不満ばかりの教会 生活をしていることがあるからです。改めて問わねばなりません。私たちはいま本当に、主イエスのみ を中心とした教会生活をしているでしょうか。自分を主イエスに献げているでしょうか。その意味で「気 をつけなさい」との今朝の主の御言葉を、みずからへの問いとして受け止めねばならないのです。  さて、主イエスは神殿の境内で「賽銭箱」に向かってお座りになり「群集がその箱に金を投げ入れる 様子を見ておられ」ました。今朝の41節以下の御言葉です。当時エルサレム神殿の「異邦人の中庭」 と呼ばれる境内には、大きなラッパの形をした金属製の献金箱が13個並べてられていて、そのそばに 一人ずつ係員が立っていました。そして「誰それが幾らの献金をした」ということを大声で人々に知ら せたらしいのです。当然のことながら、多額の金を投げ入れた人は得意満面であったことでしょう。そ して投げ入れた多額のお金が金属製のラッパの筒を通るとき、カランカラーンと、それは華やかな音を 立てたことでした。それもまた人々の自尊心を刺激するのに十分な演出であったわけです。そこにひっ そりと、貧しい一人の寡婦がやって来ました。彼女は多額の金を投げ入れる人々の間に交じって、目立 たぬように、しかし心をこめて「レプタ二枚」の献金を献げたのでした。「レプタ二枚」という係員の声 がしたとき、周囲の人々からは軽蔑の失笑が漏れたことでした。というのは、当時の貨幣の中でレプタ 銅貨は最も価値の低いものだったからです。レプタ銅貨は今日の金額に換算しますと50円ほどの価値 です。それが「二枚」ですからこの寡婦は100円の献げものをしたわけです。  ところが、この寡婦の献げものをご覧になった主イエスは、わざわざ弟子たちを呼び寄せて言われま した。今朝の43節以下です「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人 たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人 はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。私たちはえてして「レブ タ二つの献げもの」という表現を「少ない額の献金」という意味で使うことがないでしょうか。それが 大変な間違いだということは、この主イエスの御言葉から明らかです。主イエスははっきり見抜かれま した。その「レプタ二枚」がこの寡婦にとって「生活費全部」であったということを。つまり彼女は、 持てるもの全てを献げたのです。「少ない献金」どころではない。むしろそれが「自分の持ち物すべて」 であったがゆえに、彼女は「だれよりも多く献げた」のでした。それを主イエスは見抜かれた。あとの 人々はあり余る中から一部を献げたにすぎません。しかし彼女は、生活費の全部を献げたのです。それ ほど神への感謝は大きかったのです。神に自分の生活の全てを委ねきったのです。そこに主イエスは「誰 よりも多い献げもの」をご覧になったのです。  この「生活費ぜんぶ」を献げた寡婦の献げものは、この世の価値観からすればまことに愚かさの極み だったでしょう。お金は自分を富ませるためにあるのだと、誰もが当然のように考えているからです。 昔のキリスト者たち(私たちの信仰の先達)は「什一献金」と言いまして十分の一の献金を献げたので す。自分の全収入の十分の一を主の御用のためにお献げすることが当然だとわきまえていたのです。い まの私たちはどうでしょうか。「什一献金」を私たちはしているでしょうか?。私は高校生2年生(16 歳)のときに洗礼を受けましたが、私に洗礼を授けて下さった牧師先生は「献金は、自分が『痛み』を 感じるほどの額を献げるものです』と教えて下さいました。『これからのキリスト者の生涯において、あ なたはいつも自分が『傷み』を感じるほどの献金を献げる人になりなさい」と指導して下さったのです。 それは、献金によって自分の信仰もまた成長するものだからです。私はその時の牧師先生のご指導を心 から感謝をもって覚えるのです。  私たちは、自分にとって『痛み』と思えるほどの献金を主なる神に献げているでしょうか。改めてそ のことが問われています。むしろ私たちは今朝の御言葉の群集のように「ありあまる中から」少しだけ 献げて、それで良しとしていることが少なくないのではないか。私たちは時に「信仰と献金は別のもの だ」という理窟を申しますが、それは少なくとも今朝の寡婦の献げものを全く理解していない人の言葉 です。今日の寡婦もレブタ銅貨を二枚持っていたのですから、一枚は自分の生活のために(明日のパン のために)取っておくことができたのです。しかし彼女はその全てを神に献げた。自分の持てる全てを 主の御用のためにお献げしたのです。だから「レブタ二枚の献げもの」ほど大きな献げものはなかった のです。言い換えるなら、彼女はその「持ち物」を全て献げたのですから、明日の生活についても自分 自身を神に委ねきったのです。彼女の手の内には何ひとつ自分を支える手段を残さなかったのです。自 分の力には全く頼らなかったのです。これこそ「まさに終末論的な生きかたである」とある神学者が語 りました。終末論的な生きかたとは、古き罪のおのれに死に、キリストの内に自分を見出す喜びの人生 です。言い換えるなら、キリストに贖われた者の新しい喜びの人生を生きることです。キリストを待ち 望む生活です。  考えてみれば、私たちは愚かにも無意識の内に、明日も自分の生命が続くことが当然のことのように 考えています。実際には、私たちはある日突然に死を迎える存在であるにもかかわらず、自分だけはい つまでも生き続けるように思い違いをしているのです。これだけでもどんなに大きな傲慢でありましょ うか。ある日何気なくいつものように別れた人と、今生の最後の別れになったという経験は私たちの誰 にもあるのではないでしょうか。この次は私たちが去る番でないとは誰が言えるでしょうか。よく「老 後の人生設計は云々」と宣伝されています。私たちはそういうことに関心を示しても、神に仕える人生、 神への献げもの、神への奉献については、二の次三の次にしていないでしょうか。「おのれに対して富ん でも、神に対して富まない人」の人生は、結局は空しいのです。  主イエスがエルサレムに来られたのは、私たちの罪を負うて十字架におかかり下さるためでした。事 実、今朝の出来事から一週間後には、主イエスは十字架にかかっておられるのです。主イエスの十字架、 それは永遠にして聖なる真の神であられるかた(神ご自身)が、私たち罪人を極みまでも愛して下さり、 私たちを罪と死の支配から贖うために、ご自分の全てを献げて下さった出来事です。生活費全部どころ か、主イエスはご自分の全てを、私たちのために献げ尽くして下さったのです。それならば、今朝の御 言葉の貧しい寡婦の献金は、まさに貧しさの極みにまで降りて来て下さった、主イエスの十字架の恵み を指し示すものでした。ですから、今朝のこの物語は、今から2000年前にこういう立派な婦人がいた という物語ではない。そうではなくて、彼女の献げものは、私たちのための主イエスの十字架の無限の 恵みを現しているものなのです。これと似たことが翌日にも起こります。一人の女性、しかも町で「罪 の女」とレッテルを貼られた女性が、高価で純粋なナルドの香油を携えてパリサイ人の家に入り(その こと自体が死を覚悟した行為でした)そこで香油を全て主イエスの「葬りの準備」として献げたことで す。この時も弟子たちは、高価な香油を無駄にしたと言ってこの女性を非難しています。しかし主イエ スは「彼女を責めてはならない、なぜなら彼女は、わたしに良いこと(最も美しいこと)をしてくれた のだ」と言われました。この「良いこと」(最も美しいこと)とは、私たちの人生そのものが、贖い主な るキリストに結ばれたものになる、その全てにまさる幸いを現わしています。主は私たちのために、そ の持てるもの全てどころではない、ご自分の存在と生命のいっさいを献げ尽くして下さった。罪の中に しかありえない私たちのため、しかも「十字架につけよ」と絶叫する私たちのために、ご自分の全てを 献げて下さり、限りない赦しと贖い、そして永遠の生命と義を、私たちに溢れるばかりに与えて下さり、 私たちを教会において復活の生命に連ならしめ、ご自身の永遠の祝福の内を歩む僕として下さったので す。  いかなる人間も、主イエスの十字架なしに救われる人間はいません。ただ十字架の主に結ばれて生き るとき、私たちも今朝の寡婦のように、本当の「神への奉献」に生きる者とされるのです。私たちの生 涯を通して「最も美しいこと」キリストの愛と祝福が輝き現れる幸いに生きる者とされるのです。どう か私たちは、いつも主の恵みに応え、みずからを感謝の献げものとなす生涯を歩みたいと思います。