説     教    イザヤ書56章7節  マルコ福音書11章12〜23節

「主が求めたもう果実」

2014・07・27(説教14301547)  福音書には主イエスがなさった数々の奇跡が記されていますが、それらはみな病気の癒し、嵐の鎮め、 パンの奇跡、死人の甦りなど、神の祝福と主の愛の確かさを感じさせるものばかりです。しかし今朝の マルコ伝11章12節以下の御言葉はそうではありません。それは、主イエスが「いちじくの木」を呪わ れたところ、その木が翌日に枯れてしまったという出来事だからです。私たちはこの御言葉をどう解釈 して良いのか困るのではないでしょうか。「よくわからない」というのが本音ではないかと思うのです。  まず12節から14節を読んでみましょう。主イエスは十字架に至る最後の一週間をエルサレムで過ご されましたが、夜は少し離れたベタニヤという村に泊っておられました。ですから12節に「彼らがベ タニヤから出かけてきたとき」とあるのは、主イエスと弟子たちがいつものように「ベタニヤからエル サレムに向かう途中で」という意味です。その距離はおよそ3キロでした。その道の途中に一本の「い ちじくの木」があったのです。そこでちょうど空腹を覚えたもうた主イエスは、その「いちじくの木」 に実を求めて近づかれた。ところがそのいちじくには葉ばかり繁っていて実はひとつも見当たらなかっ た。だから13節には「葉のほかは何も見当たらなかった。いちじくの季節ではなかったからである」 と記されています。すると主イエスはそのいちじくの木に向かって「今から後いつまでも、おまえの実 を食べる者がないように」と言われた。いわば主はその「いちじくの木」を呪いたもうたのです。「弟子 たちはこれを聞いていた」と14節には記されています。  それは主の弟子たちにとっても、主イエスのこの時の御言葉(行動)は理不尽に思えたからです。私 たちにも簡単にわかることです。実のなる季節でない時にいくらいちじくの実を求めてもそれは無理難 題というものでしょう。その“無理難題”を主イエスは求めたもうた。しかも実のないいちじくの木を 呪いたもうた。この主のお姿に弟子たちは困惑したのです。困惑したのは弟子たちだけではありません。 古今東西、聖書の様々な注解書の中で、この無理難題が実は不自然でないことを示そうとして様々な解 釈が試みられました。その中のひとつに、主イエスは「しいな」と呼ばれる“季節はずれの実”を求め られたのだという解釈があります。しかし今朝の御言葉を素直に読むなら、その解釈は当てはまらない と思います。むしろ、ここでマルコが問題にしているのは、あくまでも「主イエスが求めたもうたその 時に、いちじくの実が無かった」という単純な事実にあるからです。それが私たちの目に無理難題に見 えるか否かは今朝の御言葉の中心ではないのです。  むしろ私たちがここで心にとめたいことは、この「いちじくの木」が当時のエルサレム神殿の象徴で あったという事実です。預言者エレミヤの言葉のとおり、人々は「主の神殿、主の神殿」と口先で唱え るだけで、まことの神を信じ敬う心を失っていました。エレミヤは語ります。実際にはあなたがた(エ ルサレムの民)は、盗み、殺し、偽って誓い、バアルに香を焚いている。それなのにこの神殿に来て、 自分たちは「救われた」と言っている(エレミヤ7:4〜11)。だとすれば、これほど大きな神聖冒涜はな いのです。葉ばかり繁って実の無いいちじくの木は、まさにこの民の不信仰(私たちの不信仰)を現わ しているのです。それならば、ここでこそ改めて私たちは、主イエスが「空腹をおぼえられた」と明記 されていることに心をとめねばなりません。この「空腹をおぼえられた」とは、激しい飢え渇きにも似 た切なる思い(神のご意志)をもって、主は私たちを(私たちの救いを)求めておられるかたなのです。 だからここで主が求めたもう果実とは私たちの「救い」です。私たちが真の神に立ち帰り「救われた者」 になることです。まさに私たちの「救い」という「果実」を主は激しく求めたもう。「罪人がひとりでも 悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にある」 (ルカ15:7)のです。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信ずる者が 一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである」(ヨハネ3:16)。そして「神が御子を世に遣わされた のは、世を審くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17,18)と記されたとお りです。主が私たちに求めたもう「果実」とは、私たちが主に立ち帰ること。主イエスを救い主(キリ スト)と信じ、主の御身体なる教会に連なり、礼拝者として歩むことです。すなわち、主は「信仰」と いう「果実」を私たちに求めておられるのです。  この御言葉の祝福を受けて、さらに私たちは今朝の13節以下の「宮きよめ」の記事へと誘われます。 エルサレム神殿の広い境内に、たくさんの屋台(両替商や生贄の鳩を売る商人たちの店)が出ていまし た。神聖な神礼拝の場である神殿が、いつのまにか人間の利益追求の場となっていたのです。しかも神 殿の祭司たちはこれらの商売人たちからリベートを得ていました。だから主イエスがこれらの屋台を追 い払われたというのは、私たちの普通の考えからすれば、商売人たちと祭司たちとの癒着構造を改革な さろうとしたのだと考えることができます。しかし、もし本当にそれだけなら、主イエスのこの「宮き よめ」の行為は歴史のひとコマに過ぎないでしょう。屋台の商人たちは一時は逃げても、またすぐ戻っ て来たに違いないからです。翌日になれば何事もなかったように、いつもの光景が繰り広げられたこと でしょう。神殿の境内(異邦人の中庭)ではこうした商売が許可されていたからです。  主イエスの「宮きよめ」のわざは、この世の構造改革と同一のものなどではありません。かつてフラ ンス革命の急進派ロベスピエールは、聖書のこの記事を暴力革命の根拠としましたが、それは見当違い な解釈です。主イエスの「宮きよめ」は旧約聖書のマラキ書3章に基づいて、神から遣わされた全世界 の救い主(キリスト)がいまここに臨在しておられることを示すものでした。「見よ、わたしはわが使者 をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求めるところの主は、たちまちその宮に 来られる。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。その来る日には、だれ が耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう」。このような「主」(歴史の救い主)がいま 私たちのただ中に立ちたもうのです。その恵みの力をもって私たちの罪を贖い、世界を新たになして下 さるために、主は私たちのもとに来ておられるのです。私たちに「信仰」という「果実」を求めておら れるのです。主は言われます「『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』と 書いてあるではないか。それだのにあなたがたは、それを強盗の巣にしてしまった」。この「強盗の巣」 とは、強盗の隠れ家という意味です。私たちは罪を犯して、神に立ち帰るどころか、逆にその罪を隠蔽 するために、自分の中に隠れ家を持つ存在なのです。神の目の届かぬところがあると思い違いをするの です。  私たちの救いと平安は、いつも主なる神の御前にしかありません。「その来る日には、だれが耐え得よ う。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう」。まさに御前に立ちえざる私たちを、主はご自身の生命 をもって贖い、全ての罪を赦し、御前に健やかに立つ者として下さったのです。ヨハネ伝2章18節以 下を見ますと、なぜこんなことをするのかと問う律法学者らに対して、主は「この神殿を壊してみよ、 三日で建て直すであろう」と言われました。それはご自身の十字架による全世界の罪の贖いと、復活に よる真の生命に基づく新しい礼拝を現わしています。このことからもわかるように、主イエスが「宮き よめ」をなさった意味は、本来は神のものであるにもかかわらず「強盗の隠れ家」になってしまってい るエルサレム神殿(すなわち私たち)に対して、主イエスの来臨による真の審き(救い)の時が来たの です。そして三日目に、すなわち主イエスの復活によって、人の手によらない本当の神殿(まことの礼 拝)が主によって建てられることを示しているのです。  さて20節以下を改めてご覧ください。例の「いちじくの木」は翌日、根元から枯れていました。ペ テロも弟子たちも前日の主の言葉を思い出して「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、 枯れています」(21節)と申しました。ここで大切なのはこの「いちじくの木」は「根元から」枯れたと いう事実です。葉は枯れたけれど幹や根はまだ生きている、ということではなく、木全体が枯れてしま ったのです。ここには主イエスの十字架(ご受難)の意味が明らかにされています。エルサレム神殿を 根元から完全に終わらせ、全く新しい「救い」を私たちに与えるために、主イエスは十字架の上に完全 に死なれた神の子なのです。このことを、使徒パウロはローマ書3章21節以下にこう申しています「し かし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、 イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこ にはなんらの差別もない」。  主は今朝のこの出来事を通して「時は満てり、神の国は近づけり、悔改めて福音を信ぜよ」との御言 葉を、いま全ての人の救いと祝福として宣言しておられるのです。私たちの罪が(罪と死の支配が)根 元から枯れる(滅びる)救いの時がいま来ているからです。キリストを信じキリストに結ばれて生きる 私たちは、もはや古き罪の支配を受けることはなく、永遠にキリストの恵みのご支配のもとに生きる者 とされているのです。御子イエス・キリストによって神が無償で与えて下さる全く新しい完全な「救い」 を、私たち一人びとりがいま受ける者とされているのです。その恵みに共にあずかり、キリストの復活 の生命に生かされて、まことの礼拝者として立ち続ける私たちとされているのです。だからこそ、枯れ たいちじくの木に関連して22節以下には「祈り」について主の御教えが続きます。この言葉の意味は、 祈りによって山でさえ動くのだという魔術的な出来事でもなく、祈れば何でも実現するのだという超自 然論でもありません。そうではなく、ここでの「主」は神です。私たちのただ中に、主なる神が、本当 に絶対不可能なことを実現して下さった。「罪」に支配されていた私たちが、神に愛され、神の愛に答え、 祈りを献げる「神の民」とならせて戴いている。救いの「果実」を結ぶものとされている。それこそ、 全てにまさる奇跡の出来事なのです。まさに私たちの上に、主イエス・キリストによって、驚くべき「救 い」が起ったのです。死人の甦りが実現したのです。この罪の身体が贖われ、永遠に主のものとされた のです。それこそ山が海に飛びこむよりも、はるかに大いなる出来事なのです。主なる神は、まさにそのよ うな「救い」を私たち一人びとりに現わして下さったのです。私たちをして信仰の「果実」を結ぶ者として下 さったのです。