説     教   イザヤ書55章6〜9節  マルコ福音書8章27〜30節

「教会の唯一の基礎」

2014・07・13(説教14281545)  あるとき主イエスは、ピリポ・カイザリヤという村里の近くで「人々は、わたしをだれだと言ってい るか」と弟子たちに訊ねたまいました。そして対話の中でさらに「それでは、あなたがたはわたしをだ れと言うか」とお訊ねになったのです。これに対してシモン・ペテロが弟子全員を代表してお答えしま した。「あなたこそキリストです」。ここに私たちは、マルコによる福音書の中心を見ます。否、ここに こそ福音そのものの本質があると申しても過言ではないのです。  ピリポ・カイザリヤ地方は、都エルサレムから数百キロも離れた、いわば“辺境の地”でした。しか も主イエスは旅の途上で弟子たちに信仰告白を求められたのです。このことには深い意味があるのです。 私たちは「信仰告白」と申しますと、それはエルサレム神殿のような、文字どおり“目抜きの場所”つ まり“神が臨在しておられると考えられる場所”でなされるべきものだと思います。何よりも弟子たち がそうでした。主イエスが事もあろうに“異邦人の土地”と呼ばれるであるガリラヤの、さらに北にあ る“辺境の地”ピリポ・カイザリヤにおいて信仰告白を求められたことに、弟子たちは非常に驚いたの です。不意打ちを食らったのです。まさに日常の旅の途上でこそ、主イエスは私たちに「あなたがたは わたしをだれと言うか」とお訊ねになるのです。信仰告白を求めたもうのです。  私たちが信仰を告白する場所は、教会の礼拝堂とかまた礼拝の中であることは勿論ですけれども、実 は主イエスは、私たちの日常生活のただ中で、むしろ神とかキリストが問題にされないような世俗の場 所(魂の辺境地帯)でこそ「あなたがたはわたしをだれと言うか」とお訊ねになっておられるのです。 すなわち、私たちの日常の生活という旅路の途上(信仰とは無関係に見える場所でこそ)礼拝の時と同 じように、私たちは真実に「あなたこそキリストです」と告白することを問われているのです。  しかも大切なことは、主イエスは私たちに「人々は、わたしをだれだと言っているか」とまずお訊ね になり、その後に「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と改めて訊ねておられることです。 実は私たちは、他人のことは無責任に語りやすい。世間のことは安易に批判するのです。あの人は信仰 が有るとか無いとか、あるいは、世間の人たちは(時に家族でさえも)自分の信仰を理解してくれない とか、そういうことは言いやすいのです。つまり「人々が主イエスをどう思っているか」については、 私たちは安易に語ることができる。しかし大切なことは「私たちが主イエスをどう告白しているか」と いうことです。人々(世間)が主をどのように見ているかではなく、私たち一人びとりが、今キリスト をどのように信じ、告白しているか、そのことが最も大切な唯一のことなのです。  そこで私たちは、改めて今朝の御言葉から、主イエスのご質問の意味をしっかり捉えたいのです。言 い換えるなら、最初のお訊ねと二度目のお訊ねの違いを明確に理解することが大切です。最初のお訊ね に対しては様々な答えが出されました。今朝の28節で申しますなら、弟子たちは主イエスに「バプテ スマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者も あります」とお答えしたのです。これは他人の言葉を語っているにすぎません。相対的な事柄であり「自 分が主イエスをどう解釈するか」にすぎません。同じものを見ても、解釈は人によって千差万別ですか ら、そこに百人百通りのキリスト解釈があっても不思議ではないのです。  しかし主イエスは、それでよしとはなさいません。大切なことは、私たちがどう解釈するか(どう思 うか)ではなく、主イエスに対する唯一の信仰告白だからです。主は私たちに解釈ではなく信仰を求め ておられるのです。それは2000年の昔も今も少しも変わりはありません。いま私たち一人びとりが、 御言葉と聖霊によって現臨しておられる主イエスに対して「あなたこそキリストです」とお答えするこ と、それをいま主は私たちにも求めておられるのです。たとえば「祈り」ひとつを考えましても、私た ちはともすると「祈り」とは自分の願いを投げかけること(人間のすること)と考えやすい。しかしそ うではなく「祈り」とはなによりも、神が私たちに求めておられる信仰のわざなのです。神の側の願い が(御心が)先行して、はじめてそこに私たちの“祈りの生活”が成り立つのです。  たとえばそれは、私たちが神をいかにして知るか(いかにして神を認識するか)という大切な問題に も繋がって参ります。私たちはえてして、神を知るための根拠となるのは私たちの理性(知識)だと考 えます。それも大切かもしれません。しかしもしそうなら、本当の信仰が知的障碍者の人に見られるの はなぜでしょうか?。人間の理性を極限まで引き延ばしてもそれで神がわかるわけではないのです。神 を知るための唯一の根拠は実は神ご自身です。神の御言葉、神の御子イエス・キリストのみが、真の神 を私たちに示したもうかたです。だからキリストを抜きにしてはいかなる方法でも私たちは神を知りえ ないのです。逆に言うなら、私たちは自分の理性や知識などの力ではなく「イエスは主なる」という信 仰告白によってのみ正しい神認識へと導かれるのです。  洗礼を受ける前に、私たちの教会では洗礼志願者に対して「試問会」をします。そこでも志願者に対 して求められることは知識などではありません。よく「私はまだ聖書が十分にわかりません」とか「キ リスト教について十分な理解がありません」と言って受洗をためらう人がいますが、私はそういうとき いつも「洗礼は入学式であって、卒業式ではありませんよ」と申します。もし教会を神の学校に喩える ならば、その神の学校の校則はただひとつ「キリスト告白」のみです。なぜならキリスト告白のみが教 会の唯一永遠の基礎だからです。言い換えるなら、私たちは自分が如何に「知っているか」を全く問題 とはされず、ただ使徒伝来の(今朝のペテロの信仰告白以来の)教会の信仰告白にいま連なっているか 否かが問われているのです。「私の信仰」ではなく「教会の信仰」が大切なのです。  このことを、いま少し詳しく顧みて私たちの信仰生活にあてはめるなら、私たちは長く信仰生活を続 けているうちに、いつの間にか信仰の事柄や考えかたに悪い意味で慣れてしまい、なにかにつけて信仰 が他人事のようになったり、あるいは信仰が個人化主観化して教会生活を軽んずることがあるのではな いでしょうか。信仰が生きたもの(主の身体の共同体の信仰)とはならず、個人的・主観的・体験的な ものになってしまう危険です。そのとき私たちの語る信仰の言葉は力のない空疎な物語になってしまい ます。キリストの祝福と生命から離れた信仰生活は、それこそパウロの言うように「偽善」に陥ってし まうからです。「偽善」とは「自分を目的とし、自分を喜ばせる」ことです。そのようにならないために、 私たちはいつも、今朝のキリスト告白に正しく立ち続ける者であらねばなりません。「あなたこそキリス トです」との生ける主の教会の信仰に、いつも連なり続けていることが大切です。主は「わたしはまこ とのぶどうの樹、あなたがたはその枝である」と言われました。どのような枝も、幹から離れたら枯れ てしまうだけです。同じように私たちもまた、世々の聖徒らが告白してきたキリスト告白に正しく連な り続けなければ、その信仰は一時は元気に見えても必ず枯れてしまうのです。私たちの真の生命(永遠 の生命)は私たちの中にあるのではなく、ただ贖い主なるイエス・キリストにあるからです。  私たちの教会では、全世界の主の聖なる公同の使徒的なる教会と等しく、ニカイア信条を告白します。 また、わが国におけるニカイア信条のもっとも厳密な解釈であり、私たちが直接に連なる旧日本基督教 会の信仰告白として、私たちが実存をかけて採択し告白した「1890年日本基督教会信仰の告白」を告白 しています。この2つの信仰告白の上に建つのが連合長老会です。それもみな、全ては今朝の御言葉に 根拠を持つのです。「あなたこそキリストです」この信仰を明白に掲げんがためです。  さて、今朝の御言葉は、不思議な終わりかたをしています。それは30節に主イエスの御言葉として 「するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた」とあることです。 イエスはキリストであること(イエスは十字架の贖いによって、全世界の人々の罪を贖いたもう、唯一 の救い主であること)は、一人でも多くの人に伝えられるべきではないでしょうか。それなのに「自分 のことをだれにも言ってはいけない」と言われると、私たちは戸惑うほかはありません。これはどうい う意味なのでしょうか。  これはもちろん、キリストを宣べ伝えてはならない、などという意味ではないのです。もともと、こ こで「戒められた」と訳された元々のギリシヤ語は、悪霊を戒めるとか、嵐の海を鎮めるとか、そうい う場合の「戒める・鎮める」という言葉です。ですから、ここで主イエスが「戒められた」ことの意味 は「間違って用いられないように気をつけなさい」という意味です。当時のユダヤ人たちも、パリサイ 人ですら、ある意味ではキリストを信じていました。しかしそれは、自分たちに都合の良い政治的な解 放者、ダビデ時代の繁栄を再現してくれる王(国家元首)としてのキリストです。そういうキリスト理 解に、あなたの信仰告白が用いられることのないように気をつけなさいと、主イエスはペテロを「戒め られた」のです。  私たちにも、それは大切ではないでしょうか。私たちの信仰も、生けるキリストの教会から離れて独 り歩きをするとき、それは人をキリストに導く証人の生活とはならず、自分の栄光を求める生活になっ てしまうからです。キリストの御栄えを損なう僕になってしまうのです。事実マタイ伝によればこの直 後、主がご自分の十字架について予告をなさると、ペテロは主イエスの袖を引いて主を戒め「さような ことがあってはなりませぬ」と言ったのです。主イエスはそのとき「サタンよ、引き下がれ、あなたは 神のことを思わず、ただ人のことを思っている」と言われました。私たちにも同じことがないでしょう か。神を畏れているのではなく、実は人間を恐れているだけのことがないでしょうか?。もし私たちが 正しい信仰告白(真のキリスト告白)に生きるなら、その信仰は私たちを本当に自由にし、軽やかな、 喜びと感謝に満ちた、主の真の証人とするのであります。使徒パウロの語る「生きているのは、もはや わたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのである」という、主に贖われたる者の幸い と自由の生活が、そこに始まってゆくのです。ここに連なる私たち一人びとりが、いまそのような生活 へと、主の僕たる「キリスト告白者」の生活へと、招かれ、導かれ、生かされていることを感謝し、主 の御名を崇めたいと思います。