説     教   レビ記16章6〜10節   ヨハネ福音書14章7〜11節

「父・御子・聖霊なる神」

2014・7・06(説教14271544)  聖霊降臨日(ペンテコステ)の翌週の主日を、古来より教会の暦において「三位一体主日」と呼んで 参りました(今年は6月15日でした)。父なる神、御子なるイエス・キリスト、そして御霊なる聖霊、こ の三者はそれぞれ、旧約聖書・新約聖書・そして使徒たちの教会という、三つの時代を現しています。 すなわち旧約聖書の時代には父なる神が、新約聖書の時代には御子なる主イエス・キリストが、そして 続く使徒たちの教会の時代には御霊なる聖霊が、歴史の「主」であられることが明らかに示されたので す。  もちろん、父・子・聖霊なる神は、三つにまして一つにいましたもう唯一の神であられますから、旧 新約はもちろんのこと、続く教会の時代においても、この三者が同時に唯一の神として崇められ礼拝さ れることは申すまでもありません。しかし力点をどこに置くかということになりますと、いま申したよ うなことが言えるわけです。つまり使徒たちの「教会の時代」を受け継ぐこの私たちの時代は「聖霊の 時代」であるということが言えるのです。  そこで、この聖霊なる神はいかなる真理を私たちに告げたもうかと申しますと、それは何よりも“父 なる神と御子イエス・キリストとの関係”なのです。聖霊は自らについて証をするのではなく、父なる 神と御子イエス・キリストを証する(指し示す)かただからです。その意味で、例えば今朝の週報には 「聖霊降臨節第五主日」と記されているわけです。これは言い換えるならば「今のこの時代は、聖霊な る神によって、父・御子・聖霊なる神の生きた救いの御業が成し遂げられる時代である」ということで す。私たち全ての者を救うために、神は父・御子・聖霊なる唯一の神(唯一の主)として働きをなして おられる、ということです。  そこで、今朝の御言葉であるヨハネ伝14章7節以下において、私たちの主イエス・キリストはこの ように語っておられます。「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろ う。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ここに主が明確に語っておられるこ とは、まことに大きな驚きであり幸いではないでしょうか。なぜなら、ここで主が言われる「(あなたが たは)父を知っている」とは“(あなたがたは)父なる神を信じている”という意味だからです。この「信 じている」とは「堅く結ばれている」という意味です。そうです、私たちはいま神に堅く結ばれて生き ています。神を信じ、キリストの身体なる教会に連なっています。唯一の神に礼拝をささげています。 信仰告白をしています。  しかし、それだけではないのです。主イエスはそれに加えてここに「(あなたがたは)またすでに父を 見たのである」と言われる。ここに私たちは驚きを通りこして、戸惑いをすら覚えます。私たちのうち いったい誰が「父(なる神)を見た」などと言えるのでしょうか。「神を見る」とは大変なことではない か。非常に特別な、稀な、奇跡に近い出来事のように私たちには思えるのです。だからこそ、弟子の一 人ピリポは主イエスに申したのです。「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わた したちは満足します」と。主よ、私たちには「父なる神を見る」ことなどできません。だからどうか、 あなたみずからが私たちに父なる神を「示して」下さい。そうすれば私たちは父なる神を“見る”こと ができ「満足」するでしょう。そのようにピリポは言うのです。  譬えて申すならこういうことです。「映画を観なさい」と言われても、スクリーンに何も映っていなけ れば観ることはできない。そこで私たちは言うのです。どうかまずスクリーンに映画を映し出して下さ い。そうすれば私たちは映画を「見る」ことができるでしょうと…。今は何も映っていないので、見た くても見ることはできません。見せたいのならまず私たちにそれを「示して」下さい。ピリポが願った のはそういうことです。主よ、まずあなたが私たちに父なる神を「示して」下さいと願ったのです。そ うすれば、私たちは見て「満足」するでしょうと答えたのです。それに対して、主はこのようにお答え になりました。9節以下の御言葉です。「イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがた と一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、 わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなた がたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父が わたしのうちにおられて、みわざをなさっておられるのである。わたしが父におり、父がわたしにおら れることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい』」。  ここに主イエスが私たちに教えておられることは、大きく分けて3つの事柄です。まず第一に「わた しを見た者は父なる神を見たのである」ということ。第二に「わたしが語った言葉は、私の言葉ではな く、父なる神ご自身の御言葉である」ということ。そして第三に「わたしが父におり、父がわたしにお られることを信じなさい」ということです。    まず第一の「わたしを見た者は父を見たのである」とは、主イエスご自身しばしば弟子たちに語って 来られたことです。それにもかかわらず弟子たちは、それを十分に理解できませんでした。言い換える なら、主イエスがまことの神の独子であられることを、弟子たちは本当には「信じていなかった」とい うことです。実はこのことは、福音の本質にかかわる非常に大切なことなのです。私たちの葉山教会は、 全世界の主にある全ての教会と共に、西暦325年に制定され、381年のコンスタンチノーポリス公会議 で確定したニカイア信条を告白しています。ニカイア信条の草案を公会議に提示したのはアレクサンド リア教会の執事アタナシウスでした。彼はまだ年が若かったために発言権さえ与えられておらず、会議 全体の流れは当代きっての神学者アリウスの所説に傾きつつありました。アリウスによれば、イエス・ キリストは神ではなく、神に限りなく近い人間である。それをギリシヤ語で「ホモイウーシオス」(神に 類似した存在)と申します。キリストは神に類似した存在である。神に限りなく近い人間である。その 意味でイエス・キリストは神の子であるとアリウスは申しました。  これに対して真っ向から異議を唱えたのがアタナシウスでした。アタナシウスは申しました。もしア リウス先生が言うように、イエス・キリストが真の神ではなく、神に類似した人間にすぎない、という ことになれば「キリストによる救い」というものは結局、人間に基づく救いにすぎなくなる。もし私た ちの救いが人間に基づくものだとするならば、そのような救いを真の救いと呼ぶことはできない。それ がアタナシウスの反論の核心でした。アタナシウスはそこで、イエス・キリストは神に類似した人間な どではなく、まことの神のまことの独子であり「神と同質なる存在」(ホモウーシオス)であられること。 すなわち、神そのものとして世に来られ、私たちの罪の赦しと贖いのために十字架にかかって死んで下 さった救主であることを、聖書に基づいて大胆に証をしたのです。その結果、アリウスの所説は斥けら れ、アタナシウスの原案に基づいてニカイア信条の原文が制定されることになったのです。私たちはこ のニカイア信条に言いあらわされた正統信仰を、アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、パスカル、 カール・バルトらと共に受け継ぎ、1700年後の今日もこれを旗印として高く掲げつつ、イエス・キリス トを「まことの神のまことの御子」「神と同質なるかた」と告白し、この唯一の神にのみ、全ての人の罪 の「救い」があることを宣べ伝えているのです。  そういたしますと、第二の事柄「わたしが語った言葉は、わたしの言葉ではなく、父なる神ご自身の 御言葉である」という主イエスの御言葉の意味も明らかになるのです。主イエスと父なる神は御心にお いて全く一つでありたもうのです。両者の間にいかなる矛盾もないのです。私たちは違います。私たち は神の御心に常に叛き、神から離れた生活をよしとし、自分の利益、自分の幸福、自分の満足のみを求 めています。この人生に深い尊い意味があることを忘れて、自分の願いが適うことを幸福の条件だと心 得違いしている私たちです。しかし、主なる神の御心は遥かに高いところにあって、安穏たる境遇に満 足しようとする私たちを、聖なる御言葉をもって励まし、鍛え、養い、強めて、キリストと共なる御国 の幸いと祝福を与えようとしていて下さる。「御国を賜わることこそ、汝らの天の父の御心なり」と告げ ていて下さるのです。  真理には2種類の真理があるのです。ひとつは、私たちが努力してそれを追い求め、幸運なごく一握 りの人だけが見出しうる真理。もうひとつは、真理そのものの側から私たちを訪ね求め、私たちに出会 って下さる真理です。父・御子・聖霊なる三位一体の神の真理はその後者の真理です。だからそれは「出 会いとしての真理」(Wahrheit als Begegnung)です。この「出会いたもう真理」そのものである主イ エス・キリストに出会うことこそ、神の言葉を聴くことなのです。だから大切なのは礼拝です。礼拝と は神の言葉を聴くことであり、御言葉に応答することであり、御言葉による新しい自由の生活へと遣わ されてゆくことだからです。私たちの人生には測り知れない深く尊い意味があることが、礼拝によって (つまりキリストに出会うことによって)のみわかるのです。私たちは人生というかけがえのない世の 旅路を通って、永遠の祝福を世に現し、またそれを受け継ぐ者とされているのです。それが「神の民と される」ことです。教会に連なる私たちの幸いなのです。  第三の大切な事柄は、主イエスは、私たち一人びとりにただ「信仰」を求めておられることです。「わ たしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」と主は言われます。主イエス・キリストと 父なる神が一体であられる。父・子・聖霊なる三位格の神は一体であられる。それを頭や理屈で理解す るのでなく、信じることが大切なのです。今から150年ほど前、英国にジョン・ヘンリー・ニューマン という立派な神学者がいました。あるとき一人の人がこのニューマンに「自分は三位一体がどうしても 理解できない」と申しましたところ、ニューマンは彼に答えて「それは三位一体を信じないからである」 と語ったということです。三位一体は福音の奥義ですから、理詰めで分かろうとして理解できるもので はありません。それは崇高な、聖なる、慈愛に満ちた神の御姿(神の本質)ですから、私たちの理解を 遥かに超えたものです。それはまず「アーメン」と信ずるよりほかにないのです。「われは、父・御子・ 聖霊なる三位一体の神を信ず」と告白するほかはないのです。  この世界の知識体系(認識体系)においては、信仰が(理性的)理解に先立つのです。知らんと欲す る者はまず信ずるべきなのです。信ずるとは、神の御業をあるがままに、自分に対する限りない救いの 出来事として受け入れることです。神の御業に対してアーメンと告白することです。それが「信仰」で す。人生において必要な全ての理解と全ての知識は「信仰」によって完全に与えられるのです。だから 主は「まず神の国と神の義とを求めよ。さらばその他のものはすべて添えて与えられん」と言われまし た。だから私たちは何よりまず「神の国と神の義」(信仰)を求めましょう。父なる神が主イエスと共に おられ、主イエスが父なる神と共におられること。言い換えるなら、キリストと父なる神とが同質(本 質を同じくしておられる)ことを信ずる者として、教会にしっかりと連なり、真の礼拝者となり、福音 の喜びと自由に生きる者として、世の旅路へと雄々しく遣わされてゆきたいと思います。  だからこそ今朝の11節の後半が大切です。「もしそれが信じられないならば、わざそのものによって 信じなさい」と主が言われたことです。御父と主イエスが一体であられること、言い換えるなら父・御 子・聖霊なる三位一体の神の恵みは「わざそのもの」によって完全に現されていると主は言われるので す。その「わざ」とは、父なる神と御子なる主イエス・キリスト、そして聖霊が、私たちの救いのため に、あなたの救いのために、なして下さった全ての御業のことです。それこそすなわち、主イエスのご 聖誕、そのご生涯、十字架の苦しみ、死と、葬りと、復活において、私たちを救いたもう「わざ」なの です。神から離れ、神に叛き、神を“見る”ことがでずにいた私たちのために、その私たちの全ての罪 の赦しと贖いと救いのために、私たちに新しい生命を与え、自由と幸いと喜びを与えるために、主イエ ス・キリストは、十字架に死んで下さったのです。まさにその主の「わざ」によって、あなたは「神を 信ずる者」にされているではないか。父・御子・聖霊なる神の愛と主権の内を歩む者とされているでは ないか。教会はその三位一体なる神の永遠の交わりを世に現す群れではないか。あなたはその交わりの 内に生きる者とされているではないか。そのように主は、いま祝福をもって宣言していて下さるのです。