説     教     詩編1編1〜6節   ヨハネ福音書4章1〜15節

「永遠の生命に至る水」

 浜北教会にて 2014・06・29(説教14261543)  今朝ヨハネによる福音書4章1節から14節の御言葉を与えられました。私たちが人間として社会に生 きてゆく上で本当に難しいことは、偽りや偏りのない正しい視線で物事を見、そして判断することです。 たとえばマスコミの影響というものがあります。テレビや新聞や世間の噂話(風評)などに私たちは左右 されやすいのです。「世間でこう言っている」「あの人からこう聞いた」ということが、いつのまにか自分 の判断に摩り替り、自分の目できちんと物事を見、判断することが失われてゆくのです。このことは実は、 私たちの人間としての生きかたの根本を問う問題なのではないでしょうか。  ここに一人の女性が登場します。ユダヤ人にとっては蔑むべき異邦の地であるサマリアのスカルという 町のヤコブの井戸の傍らにおいて、主イエスの対話の相手となるこの女性は、次から次へと夫を替え、今 は6人目の男と同棲している様子です。当時のユダヤの法律では男女とも3回までは再婚が認められてい ました。しかしこの女性はその社会的な許容範囲をもはるかに超えて、結婚生活そのものに絶望していた、 そういう様子が今朝の御言葉から伺い知れるのです。  そこに見えてくるものは、凄まじいばかりの彼女の孤独です。傷つき飢え渇いた魂の叫びです。このス カルの女性は、自分に対して好奇と軽蔑の目を向ける世間の人たちに対して、いつしか心を堅く閉ざし、 語る言葉を失い、今は「夫」とさえ呼べないような男と一緒に身を潜めるように生きていたのです。この 女性の心の叫びに人々は全く耳を傾けようとせず、彼女はそれに対抗するように社会を呪い人々を疎んじ、 絶望感という(ある意味で)心地よい窪みに身を委ねていたのでした。  まさにこの女性に、主イエスが出会って下さいます。と申しますより、今朝のヨハネ伝4章4節を見ま すと「しかし、(イエスは)サマリアを通らねばならなかった」と記されています。普通ユダヤ人の旅人は、 敵対していたサマリアの地は避けて(回り道をして)旅をしたものです。しかし主イエスは敢えてサマリ アへの道を「通って」下さり、彼女に出会う道を選んで下さいました。主イエスは「わたしが来たのは、 義人を招くためではなく、罪人を招くためで」また「失われた者を尋ね出して救うためである」と言われ ました。まさに主は魂において「失われた」者(神の前に死んだ者)となっていたこの女性に出会うため に「サマリア」に、そして私たちのもとに来て下さるのです。  さて、このスカルという町は19節以下の対話の内容から見ますと、サマリアの人々がエルサレムに対 抗して建てた「ゲリジム山」の神殿に近い場所にありました。俗に「骨肉の争い」と申しますが、かつて は同胞であったユダヤとサマリアとの間には宗教的な対立と底知れぬ憎しみが支配していました。当時の 言葉に「サマリア人はユダヤ人に、水一杯恵んではならない」というものがあったほどです。ところがそ こに驚くべきことが起こるのです。6節には「正午ごろのことである」と記されています。旅の疲れを覚 えて、主イエスはこのスカルの町外れにある「ヤコブの井戸」の傍らで休息しておられた。弟子たちは食 料を求めて町に出かけてゆき、主イエスだけが井戸ばたに残っておられました。そこに水瓶を持ってあの 女性が水を汲みに来たのです。ふつう水汲みの仕事は早朝に行うものです。「正午ごろ」に水汲みに来ると いう行為自体がこの女性の孤独を現わしています。いずれにせよ、井戸ばたに座っているユダヤ人の男(主 イエス)を見て彼女は困惑しました。町の人々からは疎外され、同棲していた男とも心は通わず、それに 加えて、今日は憎き敵であるユダヤ人の男と井戸ばたで出会ってしまった。「今日はついていない日だ」と 思ったことでしょう。ここは無視して急いで水を汲み、早く帰ろうとしていた彼女に、なんと主イエスの ほうから突然、声をかけてきたのです。  「水を飲ませて下さい」。これが彼女を驚かせた主イエスの御声でした。「この人はどうかしているので はないか?」と彼女は思いました。自分が肉体的に社会の常識を破っている女なら、ここには霊的に社会 の常識を破っている男がいる。求めても与えられるはずのない(与えてはならない)水を、まるで幼子の ように素直にサマリヤの女の自分に求めて来るこの常識破りの男はいったい何者かと彼女は思ったのです。 だからこう訊きました「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼 むのですか」。冗談なら止めて欲しい。本気ならあなたはどうかしている。彼女の声は怒りをさえ含んでい たに違いありません。  ところが、主イエスはお答えになってこう言われたのです「もしあなたが、神の賜物を知っており、ま た、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、 その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。彼女の驚きは畏敬の念に変わりました。常識破りどこ ろではない。この人は本当に“ただならぬ人だ”と感じたのです。律法学者たちでさえ見抜けなかった主 イエスのお姿を、社会から葬られていたも同然なこの女性が見抜き始めた瞬間でした。主イエスの内に自 分を真に生かす「何か」があることに気づき始めるのです。どうか注意して下さい。イエスに対する彼女 の言葉づかいはいつの間にか神聖なかたをさす「主よ」という表現に変わっています。11節です「主よ、 あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのです か。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自 身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。このように訊ねる彼女は、もはや水汲みのこ とも忘れていました。それほど主イエスの御言葉が彼女の魂を強く揺り動かしたのです。彼女が孤独の中 で本当に求めていたもの、求め続けていたものが何であるかを、彼女は主イエスとの対話の中で気づきは じめるのです。彼女の中に隠されていた人間の真実の求め、神への飢え渇きが、少しずつ姿を見せはじめ るのです。  もっとも、彼女はまだ「生きた水」の意味を十分に理解できていません。その証拠に14節に「わたし が与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が わき出る」と主イエスが語られたとき、彼女は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来な くてもいいように、その水をください」と申しています。あなたはそんなに素晴らしい水の在処をご存じ なのですね。それなら人目を避けて昼ひなかに水汲みをせねばならない、そんな私の惨めさを救うために、 ぜひその水の在処を教えて下さいと願うのです。これは痛烈な皮肉であったかもしれません。「そんな水あ るはずないですよ」という否定的な思いを読み取ることもできるからです。彼女はなお物質的な「水」か ら離れていないのです。私たちはそうした彼女を笑うことはできません。むしろ私たちとこの女性とはこ の場面でこそ重なり合うのではないか。私たちはこの女性より主イエスについて多くの知識を持っている かもしれません。しかし主イエスについて知識を持つことと、主イエスを信じることとは違います。そも そも私たちは主イエスに何を求めているのでしょうか。私たちこそこの女性以上に、主イエスに向かって 自分の幸福のみを求め、自分の利益だけを期待し、自分の思いどおりにならなければ主を恨むだけなので はないか。あるいは、そのような状態よりもっと悪く、主イエスに対して何も期待しない、主イエスに率 直な願いを打ち明けない、いわば“無気力信仰”に陥っていることはないでしょうか。  主イエスは、この女性の愚かで的外れな求めさえ退けたまいません。それどころか、彼女のおよそ不器 用で無遠慮な願いを、そのあるがままに御手に受け止めて下さるのです。ちょうど幼子の親が、わが子の 口から出る拙い言葉を何よりも尊いものとして喜ぶように、主イエスは私たちの愚かな心から出る、とき に余りに自分勝手な願いをさえ、それを喜んで御手に受け止め励まして下さるのです。「駄目だ、あなたは 何も分かっていない」と退けるのではなく「そうだ、そうだ、よくそこまで分かったね。さあもう一歩前 に踏み出してごらん」と、私たちの心の奥行きを拡げるように、御言葉をもって真の神(真の救い)へと 導いて下さるのです。私たち自身も気づかずにいた人間の本当の求め、本当の願い(本当の祈り)に気づ かせて下さるのです。  主イエスは言われます。13節です「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を 飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。私 たちこそいま問われています。私たちはいまこの女性以上の熱心さをもって、この「生きた水」を主イエ スに求めているでしょうか。主がお与えになる水は私たちの中で「泉」となるのです。私たちの生活と人 生の全体がキリストの祝福と生命に満たされたものとなるのです。この「生きた水」に潤される生活を、 私たちはいま飢え渇くように求めているでしょうか?。このサマリアの女性は主イエスの言葉に促される ように、御言葉の深みへと入ってゆきます。信じない者ではなく「信じる者」に変えられてゆきます。彼 女は私たちに先んじて主イエスの恵みの中に踏みこんでゆきます。主イエスについての知識ではなく、主 イエスを「救い主」と信じ告白して主の教会に連なる喜びに進んでゆきます。誰に求めても、どこを捜し ても、決して得られなかった魂の平安が、罪からの救いが、主イエスにあることを信じ告白する者として、 主イエスに連なって歩む新しい生活がそこに始まるのです。  いまここに連なっている私たち一人びとりにも、そのような信仰の生活(教会生活)の喜びと幸いが、 今朝の御言葉を通して豊かに与えられています。あなたもまた、私が与える「生きた水」を受けるその人 だと、主イエスははっきりと告げていて下さるのです。スカルの女性の魂を根底から揺り動かし、福音に よる新しい生活へと導いた主の御声がいま私たちにも届いています。まさしく主はあなたに語りかけてお られる。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠 の命に至る水がわき出る」と!。永遠に死を超えてまでも、私たちを潤し続ける「生きた水」が、キリス トの恵みの真実が、主イエスの御手から主の教会を通して、私たち一人びとりに、そして全ての人々に差 し出されているのです。それを「受ける人になりなさい」と主は招いておられるのです。  思えば、キリストはまことの神、天地万物の創造主と等しいかたです。そのかたが、社会の片隅で飢え 渇き絶望していた一人の女性に「水を飲ませてください」と一杯の水を所望されたことに私たちは驚かざ るをえません。一杯の水に渇くことは人間の弱さの極みです。それならばその弱さの極みの中でこそ、主 はこの女性の飢え渇く魂に連帯して下さった。滅びへと向かう彼女の存在の重みを、そのまま御手に受け 止めて下さったのです。神と等しくあられるキリストが、そのいっさいの栄光を捨てて人となり、私たち を罪から救うために、恥辱にまみれた十字架への道を歩んで下さったのです。ご自分の生命を献げて、罪 によって神から離れ滅びの道を辿っていた私たちを、その根底から支え、限りない愛をもって私たちの罪 を贖い「失われていた」私たちを尋ね求め見出して下さったのです。「生きた水」とは、この十字架の主イ エス・キリストの救いの恵みにほかならないのです。  神を求めてやまぬ彼女の飢え渇きを、彼女自身も知らずに過ごしていた人間としての真実の求めを、満 たし潤して下さるために、まず主イエスご自身が彼女に向かって渇きを訴え、ご自身の「弱さ」を顧みる ことを求めて下さった。そのようにして彼女の堅く閉ざされた心を開いて下さり、そこに深く潜む渇きの 心を、嘆きの涙を、そのあるがままに御手に受け止めて下さり、ご自身の恵みの「生きた水」で充たして 下さったのです。今朝あわせてお読みした詩編1編の御言葉も、まさしくキリストに贖われキリストの教 会に結ばれた者の喜びと祝福の人生を告げています。詩編1編3節「その人は流れのほとりに植えられた 木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。  私たちはスカルの女性と共に、まさにこの“祝福の生命の流れ”である主イエスに連なる者とされてい るのです。主イエスから「生きた水」罪の贖いと新しい生命を賜わり、世の旅路へと、それぞれの人生の 持ち場へと遣わされてゆく。そこで主は「あなたのすることはすべて、繁栄をもたらす」と約束して下さ る。そこに私たちの思いを超えた幸いと平安があり、真の自由があることを覚え、感謝して、信仰の歩み を全うして参りたいと思います。祈りましょう。