説     教    詩篇126篇1〜6節   ヨハネ福音書4章35〜38節

「目を上げて畑を見よ」

2014・06・15(説教14241541)  今朝のヨハネ福音書4章35節以下の御言葉において、主イエス・キリストはこう仰せになっておられま す。「あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたし はあなたがたに言う。目をげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、 永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである」。ここで「あなたがたは…言っ ている」というのは、実は私たちが主に向かって訴える“言い訳”の言葉です。私たちは収穫の主に向かっ て不遜にも「刈入れ時が来るまでには、まだ四か月ある」と教えを垂れ、主に指図するようなことをするの です。「主よ、時は未だ熟していませんよ」と言うのです。「収穫の時」すなわち「伝道の時」は未だ来てい ませんと言うのです。それはちょうど私たちが、ピリポ・カイザリヤにおけるペテロのように、主イエスの 袖を引いて「主よ、あなたが十字架にかかるなど、絶対にありえないことです」と、主を戒めるのと同じで す。つまり、ここで私たちはキリストの「弟子」ではなく、キリストの「主」になろうとしているのです。  実はこれと同じことが、私たちの生活にもたくさんあるのではないでしょうか。私たちは理想とは離れた 現実の世界に生きています。そこには様々な厳しい出来事があり、自分の意に反する様々な経験や労苦を強 いられます。しかも、そこに私たちは何とかして自分の居場所を見出し、自分を生かそうと必死になって働 いています。「世の中を憂しとうましと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」と歌った万葉の歌人がいま した。万葉集の時代から今日に至るまで、人間にとってこの世は「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」という 不如意の連続です。少し以前「やりたい仕事」というフレーズが流行りました。「やりたい仕事が見つからな い」ということが主な転職の動機でした。いまではずいぶん状況が違います。「やりたい仕事」などどこにも なく「やりたくない」仕事ばかりを「せねばならない」時代です。しかし、それが人間が“生活をする”と いうことなのです。  そのような理想と現実のすれ違い(矛盾)の中で、いつしか私たちは無意識にもこう思っています。「主イ エスより、私のほうが世間を知っている」と!。誇張ではありません。実際にそう思うことが、私たちにあ るのではないか。「主よ、あなたはそのように言われますが、現実はそうはゆきませんよ」「現実はそんなに 甘くありませんよ」と、主イエスをたしなめるのです。カイザリヤのペテロのように。「聖書にはそう書いて あるけれども、現実はその通りにはなりませんよ」と“言い訳”をするのです。まあ直接口にするのは憚ら れますから、その“言い訳”は心の中に、キリストに対する(そして時に教会に対する)不満や批判として 蓄積してゆきます。口先では主を信じ、教会生活を重んじるふりをしながら、実際に「主」となっているの は、キリストではなく、実は自分の経験や判断や能力なのです。ようするに私たちは、現実のこの世界の中 で、キリストの「弟子」ではなく、キリストの「主」になろうとしている。「主イエスよ、現実はそう甘くは ありませんよ」と、主の袖を引いて諌めるようなことをしているのではないでしょうか。  しかし、本当にそうでしょうか?。本当に「主イエスより自分のほうが世間を知っている」のでしょうか。 私たちがもしそう仄かにも思うとすれば、それこそ御言葉に生きるキリスト者の生活ではなく、キリスト教 のワッペンを付けたパリサイ人の生活であります。私たちは知らねばなりません。むしろ私たちのほうこそ、 バーチャル・リアリティ(自分が作った仮想現実)に生きているのです。私たちは「世界のまことの主はキ リストではない」という仮想現実に生きていることがないでしょうか。そのようにして、実は私たちこそ、 この現実の世界に健やかに生きる道を見失い、自分をもまた他者をも、生かしえない者になっているのでは ないか。信仰生活と現実生活とを分離させて、キリスト抜きの「仮想現実」だけに生きようとするとき、私 たちはいとも簡単にエペソ書の言う「神もなく、それゆえに、希望もない者」になってしまうのです。平安 と目的を失った生活に陥ってしまうのです。  世界の真の主が「キリストではない」世界、それは究極的に勝利するものは「罪」と「死」でしかない世 界です。「死よ、汝こそわが主なり」と言わざるをえない世界です。そのような世界こそ、実は本当の意味で 最も虚しい「非現実的世界」そのものなのです。なぜなら、最終的に「罪」と「死」のみが支配するところ に、たとえどのように私たちの営みが築かれたとしても、そこには何の意味もないからです。それこそ仮想 現実にすぎないのです。神はそのような、希望なき世界をお造りになったのでしょうか。断じてそうではあ りません。主なる神はこの世界を、聖なる御心の成就する世界として、永遠のご計画をもって創造されまし た。まさにこの現実世界のあらゆる矛盾と破れのただ中に、主なる神は、御子イエス・キリストによって、 決定的な勝利と祝福を与えていて下さるのです。それはローマ書8章28節「神は、神を愛する者たち、す なわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたした ちは知っている」と告げられている事柄です。  それゆえ同じローマ書8章31節に、パウロはこのように語っています。「それでは、これらの事について、 なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御 子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万 物をも賜わらないことがあろうか」。また続いて8章38節以下にこうも語ります。「わたしは確信する。生 も死も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どん な被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない のである」。いまここに集うている私たちは、主なる神が御子イエス・キリストによって「罪」と「死」の支 配のもとから贖い取って下さった者たちなのです。ここに主の復活の身体である教会が建てられ、そこに私 たちが連なっている事実こそ、キリストの絶大な勝利の恵みの最も確かな“しるし”なのです。ニーバーと いうアメリカの神学者がこう申しています。「福音はあらゆる仮想現実からわれらを解放し、真の世界(リア リティ)へと向かわしめる唯一のパスポートである」。十字架の主イエス・キリストこそ、私たちの生活をま さしく真の現実(リアリティ)たらしめる恵みです。主に結ばれてこそ、私たちはあらゆる幻想を捨てて現 実へと勇気をもって立ち向かうことができます。キリスト者は「夢を見ている者」ではなく「夢から覚めた 者」です。「起きよ、夜は明けぬ」と告げたもう主の御声によって、虚しき栄華の影を追う生活の中から「主 キリスト・イエスにおける神の愛」に歩む新しい生活へと方向転換をさせて戴いた者たちなのです。  それならばなおのこと、いま私たちがその唯一の主権者なるキリストの御声を正しく聴く者になっている かどうか。主の示し給う道に歩む生活をしているか否か。それが幾度でも問われているはずです。「生や死」 「天使や支配者」「その他どんな被造物」にも遥かにまさる、キリストの贖いの恵みという永遠の現実に、堅 くまなざしを注いで立つ者とされている恵みです。まさしく今その恵みの現実において、主イエス・キリス トは弟子たちに(私たちに一人びとりに)親しく御声をかけて下さいます。「目をあげて畑を見なさい」と!。 あなたがたはいったいどこを見ているのかと主は問いたまいます。あなたがたは「刈入れまでには、まだ四 か月ある」と主張している。あなたがたはいつまで自分の知恵や力にのみ目を注いでいるのか?。そうでは なく、生ける神の言葉である福音にのみあなたの目を注ぎなさい。いまその目をあげて「畑を見なさい」と 主は仰せになるのです。命じたもうのです。  この「目を上げる」というギリシヤ語は「凝視する」という意味の強い言葉です。先入観と思いこみを捨 て、おのれの義をかなぐり捨てて、十字架のキリストを仰いで立つ者となり、そのことによって大胆率直に この現実の世界を見つめて立つことです。するとあなたにも見えるではないか。主は言われます。なんと、 神がお造りになったこの「畑」(世界)は「はや色づいて刈入れを待っている」。世界は、また全ての人々は、 罪からの赦しと贖いの福音を待ち続けているではないか。あのサマリヤのスカルの女性がそうであったよう に。彼女は自分も知らぬうちに心から「生命の水」を求めていたのです。しかもそれをどこにも見出せずに いたのです。主イエスとの出会いによって、そして主イエスの御言葉によって、彼女ははじめてキリストご 自身がその「生ける水」であることを知ります。彼女が主イエスを、人々の全ての渇きを癒し、世界を「罪」 の支配から贖い出すために世に来られたかた(キリスト)であると信じ告白したとき、彼女の魂は真の平安 に満たされ、主と共に歩む新しい人生がそこに始まっていったのです。  それゆえ今朝の36節を見ますと「刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈 る者も、共々に喜ぶためである」とあることは、主を信じて教会に連なる私たちに対する恵みの約束であり、 全世界に対する揺るぎなき祝福の言葉です。まさにこの世界は、そのような世界であると主は言われるので す。主は弟子たちに「収穫は多いが、働き人が少ない。だから収穫の主に願って、収穫のために、働き人を 送ってもらうようにしなさい」と言われました。それは「あなた(がた)自身がその働き人になりなさい」 という意味です。なぜなら、収穫は莫大なものですが、そのための働き人は本当に少ない。見渡すかぎりの 畑に信じられないほどの大豊作。ところが刈入れのための働き人はほんの僅かである。これほど由々しき事 態はありません。時は一刻を争うのです。  私はかつて農学校で学んだ経験があります。稲や麦の収穫時期の忙しさは忘れられません。と申しますの は、収穫の時期というのは本当に短いのです。僅か4〜5日の間に収穫を終えねばならない。それを逃しま すと稲も麦も質が落ちてしまいます。だから大急ぎで刈り入れをせねばなりません。そこで、収穫の時期を 決めるのは私たちではなく、主なる神です。収穫の時は神がお決めになることです。そして私たちは「いそ いそと」収穫に従わねばなりません。それこそ讃美歌の504番に「いざいざ刈らずや時すぎぬまに」とある とおりです。ここに示されている事柄も、そうした限りない収穫の喜びの光景なのです。豊かに実った広大 な畑の全体に、刈入れのために召された働き人たちの喜びの声が上がるのです。「いそいそと」勤しみ励む声 がこだまするのです。その報酬は、罪と死の支配から贖われ、キリストに結ばれた者たちの「永遠の命」の さいわいです。そのさいわいと祝福を全ての人々と共有する喜びです。イエス・キリストによる新しい復活 の生命です。そのさいわいと喜びに全ての人々があずかる「時」(収穫の時)が来たことを「まく者も刈る者 も、共々に喜ぶ」のです。今こそその“収穫の時”が来ているのです。だから「目をあげて畑を見なさい」 と主は命じたもうのです。その喜びにあなたも共に与る者とされているではないかと主は言われるのです。  私たちの住むこの国、日本の伝道は本当に難しいとよく言われます。そのとおりかもしれません。イギリ スのある本に、この地球上におそらくキリスト教伝道の最も困難な国が2つある。ひとつはサウジアラビア、 もうひとつは日本であると書いてありました。たしかに、わが国にキリスト教が宣べ伝えられていらい150 年。キリスト者の数は未だ人口の1パーセント未満という数字があります。遠藤周作は「沈黙」という小説 の中で、キリスト教にとっての日本の風土を湿地帯に譬えました。最初はキリスト教も根づくように見える。 しかし湿地帯ですから、やがて根腐れを起こして枯れてしまう。主イエスは「種まきの譬え」の中で4つの 土地について語られた。しかし主イエスでさえ知らなかったもうひとつの土地がある。日本はまさにその土 地、恐るべき湿地帯なのだと言うのです。  こういう議論は数限りなくありましょう。しかしその当否は別として、そういう議論を百万回繰り返して も意味がありません。なぜなら日本であろうとなかろうと、どのような国や地域であっても、そこに人間が 住んでいるかぎり、そこには「神の言葉を全身で拒む人間の罪の現実」があるからです。人間への伝道は常 に最大の困難をともなうのです。湿地帯どころではないのです。主イエスはまさにあのラザロの墓の前にお 立ちになって、そこで「ラザロよ、出で来たれ」と御声をかけられました。絶対に復活ということがありえ ない、死だけが支配する私たちの現実のただ中に、果てしないその虚無の中に、ご自身の生命を注ぎこんで 下さったのです。まさにその御業のために、主は私たちの身代わりとなって十字架に死んで下さったのです。 「罪」と「死」のみが支配する恐るべき荒地に、主はご自分の生命をお献げ下さったのです。  この十字の主の恵みに対してこそ、私たちの「まなざし」がいま、どこに、どなたのもとに注がれている のか、それだけが問われているのです。私たちはいつ如何なる時代、どのような境遇にあっても、御言葉(福 音)に大胆に生きる僕とされているのです。キリストに従う生活の幸いと喜びと祝福を、全ての人々に告げ 知らせる群れであり続ようではありませんか。主イエスはすでに、罪と死に対して決定的な、永遠の勝利を おさめておられるのです。主の十字架によって、決して実りを得ない土地、罪の荒野にすぎなかったこの世 界が、今や莫大な“収穫の時”を迎えているのです。全ての人が御言葉によって生命に甦る時を迎えている のです。いま「目をあげて」その救いの出来事を見なさいと主は仰せになるのです。私たちこそ、そのさい わいの事実の証人として召されているのです。主の働き人として、喜びの収穫のわざへと召されている者た ちなのです。 今日から始まる私たちの、それぞれの務めの中で、どうか私たちはこの収穫の仕え人として、 主に従って参りたいと思います。