説    教     創世記8章6〜11節   第一コリント書12章1〜3節

「聖霊によれるキリスト告白」

 聖霊降臨日主日 2014・06・08(説教14231540)  私たちは今日、聖霊降臨日主日の礼拝をささげています。「聖霊降臨日」ギリシヤ語では「ペンテコス テ」ですが、これは「第五十日目」という意味です。主イエス・キリストが復活されて五十日目の日曜 日に、弟子たちの上に聖霊が降り、そこに最初の教会が建てられたのです。教会の歴史の最も早い時期 (おそらく西暦50年頃)には聖霊降臨日がイースター、クリスマスと並んで「三大節」のひとつに定 められました。聖霊降臨日は聖霊による教会の誕生を記念する日です。いわばこの日は教会の誕生記念 礼拝なのです。  ですから私たちの信仰生活にとって、聖霊が非常に大切であることは申すまでもありません。聖霊な くして教会はなく、教会なくして私たちの信仰生活はないからです。つまり私たちの「救い」それ自体 が聖霊なる神の御業です。そこでこそ私たちが聴くべき大切な御言葉が、今朝の第一コリント書12章1 節以下に示されています。もういちど拝読しましょう。特に3節に注目したいと思います。「そこで、 あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、 また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」。  ここに明確に語られていることは、たとえいかなる人間も、聖霊の導きによらなければ「イエスは主 である」と告白することはできないという事実です。これは「救い」における神の恵みの確かさを示し ています。私たち人間は本来、自分の側で(自分の力で)神の救いを受けることができるのでしょうか?。 答えは「否」です。私たち人間にとって、神の子イエス・キリストを「救い主」と信じて教会に連なり、 神を礼拝する民になることは、決して人間わざではありえないのです。神ご自身の聖霊の導きによらず して、決して私たちの「救い」はありえないのです。それが「聖霊によらなければ、だれも『イエスは 主である』と告白することはできない」ということです。  そこでパウロは、同じ第一コリント書2章2節でこのようにも語りました。「なぜなら、わたしはイ エス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまい と、決心したからである」。これはパウロの伝道の生涯を貫いた姿勢です。パウロは当時の世界第一級の 知識人であり、哲学や知恵の言葉(すぐれた言葉や知恵)を縦横無尽に駆使することができた人です。 しかしパウロはそうした人間の「知恵の言葉」いっさいを捨てて、ただ一筋に「十字架につけられたま いしキリスト」のみを宣べ伝えることに「心を定めた」のです。なぜでしょうか。十字架につけられた まいしキリストのみが、私たちの唯一の「救い」だからです。十字架のキリスト以外の何者にも真の「救 い」はないからです。  そこで、まさにこの唯一の救い主であるキリストに私たちを堅く結ぶ「絆」が聖霊です。神は聖霊に よって私たちをキリスト告白へと導き、聖なる公同の教会をここに建てたもうたのです。ここで大切な ことがあります。それは聖霊はご自分を隠したもうかたである。聖霊は歴史の中に教会を建てましたが、 その教会は十字架の主なるイエス・キリストの教会です。「聖霊の教会」とは呼ばれません。私たちの教 会の塔には高々と十字架が掲げられています。聖霊のシンボル(鳩など)が掲げられているのではない のです。これは大切なことです。聖霊は父なる神と御子なるキリストから出て、私たちを父なる神と御 子なるキリストへと導くかたです。だから宗教改革者カルヴァンはいみじくも「聖霊はわれらをキリス トに結ぶ絆である」と申しました。私たちは「聖霊」という絆によってキリストに堅く結ばれているの です。これを言い換えるなら、聖霊はキリストへと私たちを導くことにおいて神の栄光を現したもうの です。まさにその意味において、聖霊こそ教会の創設者なのです。聖霊は自分が中心になることなく、 ただキリストのみを中心とすることにおいて「造り主なる御霊」と呼ばれるのです。  このことをより明確に示すのが、併せてお読みした創世記8章6節以下、ノアの洪水物語の一場面で す。四十日四十夜降り続いた雨がようやく止み、やっと晴間が出てきたその瞬間を創世記8章は描いて います。それは万物が新たにされる再創造(リクリエイション)の時でした。ノアは箱舟の窓から、ど こかに乾いた土地がないかを探らせるために最初はカラスを放ちます。しかしどこにも乾いた土地はな かったため、すぐにカラスは帰ってきます。しばらくしてノアは今度は鳩を放ちます。10節から11節 の御言葉です「それから七日待って、再びはとを箱舟から放った。はとは夕方になって彼のもとに帰っ てきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った」。  これはいっけん何気ない言葉のようですが、これこそ聖霊の御業を現しているのです。ノアは鳩がく わえてきたオリーブの若葉を見て、主なる神が世界に「救い」をお与えになったことを知るのです。オ リーブの若葉自体は小さな「しるし」にすぎません。しかしそれは神の「救い」の御業を全世界に知ら しめる確かな御言葉でした。だからこの場面の全ての決め手はオリーブの若葉にあるのです。鳩はそれ を運んできただけです。しかし鳩がいなければオリーブの若葉は運ばれえなかった。この両者の関係が、 ちょうどキリストと聖霊、または十字架と聖霊の関係をあらわすのです。いみじくも聖霊は鳩に象徴さ れますが、もし聖霊という鳩がなければ、十字架による救いというオリーブの若葉は決して私たちのも とにはもたらされなかったのです。その意味で「聖霊」は私たちの救いの“決め手”となるのです。「造 り主なる御霊」とは信仰の与え主ということです。本当の中心は十字架のキリストにあるのです。聖霊 は主イエス・キリストという、神の「救い」の御業そのものを私たちにもたらします。その意味ではあ くまでもイエス・キリストが中心です。しかし聖霊なくして私たちのもとに「救い」が現されることは ありえなかった。その意味で聖霊は私たちの救いに決定的な「造り主なる御霊」なのです。  そこで、最後にもうひとつ大切な御言葉を聴きましょう。それはヨハネ福音書14章26節です。そこ で主イエスはこのように教えておられます。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつか わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思 い起こさせるであろう」。これも先ほどのノアの洪水物語で示されたのと同じ真理へと私たちを導きます。 聖霊が父なる神のみもとから遣わされることによって、はじめて私たちは主イエスが語られた全ての御 言葉を「思い起こす」ことができるのです。この「思い起こす」とは単に“思い出す”ということでは なく、いま私たちに起こっている救いの出来事として、信じ告白するようになるという意味です。御言 葉が現実のものになるという意味です。御言葉を本当に聴く者になるという意味です。御言葉を聴いて、 御言葉によって生きる者になるということです。  だから主は同じヨハネ伝の15章26節でこのように言われました。「わたしが父のみもとからあなた がたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわた しについてあかしをするであろう」。ここで主イエスは聖霊のことを「真理の御霊」と呼んでおられます。 それは、神の永遠の真理としての救いの御業を私たちに現して下さるかたという意味です。その「真理 の御霊」はキリストについて「あかしをする」ものなのです。「あかしをする」とは「明らかにする」と いう意味です。私たちは自分の知恵や力では、決してキリストを知ることはできないのです。キリスト を信ずる者にはなれないのです。それはただ「真理の御霊」なる聖霊の導きによるのです。それこそ今 朝の第一コリント12章3節「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができな い」ということです。  よく「聖霊はわかりづらい」という人がいます。そういう人はどうか安心して下さい。聖霊は決して 自分について証しをしないのですから「わかりづらい」のは当然なのです。聖霊のお働きの目的はあく まで“キリストを証する”(キリスト告白へと私たちを導く)ことにあるのです。「聖霊」はキリストを 証する「真理の御霊」として、父なる神と御子イエスから私たちのもとに遣わされる「神の霊」です。 その聖霊がキリストの弟子たち、しかも恐れと絶望と不安に閉ざされていた弟子たちの上に降り、そこ に最初のキリストの教会が誕生した日、それが「聖霊降臨日」(ペンテコステ)です。そこに弟子たちは 言葉と祈りと力とに満たされ、全世界へと伝道のわざに遣わされてゆきました。私たちはいまここに、 その日のまことに大いなる恵みを心に刻み、その恵みに新しくあずかる僕として、私たちに与えられて いる聖霊の導きに感謝し、心を高く上げ、ただ十字架の主を仰ぐ者として生き続けて参りたいと思いま す。