説    教    詩篇78篇21〜25節   ヨハネ福音書4章31〜34節

「主イエスの食物」

2014・06・01(説教14221538)  今朝の御言葉・ヨハネ伝4章31節以下には、私たちを本当に生かす“霊の糧”とは何であるかがは っきりと示されています。場所は再び、サマリヤのスカルの町外れにあるヤコブの井戸のかたわらです。 弟子たちがスカルの町に食物を買いに行っているあいだ、そこで一人の女性と主イエスとの「活ける水」 をめぐる対話が繰りひろげられました。その事情を知らずに戻って来た弟子たちが、さっそく主イエス に“肉の食物”を差し出し「先生、召し上がってください」と申しますと、主イエスはそれに答えて「わ たしには、あなたがたの知らない食物がある」とおっしゃったのです。このときの弟子たちの対応は、 実にキリストの弟子たるに不甲斐なきものでした。彼らは主イエスのお答えから、大切な福音の真実を 汲み取るべきでしたのに、かえって互いに議論をはじめ「だれかが、何か食べるものを持ってきてさし あげたのだろうか」と言う始末でした。このとき弟子たちの言う「だれか」とはおそらく、水瓶を置い たまま急いで町に去って行ったスカルの女性のことだったでしょう。「あの女性が自分たちの留守中に、 先生に何か食物を持って来たのだろうか」と思ったのです。  ようするにこの時の弟子たちには、肉体を養う“肉の食物”のことしか眼中になかったのです。もち ろん“肉の食物”も大切です。私たちの生活に無くてはならぬものです。特に弟子たちにしてみれば、 ユダヤ人にとっては異邦の地であるサマリヤで食物を調達するには思わぬ苦労があったかもしれない。 主イエスから労(ねぎら)いの言葉を期待していたのです。それなのに主イエスは「わたしには、あな たがたの知らない食物がある」と言われる。だから弟子たちの戸惑いは当然でした。主が言われること の意味がわからなかったのです。そこで主イエスは弟子たちに、その御言葉の意味を明確に説き明かし て下さいました。それが今朝の34節です。「イエスは彼らに言われた、『わたしの食物というのは、わ たしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである』」。  さて「わたしをつかわされたかた」とは、主イエスの父なる神のことです。主イエスは神の永遠の独 子、御父と本質を同じくしたもうかたです。それゆえ主イエスがこの世界に来られた出来事は、永遠な る神の歴史への介入という恵み(救い)の出来事です。聖にして無限なる神が、罪人にして有限なる私 たちと、徹底的に連帯して下さった出来事です。それは私たちを罪から贖い、霊の生命(復活の生命) を与え、神の国の民として下さるためです。私たち人間は全て一人の例外なく神の前に罪ある者です。 「罪」とは単に道徳的な悪や道義に反することや法律に違反することだけではありません。もしそれだ けの意味なら「自分に罪はない」と言える人もいるでしょう。しかし聖書は「義人はいない、一人もい ない」と告げています。その意味は「犯罪者がいない」ということではなく「神に義とされる人はいな い」という意味です。たとえ人の前には正しくありえても、神の前に正しくありうる人は一人もいない のです。  17世紀フランスの思想家ブレーズ・パスカルは、人間の罪の問題を深く考えた人です。パスカルによ れば「罪」ほど人間にとってわかりにくい事柄はない。しかしもし人間に罪なしとすれば、人間はいっ そう不可解であると申しています。わが国の優れた哲学者・森有正もまた、国際社会において21世紀 の人類が最も真剣に取り組むべき問題は「罪の問題である」と語りました。しかもその最も大切な問題 が、最も軽んじられているのです。それは「罪」ほど私たちに「わかりにくい」ものはないからです。 しかし、まさしく人間に「罪」があるからこそ、今日の世界はかくも深く病み、争いや対立が絶えない のではないでしょうか。新聞紙面に人間の“罪の結果”が報告されない日は一日もありません。新聞も テレビもインターネットもある意味で「人間の罪の回覧板」です。主イエスがエルサレムに入場された 日「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声で主を迎えた群衆が、わずか数日後に主イエスを呪い「十字架にかけ よ」と絶叫したのです。それと全く同じ罪の姿が私たちにもあるのです。西行法師の歌に「たそがれに 往き来の人の影絶へて道はかどらぬ越の長浜」という歌があります。千年一日のごとく遅々として進歩 せず、孤独のうちに黄昏へと歩んでゆく人類の姿、そこに「罪」の現実があるのではないでしょうか。 そこには「たそがれに往き来の人の影絶えて」という孤独しかありません。それこそ21世紀人類の最 も深刻な問題なのです。  私たちの「罪」とはひと言で申しますなら、それは私たち人間が神の外に出たまま、しかも神の外に いることを自覚しないで、平然と生活している事実です。私たちはロケットで地球の表面からほんの僅 か宇宙に出ただけで「宇宙飛行士が宇宙に行った」と申します。しかし宇宙の創造主なる神に叛き、人 類が神から遠く離れている「罪」に対しては驚くほど鈍感であり無感覚なのではないでしょうか。まさ にそこにおいて、私たちは聖書の御言葉を聴く者とされています。「罪」に対してかくも鈍感な私たちを 贖い救うために、神の御子イエス・キリストは人となられて十字架への道を歩まれ、私たち全ての者の ために生命を献げて下さったのです。キリストの十字架とは、神の外に出てしまった私たちを救うため に、神ご自身が神の外に出て下さった出来事です。私たちを神のもとに立ち帰らせるために、神ご自身 が神でないものになって下さった出来事です。永遠にして無限なるかたが、罪人にして有限なる私たち に連帯して下さった出来事です。イエス・キリストにおいて永遠が歴史の中に突入したのです。私たち の罪のどん底にまで主はお降りになり、私たち自身さえ窺い知れない私たちの罪を、十字架の死によっ て打ち滅ぼして下さったのです。  それならば、まさにこの主イエスの徹底的な贖いの恵み、十字架の出来事、私たちに対する極みなき 愛を、すなわち十字架の出来事そのものを、主はここに「わたしの食物」と呼んで下さったのです。ご 自分の十字架への歩み、ご自分が父なる神から賜わったキリスト(救い主)としての歩みの全てを、今 朝の御言葉において「わたしの食物」と呼んで下さったのです。「わたしの食物というのは、わたしをつ かわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」。私たちの救いのための徹底的 な自己犠牲を「わたしの食物」と呼んで下さるのです。私たちは、自分を憎む者や呪う者のために、自 分の大切なものを献げることはできません。ましてや自分の生命を献げるとことなど決してないでしょ う。しかし主イエスは、私たちに対する限りなき愛のゆえに、罪人の塊のような頑なな私たちの救いの ため、ご自分の全てを十字架に献げ尽くして下さったのです。永遠なる神が、呪われた罪人の死を、私 たちに代わって死んで下さったのです。その贖いの御業によって、私たちを罪の死の淵から立ち上がら せ、復活の限りない生命をもって覆い包んで下さった。義とはされえない私たちに、ご自分の永遠の義 を与えて下さった。それが、聖書が全ての人に語っているイエス・キリストの恵みなのです。それを、 主は「わたしの食物」と呼んで下さるのです。  それならば、私たちがキリストの御身体なる教会に連なることにより、日々与らしめられている「霊 の糧」(生命の糧)もまた、十字架の主イエス・キリストご自身にほかなりません。だから教会は「コイ ノニア」(ともに唯一の主キリストに与る者たちの群れ)と呼ばれ、また「エクレシア」(そのキリスト の恵みによって招き集められた群れ)と呼ばれるのです。そして英語で教会をあらわす「チャーチ」は もともとケルト語で「主の家」という意味です。私たちは今朝これから聖餐に与りますが、その聖餐こ そまさしく「ともに唯一のキリストに与る」恵みであり「そのキリストの恵みによって招き集められた 群れ」を形作るわざであり「主の家」の永遠の喜びに歴史の中であずかることです。私たちの教会はこ の確かな救いと祝福を全ての人々に宣べ伝える群れです。全ての人々にキリストによる救いのみを宣べ 伝える群れなのです。  だからこそ私たちは、今朝の御言葉をさらに深く心に留めざるをえません。喜びと感謝を献げずにお れません。主はいま弟子たちに、私たち一人びとりに語っていて下さるのです。「わたしには、あなたが たの知らない食物がある」と!。主はこの食物は「あなたがたの知らない」ものだと言われました。こ の「知らない」とは言い換えれば「キリストのみが知っておられる」ということです。さらに言うなら 「私たちは知らなくても良い」ということです。主が知っていて下さるという恵みにおいて、もう私た ちは自由な者とされているのです。ただ主イエスの御手に自分を委ねれば良いのです。主が私たちに「霊 の糧」を豊かに与えて下さいます。私たちは、私たちを本当に罪から救い、人間として健やかに生かし める真の糧を、イエス・キリストをほかにして、世界のどこにも見出すことはできないのです。  これは、逆に言うならこういうことです。私たちは人間としては、本当に弱く、脆く、欠けの多い「土 の器」に過ぎません。しかしその私たちが、主イエスの御手に自分を委ね、キリストを信じ「イエスは 主なり」と告白して教会に連なって生きるとき、私たちは無条件に、何の値もなきままに、この唯一の 「霊の糧」に与る者とされるのです。私たちの資格、条件、能力、業績は、なに一つとして主の前に問 われることはないのです。ただキリストを信ずる信仰のみが問われています。私たちのために生命を献 げて下さった十字架のキリストを、全世界の主にある民と共に、また、天にある贖われ全うされた聖徒 の群れと共に、わが救い主・わが贖い主として告白する信仰です。この信仰においてひとつに結ばれ、 堅固な「主の家」となり、神の賜わるキリストの糧に豊かに与ってゆく。そのような群れに、私たちは されているのです。