説    教   出エジプト記14章10〜14節  第一コリント書10章13節

「 堅く立ちて救いを視よ 」

2014・05・25(説教14211538)  私たち人間の最大の危機(苦難)の「とき」はすなわち最大の救済(救い)の「時」でもある。それ こそ聖書が告げている確かな歴史理解です。私たちは言葉にならぬほど辛く苦しい「時」を経験するこ とがあります。筆舌に尽くしがたい苦難が人生に降りかかることがあります。健康であった人が突然の 病気に倒れることがある。家族に重い問題が降りかかることがある。順調であった仕事が挫折すること もある。信頼していた人に裏切られることもある。愛する者の死に遭遇することもあります。とりわけ この五月は私たちの身辺が慌しく動く時です。  今朝お読みした出エジプト記14章の御言葉は、聖書の時代を生きたイスラエルの人々もまた、私た ちと同じような“筆舌に尽くしがたい辛さ”を経験したことを伝えています。「出エジプト」という旧約 聖書最大の救いの出来事を前にした人間の、圧倒的な不安の様子がここには描かれています。10節を読 むとよくわかりますが、エジプトの王ファラオ(パロ)が大軍を引き連れ、荒野に逃げるイスラエルの 民を追撃してくるのです。追いつかれれば皆殺しとなるのです。えり抜きの戦車六百台を従え、重武装 に身を固めたエジプト正規軍にとって、子供や老人を含めたイスラエルの民を皆殺しにすることなどい ともたやすいことでした。  ですから10節に「イスラエルの人々は…非常に恐れた」とあるのは当然なのです。彼らが「主に向 かって叫んだ」のも当然でした。この「叫んだ」とは、絶体絶命の民の喉の奥から搾り出すような呻き のような「祈り」の声が、泣き悲しむ声と入り交じって百雷の響きのように大地を揺るがしたという意 味です。それは凄まじい光景です。地鳴りのような呻き声で人々は祈ったのです。そして11節以下に はイスラエルの民の、指導者モーセに対する怨みの声が記されています。「エジプトに墓がないので、荒 野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、 こんなにするのですか」。これは神に対する怨嗟の叫びです。私たちも人生の不条理を経験するとき、そ うした「怨嗟の叫び」を心に抱くのではないでしょうか。地鳴りのような「呻き」を持つのではないで しょうか。かつて救世軍の山室軍平が説教の中で「キリストの馬鹿たれ」と語ったとき、関西出身のあ る女性が(苦労している女性であったそうです)聞き違えて「キリストのばかたれ!」と祈ることだと 理解した。そのことで彼女を笑った人に山室軍平は「いやそれを笑ってはならない。そういう祈り(キ リストのばかたれ!という祈り)こそ、彼女が本当の祈りに進みつつある証拠である」と語ったそうで す。私たちは「キリストのばかたれ!」と祈るほどキリストに迫ったことがあるでしょうか。  出エジプト記12章38節によれば、エジプトを脱出したイスラエルの民は「多くの入り混じった群集」 にすぎなかったと記されています。最近の新しい研究によれば、民数記11章4節の「多くの寄り集ま りびと」という言葉と合わせて、出エジプトを敢行したイスラエルの民は民族的に単一民族などではな かった。むしろ文字どおり雑多な民族の寄せ集まりであったと考えられています。それならそういう“寄 り合い所帯”にすぎなかったイスラエルの民は、出エジプトという地鳴りのような「叫び」(祈り)を献 げる経験を通して、はじめて主なる神のもとにひとつとされたのです。雑多な民がイスラエル(神の民 =神と争う民)となった瞬間が今日の御言葉に描かれているのです。  さて、そこで今朝の14章19節以下を見ますと、事態は急転しまして、最大の危機にあった民が大き な救いを経験してゆくさまを(神の御業を)私たちは見るのです。いったい何が起ったのでしょうか。 それは2つのことでした。まず第一に、同じ出エジプト記の12章40〜42節、特に42節の後半のとこ ろに「これは(出エジプトの出来事は)彼らをエジプトの国から導き出すために主が寝ずの番をされた 夜であった」とあることです。言い換えるなら「主なる神の徹夜」がそこにあったということです。  いささか私ごとですが、私は神学校時代の6年間、いま思い返しても「よくあれだけ無謀な生活がで きた」と思うほど猛勉強の日々を過ごしました。徹夜でレポートの準備をすることなど日常でした。よ く友人たちに「君はいつ寝ているのか?」と問われたものです。睡眠時間はせいぜい3〜4時間でした。 今は真似さえできません。その頃によく思わされました。まさに今朝の出エジプトにおける「主なる神 の徹夜」の物凄い恵みについてです。もちろん主なる神は永遠なる全能者ですから、私たちのように疲 れたから睡眠を取るなどということはありません。では「神の徹夜」とは何を意味するかというと、取 るに足らぬ雑多な烏合の衆にすぎないイスラエルの民を、それほどまでに愛し貫いて下さったという圧 倒的な恵みの事実をあらわしているのです。  来月の9日(月)10日(火)に岡山で全国連合長老会の会議がありまして、それが終わったあとで私は岡 山から電車で高松の教会にいる友人(病気療養中)に会いにゆく予定にしています。昔は高松と言えば 船でしか行けませんでしたが、いまでは瀬戸内海に橋が架かっていまして、岡山から1時間で高松まで 行けるそうです(東京からもサンライズ瀬戸というブルートレインが直行しているそうです)。その友人 に3人の子供がいるのですが、いちばん上の娘さんがあまり丈夫でなかった(現在は丈夫で社会人とし て活躍しています)。よく喘息の発作を起こして、友人もその妻も文字どおり「寝ずの番」で寄り添った ことでした。この友人があるとき私にこう語ったことがある。「子供にとって親は頼もしい存在に見える だろうけれど、実は親ほど無力で情けないものはない。わが子のかたわらで、ときどき睡魔に負けて意 識が飛ぶことがある。そのたびに人間の弱さを痛いほど感じた」というのです。意識が飛んだ瞬間があ るということは、親でさえもわが子のために完全な「寝ずの番」ができないということです。そういう 人間の(親の)弱さを知るとき、その友人は私に申しました「寝ずの番をされたイスラエルの主なる神 の恵みはすごいものだ」と。  そういうことを考えますと私たちは、イスラエルの「雑多な民」が絶体絶命の砂漠の危機の中で「主 なる神の徹夜」を自らの救いとして告白したということ、そのような神のお姿を「われらの救い」とし て“信じた”ということが、どんなに大変な恵みであり、確かな救いであるか、わかるのではないでし ょうか。実に聖書が私たちに語る真の神(イエス・キリストの父なる神)は「徹夜したもう神」なので す。新約聖書においても主イエスが“徹夜して祈られた”という場面が2度記されています。一度目は 十二弟子をお選びになる前の晩のことです。主はひとり山に入られて夜を徹して祈りたまい、その祈り によって十二名を弟子としてお選びになったのです。すなわちルカ伝6章12節以下にこうあります。「こ のころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、 その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」。第二の場面は、あの有名なゲツ セマネの祈りです。十字架のご苦難を目前にせられて、主は全世界の救いのために「ゲツセマネの祈り」 において血の汗を流しつつ、ご自身の全てを御父にお委ねになり、全世界の罪の贖いのためにご自身を お献げになりました。弟子たちは疲れて眠っていましたが、主は最後まで「世にあるすべての者を愛さ れ、彼らを最後まで愛し通された」のであります。  聖書の神はまことに「徹夜したもう神」です。詩篇121篇3節にもこうあります。「主はあなたの足 の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者は まどろむこともなく、眠ることもない」。私たちはそこに、イスラエルをエジプト人から救われた歴史の主 なる神の御業と同時に、十二弟子を選びたもうた主イエスのお姿、そして、ゲツセマネにおいて全てを献げぬ いて下さった主イエスのお姿を見るのです。  そこで、今朝の御言葉が私たちに宣べ伝えている神の御業の第二の側面は、今朝の御言葉の13節後半から 14節にかけて示されていることです。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなた がたのためになされる救いを見なさい」。そして14節に「主があなたがたのために戦われるから、あなたが たは黙していなさい」。このことは言い換えるなら、人生の最大の危機に立たされた私たちの完全な救いのた めに、まず主なる神ご自身が「わたしたちのために」戦って下さるという事実です。そこで私たちに命じられ ていることは「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」ということです。この 「黙していなさい」とは「傍観していろ」という意味ではなく「主なる神を信頼しなさい」ということです。 神に信頼していないとき私たちは口数が多く喧しくなるのです。人の言葉のみが空回りするのです。目標のな い戦いを勝手に始めるのです。そうではなく、主があなたがたのために戦われるゆえに「あなたがたは黙して いなさい」と聖書は私たちに告げるのです。  主が私たちのために「戦われる」とは、それこそ、神が独子なるイエス・キリストを世にお与えになったこ とです。そして御子イエス・キリストが、私たち全ての者のために十字架におかかりになり、罪と死に永遠に 勝利され、この全世界を、神の愛と祝福の支配のもとに回復して下さったことです。それこそ私たちはパウロ の言う「勝ち得て余りある」キリストの勝利を賜わっている者たちなのです。このことを忘れるとき、十字架 の主を信ずる信仰告白から離れるとき、私たちはすぐに「黙することのできない」やかましい存在になってし まいます。現代社会を支配している言葉(価値観)の殆どが、実はこうした空しい喧しいおしゃべりに過ぎな いのではないでしょうか。  このことは同時に、実は私たちが歴史というもの(時というもの)をどう捉えるかという、人生そのものに 関わる大きな問題に繋がるのです。日本語の「とき」という言葉は「氷が溶ける」というような場合の「溶け る」から来ているそうです。つまり日本人にとって「とき」とは氷が溶けるような自然現象(自然)の一部に すぎません。だから「時に委ねる」とは「自然に解決するのを待つ」という考えになります。それが運命論的 な人間理解に繋がってゆきます。何事も「仕方がない」という価値観です。しかし聖書が私たちに告げる「と き」とはそういうものではありません。それは「徹夜したもう神」あるいは「私たちのために戦われる神」と いうように、神が切り開いてゆかれる「時」なのです。神は自然の一部分ではなく天地万有の創造主であられ ます。まことの神は歴史の主であられ「とき」を支配しておられる恵みの神です。私たちのために救いの御業 をなされ、私たちのために新しい「とき」を切り開いて下さるかたなのです。たとえ私たちがどんなに絶望的 な状況に立とうとも、また人生がどんなに不条理に囲まれましょうとも、神は私たちのためにいま活きて働き たまい、その歴史(人生)の全体を通して私たちを救いへと導いておられるのです。  自転車競技(ロードレーサー)は最も過酷なスポーツと言われます。しかしツール・ド・フランスなどを視 ましても、日本人の選手はなかなか強くなれない。ヨーロッパの選手とどこが違うのかと言えば、それはキリ ストの父なる神を信じているか否かにあるのだと思います。一言で申しますなら、キリストを信じている選手 は絶対に途中で諦めない。「主が戦っていて下さる」ことを知るからです。「主は決してまどろみたまわない」 ことを知るからです。だから全力を注ぎます。それが結果として日本の選手との大きな差になるのです。神が 徹夜をしてまで私たちと共におられ、私たちのために救いの御業をなしておられる「時」を生きる。私たちの ために神が戦って下さり、絶大な勝利へと導いて下さる、そのようなものとして歴史と人生を見据えるのです。 私たちの「時」は私たちの思いや計画を遥かに超えて、神が切り拓いて下さるのです。私たちはどんなに苦し くても、どんなに辛くても、なおそこで私たちを根底から支え導いておられる主の御手を見いだすのです。私 たちの死すべき存在を、十字架において贖って下さった御子イエス・キリストを見上げるのです。  だから死さえも、私たちの終わりではないのです。主イエスがすでに復活の生命をもって、私たちを覆って いて下さる。新たにしていて下さる。教会によって全ての人々を、その祝福の生命(永遠の生命)へと招いて おられる。その生命に結ばれて生きる私たちは、もはや肉体の死によってもキリストから離れることはありえ ないのです。キリストみずから私たちのために、十字架の死を通して「戦って下さった」恵みに信頼して、私 たちは「黙している」(堅く立つ)ことができるのです。自分の人生の全体を、そしてこの世界の全体を、神 の祝福として、賜物として戴いている私たちなのです。