説     教    イザヤ書55章1〜5節  ヨハネ福音書4章27〜30節

「アトネメント」

2014・05・18(説教14201537)  今朝の御言葉28節を改めて読みましょう。「この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に 言った、『わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかし たら、この人がキリストかもしれません』」。文語訳ではこうなっています。「ここに女その水瓶を遺しおき、 町にきて人々にいふ、『来りて見よ、わが為しし事をことごとく我に告げし人を』」。  主イエス・キリストとの出会いにより、罪と死の支配から贖われ「霊とまこと」による真の礼拝者とさ れたサマリヤのスカルの女性は、驚くべき新しさへと導かれてゆきます。「霊とまこと」による「真の礼拝 者」とされたことは、神の「霊」である聖霊の導きのもと、キリストの救いの「真実」(十字架の出来事) に生かされ喜びです。今までは罪の力が彼女を支配していた。しかしこれからは違うのです。十字架のキ リストの救いの真実が、彼女の全存在を御国に至るまで支え続けて下さるのです。この、自分に与えられ た救いの真実を知り、新しい生命に甦らされた者として、彼女はみずからも予想だにしなかった新しい歩 みに促されて行きます。それは、スカルの町の人々にキリストを宣べ伝えることでした。そのために彼女 は「水がめ」を井戸ばたに置いたまま、急いで町へと戻ってゆくのです。  当時のイスラエルの人々にとって、水汲みに用いる水瓶は文字どおりの貴重な財産でした。私はイスラ エルで古代の水瓶を観たことがあります。土器のようなものを想像していたのですが、実際に観たそれは 有田焼のような立派な瀬戸物でした。まして二千年も前のこと、水瓶は大切に扱われる財産だったのです。 ですから彼女が「水がめ」を井戸ばたに遺したまま町に戻って行ったことは、常識では考えられないこと です。時を同じくして、彼女が水瓶を置いたまま急いで町に去ってゆく後姿を見ながら、主イエスの弟子 たちがスカルの町から主イエスのもとに戻ってきました。同じ4章の8節を見ますと「弟子たちは食物を 買いに町に行っていた」と記されています。食料を調達してヤコブの井戸に戻ってきた弟子たちは、そこ でサマリヤ人の女が主イエスと会話をしているのを見て不思議に思いました。今朝の27節を見ますと「そ のとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しか し、『何を求めておられますか』とも、『何を彼女と話しておられるのですか』とも、尋ねる者はひとりも なかった」と記されています。  これは何を意味するのでしょうか。まず「何を求めておられますか」という言葉は、スカルの女性に向 かって弟子たちが語るべき言葉です。だから弟子たちの誰もそのように語らなかったというのは、彼女に 対する弟子たちの「無関心」を現わしているのです。弟子たちにとって異邦のサマリヤ人であったこの女 性は“無視すべき”存在にすぎませんでした。すでに主イエスと寝食を共にしていた弟子たちでさえ、ま だ“神の救いはユダヤ人だけのもの”という選民思想から抜けきってはいなかったのです。だから「何を 彼女と話しておられるのですか」と主に訊ねる者さえいなかったのです。かつてインドの聖女と呼ばれた マザー・テレサが日本で講演をしたとき「愛の対極にあるものは憎しみではなく無関心である」と語って いたのを思い起こします。このときの主イエスの弟子たちは、まさにその「無関心」の虜になっていまし た。彼らはスカルの女性の存在を徹底的に無視するのです。この時の沈黙は彼女の言葉を聴くための沈黙 ではなく、彼女の飢え渇きに心を閉ざす沈黙です。弟子たちは彼女からわざと顔をそむけ、その存在を“無 かったこと”にしたのです。あの「善きサマリヤ人の譬」の祭司とレビ人のように、傷つき救いを求めて いる人を見ながら、それを“無かったこと”にして去って行くのです。そこには弟子たちの、否、私たち の罪の姿が現われているのではないでしょうか。  弟子たちは主イエスから霊の賜物を戴いていながら、肉体の食物を買うために主イエスから離れてスカ ルの町に行き、主イエスのもとに肉体の食物を持って帰って来ました。かたやこの女性は、肉体の欲を満 たすためだけの生活の中から、井戸の傍らで主イエスに出会い、主イエスから霊の食物を戴き、生まれ変 わった者として、キリストの祝福をたずさえてスカルの町へと戻ってゆくのです。弟子たちは彼女の姿を 無視しました。しかし彼女は、自分にとって大切な財産である水瓶をそこに置いたまま、キリストに出会 った喜びを伝えるために、自分を嘲り続けたスカルの人々のもとに走って行くのです。弟子たちは彼女に も主イエスにも何も訊ねませんでした。しかしこの女性は、主イエスに対して「生命の水」の在り処を必 死になって訊ねる者として、罪の極みの中から主イエスの御顔に向き合ったのです。弟子たちは大勢いて も誰一人としてスカルの人々に福音を宣べ伝えませんでした。しかしこの女性はたった一人で、しかも彼 女を嘲り軽蔑する人々にキリストを宣べ伝えるために、町の中に走って行ったのです。  地位も学問も名誉も財産も、この世が尊ぶものは何ひとつ持っていない、この名もなき女性が、キリス トの弟子たちに先んじて主の御業の証し人とされました。ここに私たちを救う神の御業、私たちの罪を贖 うキリストの救いの真実(霊とまこと)が現れているのです。讃美歌85番に「主のまことは、荒磯の岩、 さかまく波にも、などか動かん」と歌われています。私たちはたとえどのような罪の怒涛がさかまく中に あっても、十字架のキリストという揺るがぬ岩(福音の真実)の上に立つ者とされている。そこに私たち の「救い」があるのです。私たちが揺るがぬ者となることではなく、キリストという揺るがぬ「千歳の岩」 の上に立つことが私たちの「救い」なのです。英国の詩人ジョン・ミルトンはこう語っています。「われ岩 の上に立ちて、寄せ来る怒濤のゆえにいたく恐れを抱きぬ。されどわが立てる岩は永遠に揺るぐことなし。 ここにわが永遠の平安あり」。まさにその永遠に揺るがぬ「千歳の岩」なるキリストに出会い、キリストに よって贖われた喜びを伝えるために、彼女は大切な水瓶を井戸ばたに置いたままスカルの町に走って行く のです。人目を避けて日中水汲みをしに来ていた彼女がいまや、スカルの町の全ての人々に救いと自由と 喜びと祝福の福音を携えて戻ってゆくのです。彼女の心に恐れや戸惑いがなかったわけではないでしょう。 積年の恨みつらみもあったことでしょう。しかしどのような思いも、キリストに出会った喜びを人々に伝 えたいという彼女の歩みをとどめることはできなかったのです。  彼女が井戸ばたに置いてきたのは、ただ水瓶だけではありませんでした。愛の対極にある「無関心」と いう大きな「罪」で彼女を審き続けてきた、あらゆる人々に対する彼女自身の「無関心という罪」をも、 彼女はこのとき水瓶とともに主イエスのもとに置いてきた(委ねた)のです。人間は自分が審きには審き をもって返そうとします。倍返しなどという言葉も生まれました。審きは新しい審きを生み、相乗効果と なって、対立はますます深まってゆきます。ユダヤ人とサマリヤ人、スカルの人々とこの女性、そしてこ の女性と主イエスの弟子たちとの間にさえ、この審きと対立は生れてきたのです。しかし、その人と人、 民族と民族、国と国とを隔てる、あらゆる敵意と審きという深い断絶を超えて、このたった一人の女性に 出会うために、彼女の飢え渇きを満たすために、主イエスはヤコブの井戸に来て下さいました。全ての人 の罪を贖う十字架の道行きの途上において、まさに十字架の主のみが、彼女の訴えと哀しみに耳を傾けて 下さいました。その主イエスとの出会いが、その主イエスが与えて下さった「生命の水」が、彼女の飢え 渇いた魂に触れたとき、彼女はそれまで幾重にも自分を縛りつけてきた「無関心」という名の審きの「罪」 をも、主イエスの御手に委ねることができたのです。彼女は水瓶と共に「古き罪のおのれ」を主イエスの もとに委ねたのです。  ここに集う私たち一人びとりにも、いま同じ恵みが与えられているのです。私たちの生活にも審きの心 が、冷たい無関心が、心の奥底に凝り固まっていることはないでしょうか。ふと気がつけば、沈殿した泥 のような審きの中で自分自身が不自由になり、喜びを失い、身動きが取れなくなっているのです。そして 信仰生活さえ偽りのものになります。「汝の隣人を愛せよ」という福音が単なる律法の掟になってしまいま す。そしてそれができない自分を審き、他者を恨み、教会生活を軽んじるのです。あるいは開き直って、 みんな同じような罪人ではないか。不信仰でなにが悪いかと、言い逃れを始めるのです。まさにそういう 「罪」を、私たちは主の御手に「置いて」(委ねて)いるでしょうか。  キリストと共に歩む生活、キリストに贖われ、赦された者の平安の歩みは、自分には出来ないと言って 絶望するのではなく、周囲を見回して「同じようなものだ」と安心するのでもなく、「この兄弟のためにも、 主は死なれたのである」という決定的な恵みの宣言のもとに立つことです。自分を「岩」とするのではな く、キリストのみが唯一の永遠に揺るがぬ「千歳の岩」であることを告白する生活です。私たちが常に仰 ぐべきかたはエペソ書2章11節以下が告げている十字架のキリストなのです。「だから、記憶しておきな さい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々 からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約 束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたが たは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近 いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔 ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。 それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二 つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。  「贖い」のことを英語で“アトネメント”(atonement)と申します。これは字に直しますと「ふたつの ものを、ひとつにすること」なわちエペソ書2章15節の語る「キリストにあって、二つのものをひとり の新しい人に造りかえて平和をきたらせる」ことです。罪によって断絶していた者を、滅びの子でしかな かった私たちを、キリストは十字架と復活によって「ひとりの新しい人」すなわち、主をかしらとする教 会に連なる者として下さり、新しい生命を与えて下さるのです。御業のために、祝福のために、私たちの 小さな歩みをも用いて下さるのです。私たちの生涯そのものが、そのあるがままに、キリストの恵みの素 晴らしさを物語るものとされてゆくのです。  そこに驚くべきことが起こります。今朝の御言葉の最後の30節です。「人々は町を出て、ぞくぞくとイ エスのところへ行った」。人々をキリストへと向かわせたものは、彼女自身の知恵や力ではありませんでし た。そのようなものは何もない女性でした。ただ彼女を甦らせたキリストの「救い」が、人々の歩みをキ リストのもとに向かわしめたのです。私たちも同じではないでしょうか。本当の伝道は私たち自身の力や 知恵によるのではありません。ただ主のみを誇り、喜び、主に仕え、主の器となって、ただキリストのみ をさし示すとき、そこに私たちの思いを遥かに超えた神の御業が現れるのです。まことに主が仰せになる とおりです。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水 は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。まさにこの「命の水」を私た ちは、主イエスの御手から親しく戴き、潤された者として、新しい一週間の歩みへと遣わされてゆくので す。