説     教     詩篇27篇4節    ヨハネ福音書4章19〜26節

「 生命を与える礼拝 」

2014・05・11(説教14191536)  主イエス・キリストとサマリヤのスカルの女性との「生命の水」をめぐる対話の続きです。 今朝の御言葉において、私たちは対話の核心部分に入って参ります。この女性を捕え、孤独と 悲惨に投げこんでいた問題が、ここに明らかにされてゆきます。それは同時に、私たち全ての 人間に共通する問題なのです。  「罪の女」というレッテルを勝手に貼り付け、嘲り陰で噂する世間の人々に対して、このス カルの女性はいっそう堅く心の扉を閉ざしていました。ひとたび社会から「不道徳な女」とい うレッテルを貼られたら最後、そこから逃れる術はありませんでした。どんなに多くの陰口と 中傷を彼女は受けてきたことでしょうか。しかも誰一人として彼女の孤独と悲しみを理解して くれる人はいませんでした。彼女の根底にある魂の飢え渇きを誰も理解してくれなかった。「活 ける生命の水」を求めてやまぬ彼女の叫びは、無視されたままだったのです。  このスカルの女性に、主イエスが出会って下さいました。主イエスみずから「わたしに水を 下さい」と声をかけられて、まずご自分の弱さを顧みることを求めたもうて、そのようにして 堅く閉ざされた彼女の心の扉を「生命の水」をめぐる生命の対話へと導いて下さいました。彼 女の魂が「活ける生命の水」によって潤され、生命の輝きと自由と喜びとを回復するために、 本当に必要なものが何であるか、主イエスのみが知っておられます。彼女が知らずして求め続 けていたもの、魂の飢え渇きの正体を、主イエスは御言葉によって明らかにして下さり「生命 の水」へと導いて下さるのです。  すでに彼女は19節において、主イエスのことを「預言者」と呼んでいました。預言者とは、 神から遣わされ神の言葉を宣べ伝える「神の器」という意味です。彼女は気づきはじめていま す。このかたが与えて下さる「活ける水」こそ、まことの神の言葉(福音)なのだということ を。だから、そこから彼女の問いかけは突如として「まことの礼拝」の問題に移ってゆきます。 それが今朝の20節です。「わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは 礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」と、必死になって彼女は問うのです。  彼女が言う「この山」とは、かつてサマリヤの人々がユダヤ人の聖地エルサレムに対抗して 聖所としたゲリジム山のことです。モーセがその子イサクを献げた山として知られていた山で す。そこでこそ彼女は問うのです。主よ、いったいどちらが本当の礼拝の場所なのでしょうか?。 両者ともに正統性を主張して一歩も譲らず、果てしない争いと憎しみが続いているのはどうし てなのでしょうか?。彼女の存在の根源にあった「まことの礼拝」への問いが、飢え渇きが、 堰を切ったように溢れ出すのです。私たち人間にとって、まことの神を知ること(礼拝するこ と)こそ、自分を本当に受け入れ、他者を愛することなのです。そのことをこの女性の訴えは 示しているのです。  ドストエフスキーの小説が、恐ろしいほど真実に人間の問題を捉えているのは、人間を、神 に造られたもの、まことの神を知るべきものとして捉えているからです。人間の問題は人間の 内側を詮索しても絶対に理解できないのです。人間を本当に理解するためには、まことの神を 知る「まことの礼拝」の問題に関わる以外にないのです。それは「まことの礼拝」の回復だけ が、この世界と人間の唯一の回復の道だからです。私たちは小賢しいものですからこれを逆に 考えるのです。「まことの礼拝」の回復と聞くと、それはなにか人間の自由や主体性を奪うもの のように思い違いをするのです。むしろ礼拝から解放されることが人間らしい生活なのだと考 えるのです。しかし人間は、唯一のまことの神への礼拝を失えば、無数の偶像(虚構)に支配 されるほかはありません。人間に纏わりつく罪と死の枠組みの中で、どんなに自由だ主体性だ と言ったところで、所詮それは「井の中の蛙」の自由にすぎないからです。あのパリサイ人た ちがそうでした。自分たちが「アブラハムの子孫」だと称しながら、その実は「罪の奴隷」で あるにすぎなかったのです。ちょうど疾走する新幹線の中で逆方向に走っても無意味なのと同 じように、私たちの存在自体が罪と死に向かって疾走している中で、どんなに生命に向かって 逆走しようとあがいてもそれは無意味なのです。やがて本当の死と滅びが(罪が)私たちを支 配するだけです。罪が「われ汝に勝利せり」と凱歌を上げるだけです。私たちの救いは私たち 自身の中にはありません。罪と死に勝利したもうた贖い主イエス・キリストの中にのみ私たち を生かす真の自由と幸いがあるのです。  まさにそのような勝利の主として、主イエスは彼女に言われます。21節以下の御言葉です。 「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもな い所で、父を礼拝する時が来る」。そして続く23節でこうもお語りになるのです「しかし、ま ことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きてい る。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼 拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 私たちはここで、主イエスが彼女 に「わたしの言うことを信じなさい」と、信仰のみを求めておられることに心をとめたいので す。「信ずる」とは、ただ神に対してのみ用いられる言葉です。ただ信用するとか、本当だと思 うことではないのです。私たちはここにスカルの女性と共に、主イエスを“まことの救い主”(キ リスト)と告白する信仰を問われているのです。このことは「まことの礼拝」の唯一の根拠を 明らかにすることです。「イエス・キリストは主なり」という信仰告白(キリスト告白)のみが 「まことの礼拝」を形作ります。ゲリジムの山も、エルサレムも、ついに「まことの礼拝」の 場とはなりえなかった理由は、そこがキリスト告白の場所ではなかったからです。キリスト告 白が確立しないところに「まことの礼拝」はありません。その逆に「イエスは主なり」という 信仰告白が健やかになされ、ただ御言葉のみが宣べ伝えられ、聖礼典が正しく行われるならば、 たとえ「二人または三人」の群れの中にさえも、主は共にいて救いの御業を現して下さるので す。礼拝をして真実たらしめるものは「イエスはキリストなり」と信ずる教会の信仰告白です。 言い換えるなら、活けるイエス・キリストの御臨在こそが「まことの礼拝」の唯一の根拠なの です。  だからドイツ語では「礼拝」のことを“ゴッテスディーンスト”という意味深い言葉であら わします。これは「神への奉仕」と「神の奉仕」という2つの意味を持つ言葉です。礼拝はた だ私たちが神に献げる奉仕というだけではない。神ご自身が御子キリストにおいてなさって下 さった「神の奉仕」(神の御業)を基礎とするものなのです。それは何よりもキリストの十字架 の御業です。私たちの献げるこの礼拝の基礎はキリストの十字架の御業なのです。それならば 私たちはこの礼拝において、ただひたすら恵みと祝福を受ける者となるのみです。「アーメンわ れ信ず、信仰なきわれを助けたまえ」と応えるだけです。そのことが次第にこの女性にもわか ってきた。その証拠に、彼女は主イエスとの対話の中でついに今朝の25節の言葉に導かれてゆ きます。それは「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。その かたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」という言 葉です。ついに「キリスト」という言葉が彼女の口から出てきます。キリストによる救いを待 ち望む信仰へと導かれたのです。  彼女は言うのです。主よ、本当にあなたが仰せになるとおりです。私が知らずに求め続けて いたもの、私の人生を真に潤す生命の水は、ただまことの神を信じ告白する「まことの礼拝」 の生活にあるのです。私はどんなにか切にそれを求めてきたことでしょう。このゲリジム山で もまたエルサレムでもなく、ただまことの神を「霊とまこととをもって」礼拝する生活だけが、 私を本当に生かし、生命と平安を与え、罪の赦しと義と永遠の生命に導くのです。そして私は 知っています。私たちにそのような「義の生命」をお与えになるかたとして「キリストと呼ば れるメシヤが」来られることを。やがていつの日にかかならず、私たちの罪を贖い、まことの 「生命の水」を与えて下さるキリストが世においでになる。そのかたを、私はどんなにか待ち こがれていることでしょう!。  まさに旧約のヨブのように「われ知る、われを贖う者は生く。わが魂はこれを慕いて焦がる」 と彼女は言うのです。罪からの救いが、ただイエス・キリストのみにあることを信じ告白する のです。キリストがおいでになるその日その時こそ、自分の飢え渇きは満たされ、存在の深み までも新たにされて、まことの礼拝者として生きる喜びの歩みが始まる。その日が必ず世界に (自分の人生に)訪れることを「わたしは知っています」と言うのです。それならばなおさら のこと、私たちはこの女性と共に、今朝の御言葉が告げている限りない祝福のもとにいま立た されているのではないでしょうか。それは今朝の最後の26節です。この対話のいちばん最後に 主が告げていて下さる御言葉です。「イエスは女に言われた、『あなたと話をしているこのわた しが、それである』」。  このヨハネ伝はいたるところで、この主が言われた「わたしが何々である」という不思議な 御言葉を伝えています。「わたしは世の光である」。「わたしは道であり、真理であり、命である」。 「わたしはいのちのパンである」。これ以上に幸いな、慰めに満ちた福音の宣言がどこにあるで しょうか。私たちを救うまことの神は、私たちの手の及びがたい高みにあり、私たちを見下ろ しているようなかたではない。私たちを極みまでも愛し、私たち罪の塊のような人間の救いの ために、全てを無になさって世に降られ、私たちのただ中に宿られ、私たちを尋ね求め、私た ちに出会われ、私たちの魂の悲しみと、飢え渇きの最底辺に御手を触れて下さるかたなのです。 そこでこそ「わたしこそ、それ(キリスト)である」との御声を私たちは聴くのです。「わたし こそそれである」。このかたこそ私たちの存在にまつわる罪と死の重荷を担い取って、私たちの 身代わりになって十字架にかかって下さったかたです。ご自身の死によって私たちの死を打ち 滅ぼして下さったかたです。私たちを復活の生命にあずからせるために、復活の初穂となって 墓から甦って下さったかたです。まさにそのようなかた(キリスト)として、主イエスは今こ こで私たち一人びとりにも告げて下さる。「あなたと話をしている、このわたしが、それである」 と!。あなたは既にわたしに出会っていると告げて下さるのです。あなたが「まことの礼拝」 に連なる時、あなたの救いの時は、いま来ていると主は告げていて下さるのです。その確かな 保証として、ご自身の十字架を指して下さるのです。「わたしが、それである」と告げて下さる のです。  言い換えるなら、あなたが私を求めるはるか以前に、私はあなたを求めた。あなたを尋ねあ なたに出会うために、私はここに来たのだと主は言われるのです。だから私たちがキリストに 出会うということは、私たちがキリストを尋ね求めるはるか以前に、すでに私たちを尋ね求め ていて下さったキリストに出会うことです。キリストの御業が、キリストの愛が、キリストの 歩みが、私たちに常に先んじているのです。そのようなかたとして、主は私たちの根源的な飢 え渇きに、まずご自身の側から御手を差し伸べて下さった。そしてご自身の復活の生命をもっ て、その飢え渇きを満たして下さるのです。そこに、あらゆる人間の魂の彷徨は止み、生命と 祝福の道は始まり、キリストと共にキリストの主権のもとを歩む、新しい礼拝者としての生活 が始まってゆくのです。主の御名を讃えつつ、御業を讃美しつつ、救われた喜びを告げる者と して、私たちの生涯が、また存在そのものが、キリストの限りない愛に生かされ満たされてゆ く。そこに私たちの本当の自由があり、幸いがあり、感謝があり、喜びがあるのです。