説     教     詩篇1篇1〜6節   ヨハネ福音書4章1〜14節

「活ける水」

2014・05・04(説教14181535)  今朝はヨハネによる福音書4章1節から14節までの御言葉を与えられました。私たちが人間として社 会に生きてゆく上で本当に難しい一つのことは、いかに偽りや偏りのない正しい視線で物事を見、判断す るかということです。たとえばマスコミの影響というものがあります。テレビや新聞あるいは世間の噂話 (風評)などに私たちは左右されやすい。「世間でこう言っている」「あの人からこう聞いた」ということ が、いつのまにか自分の判断に摩り替り、自分の目できちんと物事を見、冷静に判断するということが失 われてゆくのです。このことは実は、私たちの人間としての生きかたの根本を問う問題なのではないでし ょうか。  ここに一人の女性が登場します。ユダヤ人にとっては蔑むべき異邦の土地であるサマリヤのスカルとい う町の、ヤコブの井戸の傍らにおいて、主イエスの対話の相手となるこの女性は、次から次へと夫を替え て、今は6人目の男と同棲している様子でした。当時のユダヤの法律では男女とも3回まで再婚が認めら れていました。しかしこの女性は、その社会的な許容範囲をはるかに超えて結婚生活そのものに絶望して いた。そういう様子が今朝の御言葉から伺い知れるのです。  そこに見えてくるものは、凄まじいばかりの彼女の孤独です。傷つき飢え渇いた魂の叫びです。このス カルの女性は、自分に対して好奇と軽蔑の目を向ける世間の人たちに対して、いつしか堅く心を閉ざし、 語るべき言葉を失い、今は「夫」とさえ呼べないような男と共に身を潜めるように生きていたのです。こ の女性の心の叫びに、人々は全く耳を傾けようとせず、彼女はそれに対抗するように社会を呪い、人々を 疎んじ、絶望感という(ある意味で)心地よい窪みに身を委ねていたのでした。  この女性に主イエスが出会われるのです。と申しますより、今朝の御言葉の4節を見ますと「しかし、 イエスはサマリヤを通過しなければならなかった」と記されています。普通ユダヤ人の旅人は、敵対して いたサマリヤ人の地は避けて(回り道をして)旅をしました。ところが主イエスは敢えてそこを「通るこ と」を選ばれました。主イエスは「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くため」また 「失われた者を尋ね出して救うためである」と言われました。まさに主は魂において「失われた」者(神 の前に死んだ者)となっていたこの女性に出会うために「サマリヤ」に来て下さったのです。私たちのも とへと来て下さるのです。  さて、このスカルという町は19節以下の対話の内容から見ますと、サマリヤの人々がエルサレムに対 抗して建てた「ゲリジム山」の神殿にほど近い場所にありました。俗に「骨肉の争い」と申しますが、か つては同胞であったユダヤとサマリヤとの間には宗教的な対立があり、底知れぬ憎しみが支配していまし た。当時の言葉に「サマリヤ人は、ユダヤ人に、水一杯も恵んではならない」というものがあったほどで す。ところがそこに驚くべきことが起こるのです。「時は昼の十二時ごろであった」と記されています。旅 の疲れを覚えて、主イエスはこのスカルの町外れにあるヤコブの井戸の傍らで休息しておられた。弟子た ちは食料を求めて出かけてゆき、主イエスだけがそこに残っておられました。そこに水瓶を持ってあの女 性が水を汲みに来たのです。ふつう水汲みの仕事は早朝に行うものです。昼さなかに水汲みに来るという 行為自体がこの女性の孤独を現わしています。いずれにせよ、井戸の傍らにいるユダヤ人の男(主イエス) を見て彼女は困ったことでした。町の人々からは疎外され、同棲していた男とも心は通わず、それに加え て憎き敵であるユダヤ人の男と井戸の傍らで出会ってしまった。「今日はついていない日だ」と思ったこと でしょう。ここは無視して急いで水を汲み、早く帰ろうとしていたところに、なんと主イエスのほうから 突然、彼女に声をかけてきたのです。  「水を飲ませて下さい」。これが、彼女を驚愕させた主イエスの第一声でした。「この人はどうかしてい るのではないか?」と彼女は思ったことでした。自分が肉体的に社会の常識を破っている女なら、ここに は霊的に社会の常識を破っている男がいる。求めても与えられるはずのない(与えてはならない)水を、 幼子のように素直にサマリヤの女の自分に求めて来る、この常識破りの男はいったい何者かと彼女は思っ たのです。だからこう問いました「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、 飲ませてくれとおっしゃるのですか」。冗談ならば止めて欲しい。本気ならあなたはどうかしている。彼女 の声は怒りをさえ含んでいたに違いありません。  ところが、主イエスはお答えになってこう言われたのです「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、 『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人 から生ける水をもらったことであろう」。彼女の驚きは畏敬の念に変わりました。常識破りどころではない。 この人は本当に“ただならぬ人だ”と感じたのです。律法学者たちでさえ見抜けなかった主イエスのお姿 を、社会から葬られていたも同然なこの女性が、見抜き始めた瞬間でした。主イエスの内に、自分を真に 生かす「何か」があることに気づき始めるのです。  どうか注意して下さい。イエスに対する彼女の言葉づかいはいつの間にか神聖なかたをさす「主よ」と いう表現になっています。11節です「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いの です。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤ コブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだの ですが」。このように訊ねる彼女は、もはや水汲みのことも忘れていました。それほど主イエスの御言葉が 彼女の魂を強く揺り動かしたのです。彼女が孤独の中で本当に求めていたもの、自分でも知らぬまま求め 続けていたものが何であったかを、彼女は主イエスとの対話の中で気づきはじめるのです。彼女の中に隠 されていた、人間の真実の求め、神への飢え渇きが、少しずつ姿を見せはじめるのです。  もっとも、彼女はまだ「活ける水」の意味を十分に理解できていません。その証拠に14節に「わたし が与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで 泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」と主イエスが語られたとき、彼女は「主よ、わた しがかわくことなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」と申してい ます。あなたはそんなに便利な水をご存じなのですか。それなら人目を避けて昼日中に水汲みをせねばな らない、そんな私の惨めさを救うために、ぜひその水の在り処を教えて下さいと願うのです。これは痛烈 な皮肉であったかもしれません。「そんな水、あるはずないではありませんか」という否定的な思いを読み 取れるからです。彼女はなお物質的な次元から離れていないのです。私たちは、そのような彼女を笑うこ とはできません。むしろ私たちとこの女性とはこの場面でこそ重なり合うのです。私たちはこの女性より、 主イエスについて多くの知識を持っているかもしれません。しかし主イエスについて知識を持つことと、 主イエスを信じることとは違います。そもそも私たちは主イエスに対して何を求めているのでしょうか。 私たちこそこの女性以上に、主イエスに向かって自分の幸福のみを求め、自分の利益だけを期待し、自分 の思いどおりにならなければ絶望するだけなのではないか。あるいは、そのような状態よりもっと悪く、 主イエスに対して何も期待しない、主イエスに率直な願いを打ち明けない、いわば“アナーキーな信仰” に陥っていることはないでしょうか。  主イエスは、この女性の愚かで的外れな求めさえ退けたまいません。それどころか、彼女のおよそ不器 用で無遠慮な願いを、あるがままに御手に受け止めて下さるのです。ちょうど幼子の親が、わが子の口か ら出る拙い言葉を、何よりも尊いものとして喜ぶように、主イエスは私たちの愚かな心から迸る、ときに 余りに自分勝手な願いをさえ、それを喜んで御手に受け止め励まして下さるのです。「駄目だ、あなたは何 も分かっていない」と退けるのではなく「そうだ、そうだ、よくそこまで分かったね。さあもう一歩前に 踏み出してごらん」と私たちの心の奥行きを拡げるように、福音の御言葉をもってまことの神へと導いて 下さるのです。私たち自身も気がつかずにいた人間としての本当の求め、本当の願いに気づかせて下さる のです。  主イエスは言われます。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水 を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、 永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。私たちこそいま問われています。私たちはいまこの女性以上 の熱心さをもって「活ける水」を主イエスに求めているでしょうか。主が私たち与えたもう水は私たちの 中で「泉」となるのです。私たちの生活と人生の全体がキリストの生命に満たされたものとなるのです。 この「活ける水」に潤される生活を、私たちはいま飢え渇くように求めているでしょうか?。むしろ私た ちこそ、大切なものが見えずにいるのではないでしょうか。この女性は主イエスの御言葉に促されるよう に、御言葉の深みへと入ってゆきます。信じない者ではなく「信じる者」に変えられてゆきます。彼女は 私たちに先んじて主イエスの恵みの中に踏みこんでゆきます。主イエスについての知識ではなく、主イエ スを「救い主」と信じ告白して主の教会に連なる喜びに進んでゆきます。誰に求めても、どこを捜しても、 決して得られなかった魂の平安が、罪からの救いが、主イエスにあることを信じ告白する者として、主イ エスに連なって歩む新しい生活が始まってゆくのです。  いまここに連なっている私たち一人びとりにも、そのような信仰の生活(教会生活)の喜びと幸いが、 今朝の御言葉を通して豊かに与えられているのです。あなたもまた、私が与える「活ける水」を受けるそ の人だと、主イエスははっきりと告げていて下さるのです。スカルの女性の魂を根底から揺り動かし、福 音による新しい生活に導いた主の御声がいま私たちにも届いています。まさしく主はあなたに語りかけて おられるのです。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」と。永遠に死を超えて までも、私たちを潤し続ける「活ける水」が、キリストの恵みの真実が、主イエスの御手から主の教会を 通して、私たち一人びとりに、そして全ての人々のために差し出されているのです。それを「受けよ」と 主は招いておられるのです。  思えば、キリストはまことの神、天地万物の創造主と等しいかたです。そのかたが、社会の片隅で飢え 渇き絶望していた一人の女性に「水を飲ませてください」と一杯の水を所望されたことに、私たちは驚か ざるをえません。一杯の水に渇くことは人間の弱さの極みです。それならばその弱さの極みの中で、主は この女性の飢え渇く魂に連帯して下さったのです。滅びへと向かう彼女の存在の重みを、そのままに御手 に受け止めて下さったのです。神と等しくあられるキリストが、そのいっさいの栄光を捨てて人となられ、 私たちを罪から救うために、恥辱にまみれた十字架への道を歩んで下さったのです。ご自分の生命を献げ て、罪によって神から離れ、滅びの道を辿っていた私たちを、その根底から支え、限りない愛をもって私 たちの罪を贖い「失われていた」私たちを尋ね求め見出して下さったのです。「活ける水」とは、この十字 架の主イエス・キリストの救いの恵みにほかならないのです。  神を求めてやまぬ彼女の飢え渇きを、彼女自身も知らずに過ごしていた人間としての真実の求めを、見 出させて満たして下さるために、まず主イエスご自身が彼女に向かって渇きを訴え、ご自身の「弱さ」を 顧みることを求めて下さった。そのようにして彼女の堅く閉ざされた心を開いて下さり、そこに深く潜む 渇きの心を、嘆きの涙を、そのあるがままに御手に受け止めて下さり、ご自身の恵みの「活ける水」で充 たして下さったのです。今朝あわせて拝読した詩篇1篇の御言葉も、まさしくキリストに贖われキリスト の教会に結ばれた者の喜びと祝福の人生を告げています。「このような人は流れのほとりに植えられた木 の、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところはみな栄える」。私たちはスカルの 女性と共に、まさにこの“生命の流れ”である主イエスに連なっているのです。このかたから「活ける水」 罪の贖いと赦しと新しい生命とを賜わり、世の旅路へと、それぞれの人生の持ち場へと遣わされてゆく。 そこに私たちの思いを超えた幸いと自由があり、真の平安があることを覚え、信仰の歩みを全うして参り たいと思います。