説     教     ルツ記1章1〜5節   ルカ福音書7章44〜50節

「ルツとナオミ」

2014・04・27(説教14171534)  今朝は旧約聖書ルツ記の御言葉を与えられました。実はルツ記は読みかたが難しいのです。ある意味で 私たちはルツ記を、姑と嫁の麗しい物語として読むこともできるからです。ナオミもルツも、幾多の苦労 の末に幸福を手に入れた、いわば朝のテレビドラマのヒロインのような「感動物語」として読むこともで きるのです。しかしそれではルツ記の本当のメッセージ(福音)は私たちに伝わりません。ルツ記は単な る感動物語ではなく、主イエス・キリストの福音を私たちに伝える神の言葉です。ナオミとルツの生涯も また、まことの神の福音に仕え、それをさし示すものとして、私たちの魂に迫るものなのです。私たちは 道徳の規範からではなく信仰の規範からのみ、この物語の本当のメッセージを読み解くことができるので す。  ここに登場するのはナオミとルツという2人の女性です。時代は紀元前12世紀の終わりから11世紀の 始めにかけて、今からおよそ3100年前の出来事です。この時代についてルツ記1章1節は「さばきづか さが世を治めているころ」と記しています。この「さばきづかさ」とは士師記の「士師」のことです。つ まりイスラエルにはまだ王がおらず群雄割拠の時代であった。やがてダビデが現れ、その子ソロモンの時 代(紀元前1000年ごろ)に中央集権国家としてのイスラエルが建国されるのですが、それより百年以上 も前の時代です。この時代の古代イスラエルは、政治的にも経済的にも非常に不安定であり、社会全体が 大きな不安の影に覆われていました。この時代の様子を士師記21章25節は「そのころ、イスラエルには 王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」と記しています。  そうした不安定な時代の中で、神を信じて信仰に生きるということは、それ自体がたいへん困難なこと でした。「自分の目に正しいと見るところ」というのは、要するに人間の判断が中心であったということで す。そうした不安の時代を「ナオミ」というイスラエルの女性が、夫エリメレクに先立たれて、異邦モア ブの地において、孤独の中で苦労して2人の息子を育てたのです。モアブはナオミにとって、言葉さえう まく通じない、思想も考えかたも宗教も、何もかもが違う土地なのです。その土地でナオミは2人の息子 を立派に育て、それぞれに妻を娶らせます。しかしこの息子たち、マロンとキリオンは相次いで世を去り、 ついにナオミは夫にも2人の息子にも先立たれ、異邦の地モアブにおいて文字どおり「天涯孤独の身」に なってしまうのです。それでナオミは故郷であるイスラエルのベツレヘムに帰ることにするのです。その ときナオミにとって気掛かりであったのは、あとに残された2人の嫁(オルパとルツ)の身の振りかたで した。  ここでナオミが偉いのは、堅く信仰に立ち(神への信頼に生き)自分の悲しみよりも、まず2人の嫁に とって最善の道は何であるかを考えるのです。その結果、オルパは姑ナオミのもとを離れて実家に戻るの ですが、ルツのほうはどうかと申しますと、ナオミのもとを頑なに離れようとしませんでした。1章の15 節以下をご覧ください「そこでナオミは言った、『ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民と自分の神々の もとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい』。しかしルツは言った『あなたを捨て、 あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあな たの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。あなたの死なれる ところにわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるな らば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください』」。このルツの堅い決意を聴いて、ナオミはルツ を伴って故国イスラエルに帰るのです。それが主なる神の御心であることを信じたのです。  さて、ルツを連れて故郷イスラエルのベツレヘムに帰ったナオミを見て、ベツレヘムの人々は「こぞっ て彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、『これはナオミですか』」と語ったと1章19節に記されてい ます。この「騒ぎたち」という言葉の意味は、かつて幸福であったナオミが惨めな姿で故郷に帰ったのを 見てベツレヘムの人々が驚いたのではありません。元のヘブライ語を直訳すると、むしろベツレヘムの人々 は、自分たちの町に帰ってきたナオミを見て「喜び」に湧き立ったのです。その理由は、ナオミが異邦の 地モアブで非常な苦労をしたにもかかわらず、なお堅く信仰に立ち続けている、その信仰の姿を見てベツ レヘムの人々は喜びに湧き立たのです。大きな困難の中を主と共に歩み続けたナオミの信仰の姿を見て、 ベツレヘムの人々は喜びに溢れたのです。これはどういうことかと申しますと、実はこの1章19節がル ツ記で最も大切な御言葉なのですが、ベツレヘムの人々は、ナオミとルツのゆえに主の御名を崇め、神に 栄光と讃美を帰したのです。それが「騒ぎたち」という御言葉の意味です。  もっとも、最初はナオミ(英語ではノオミ)も、その讃美の歌声に素直に声を合わせたわけではありま せん。むしろ故郷の人々にナオミはこう答えています。1章20節以下です「ナオミは彼らに言った、『わ たしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひど く苦しめられたからです』」。ナオミとはヘブライ語で「甘い」という意味です。彼女は自分の人生は「甘 い」(ナオミ)ものではなく、むしろ苦い(マラ)ものである。だからどうか自分のことを「ナオミ」と呼 ばないで欲しいと願うのです。苦しみの渦中にあるとき、私たちにも神の恵みが見えなくなることがあり ます。ナオミも例外ではありませんでした。どうして私のゆえに神の御名を讃美するのかと疑問を呈して いるのです。  しかし大切なことは、そのような人生の不条理の中で、ナオミは最後には自分の思いではなく、ただ神 の御旨を信じて、それに従っていったことです。ナオミの信仰は群雄割拠ではなかった。ご都合主義では なかった。健康と幸福だけが神の恵みであると考える信仰ではなかった。むしろナオミはあるがままに、 悲しみの日にも、悩みのときにも、喜びにも楽しみにも、変わることなく主を崇め、自分の人生が主に贖 われ導かれた人生であること、主の愛の器とされた生涯であることを心から感謝し、どのような時にも神 の御名を讃える女性であったのです。だからこそ、ルツは異邦モアブの女性であったにもかかわらず、姑 のナオミに対して「あなたの神はわたしの神です」と言っているのです。信仰の絆によって2人の女性は 堅く結ばれ信頼しあっていたのです。ルツはどういう女性かと言えば、言葉も通じない異邦の世界に、姑 ナオミと共に生きることを信仰によって決意した女性です。夫に先立たれたモアブの女性が、姑ナオミの 故郷であるベツレヘムに身を寄せるようになったのです。彼女は世界で最も身寄りなき弱い存在です。そ のルツのためにナオミの祈りが献げられ続けました。ルツの新しい生活は、それまでもそうであったよう に、ナオミの絶えざる祈りの中で新しく始められ、支えられ続けたのです。その祈り続けた期間というの は、単純にこの物語から計算してもナオミの全生涯です。ナオミは生涯ルツのために祈り続けたのです。 それはナオミの死を超えてまでも注がれ続けた祈りでした。  人の目には貧しく、天涯孤独に見えたルツの生活は、このナオミの祈りの中でこそ、限りなく豊かな祝 福に満ちたものへと変えられてゆきます。やがてこのルツ記第3章に至りまして、ルツはナオミの親戚で あるボアズと出会い、婚約するようになり、やがて2人の結婚が実現します。その間にも実に様々な出来 事があるのですが、それは割愛いたしまして、やがてボアズとルツ間にひとりの男の子が与えられます。 彼らはその男の子を「オベデ」と名づけました。オベデとはヘブライ語の“オーベド”(神を礼拝する)と いう意味です。つまり「礼拝者」という名前です。ではその「礼拝」とは何であるかと申しますなら、そ れは私たちの罪の贖い主として、神がその独子イエス・キリストをさえ世に下さった、その測り知れない 恵みと慈しみの御手が、私たちの全生涯を支えて下さるという恵みの事実に基づくものです。その恵みの 事実に対する私たちの限りない感謝の応答が「礼拝」(オーベド)なのです。  ドイツ語では礼拝のことを“ゴッテスディーンスト”と言います。これは非常に含蓄のある言葉でして 2つの意味を持つのです。第一には、神に対する私たちの奉仕。第二には、私たちに対する神の御業。こ の第二の意味が大切なのです。私たちに対する神の御業とは、その独子イエス・キリストをさえ賜わった ほどに、このあるがままの世界を愛し、その罪の全てを贖うために、主が十字架にかかって下さった出来 事です。だからこそ、このルツ記のいちばん最後、4章14節を見ますとこう記されているのです。「その とき、女たちはナオミに言った、『主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとり の近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように』」。  なによりも私たちは、マタイによる福音書の冒頭の「主イエス・キリストの系図」の中に、このオベデ の名が留められていることを覚えたいのです。マタイ伝1章5節です。「ボアズはルツによるオベデの父」 とあることです。そしてこの系図はわれらの救い主、全世界の罪の贖い主・イエス・キリストへと流れて ゆきます。私たちはこの系図の中にルツの名が書き記されていることを感謝をもって知ります。ルツはそ の姑ナオミの絶えざる祈りと信仰の中で、キリストの恵みをさし示し、その全生涯をもって主のための道 備えをする女性とされたのです。ナオミとルツの生涯はそのあるがままに、ただ信仰によって、神の限り ない愛を証しする器とされたのです。そしてその信仰の歩みに、彼女に現された主の恵みのご支配に、私 たちもまたあずかる者とされているのです。