説     教     詩篇30篇4〜5節   ヨハネ福音書21章15〜19節

「復活の主に連なる」

 復活日主日礼拝 2014・04・20(説教14161533)  今朝、私たちに与えられたヨハネによる福音書21章15節以下には、復活の主イエス・キリストによ るシモン・ペテロの派遣の出来事が記されています。すなわち主イエスはペテロに対して「わたしの羊 を養いなさい」と、伝道と教会形成の委任をなさっておられるのです。そこで、この御言葉でとても印 象的なのは、主イエスがここでペテロに「わたしを愛するか」と3度も訊ねておられ、ペテロがそれに 対して3度答えていることです。そののちペテロの使徒としての派遣が告げられています。  このことは何より、ペテロが主イエスを3度も裏切った事実を、主が完全に癒して下さったことです。 十字架を目前にしたペテロは大祭司カヤパの邸宅において、恐怖のあまり3度も主イエスを「あのよう な人は知らない」「イエスとは何の関係もない」と全面否定したのでした。その取り返しのつかない罪を おかしたペテロを、主イエスはいま復活の生命をもって覆って下さるのです。そのために3度「ヨハネ の子シモンよ、わたしを愛するか」と訊ねたもうのです。その一問ごとに、絶望の淵から立ち上がって ゆくペテロの喜びの姿が、ここにははっきりと現われています。それは同時に私たち一人びとりの復活 の喜びでもあるのです。  さて、このことと関連して深く思わされることは、マルコ伝16章の言葉です。悲しみに暮れつつ主 イエスを葬った墓を訪ねた3人の女性たちに、主イエスが復活された(よみがえられた)という音信を 告げつつ、御使(天使)が語ったことです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ 人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、こ こがお納めした場所である。今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあな たがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであ ろう、と」。  ところで、この御使いの言葉は、よく見ますと「弟子たち」と「ペテロ」とを区別しているように見 えます。たしかに御使(天使)はマグダラのマリヤに「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう 伝えなさい」と命じているのです。どうしてこのような言いかたをしているのでしょうか?。それを読 み解く鍵はルター訳のドイツ語の聖書にあります。ルターはここを「今から弟子たち、特にペテロのと ころに行って、このように告げなさい」と訳しているのです。すなわち復活の主は、最も大きな罪を犯 したペテロ、最も神から遠く離れてしまったペテロに、他の弟子たち以上に「特別な」愛の御顔を向け ておられるのです。  かなり以前のことですが、私たち葉山教会の友愛会で植村正久の説教集を学びました。植村正久とい う人について、改めて学ぶ機会を与えられました。その中で、ある人がこういうことを語っているのに 出会いました。それは、植村正久牧師は偏屈な人であった。しかし彼に接した人たちは誰もがみな「自 分がいちばん植村先生に愛された」と感じていた。植村牧師の本当の偉さはそこにあったのだ。それは 何かと言えば、植村牧師は復活のキリストの愛に生かされていたからだ。大切なのはこの「復活のキリ ストの愛」です。私たちにも復活のキリストの愛が豊かに注がれているのではないでしょうか。それこ そ私たちを人間として根本的に生かしめ生命を与える真の愛です。私たちは復活の主の御前に「自分が いちばん愛されている」と言い切れる者とされている。「かけがえのない汝」として立たしめられている のです。この事実こそ、私たちの全生涯を祝福し、力と慰めと勇気と希望を与えるのです。  それは、キリストの復活は十字架のご受難の結果であったことによります。ペテロ第一の手紙3章19 節によれば、主が十字架にかかられ、そして墓に葬られ、陰府に降られた。それはまさに私たちの罪の ため、私たちの救いのためです。ペテロは主が死なれてから復活されるまでの三日間の消息を語るので す。それは「陰府にいる人々」のもとに福音を宣べ伝えるためであった。「陰府にいる人々」に救いと生 命を与えるためであった。この「陰府にいる人々」とは誰のことか、それこそまさにペテロのことであり、 私たち一人びとりのことです。  3度も主イエスを裏切ったペテロこそ「陰府にいる人々」そのものでした。私たちも同じです。それ ならば、実は私たちは「まさしくこの『わたし』のために」主は十字架におかかりになり、復活された という音信に、今日のヨハネ伝21章15節以下において確かに出会うのです。私たちはルターが「特に ペテロに」と訳した部分に私たち自身の名を入れて読む者とされているのです。そのようにしか今朝の 御言葉を読むことはできない。まさに「陰府」にいた私たち、罪の闇に閉ざされ、自分が罪の中にある ことさえ知らずに生きていた私たちのために、主は測り知れない苦難の十字架を担って下さり、死んで 葬られ、陰府にまで降って下さった。しかもその救いは、今ここに連なる私たち、そしてこの全世界へ の生きた救いの音信として宣べ伝えられているのです。主はまことに墓より復活されたからです。まさ に復活の主が「特に」この「わたし」に親しく出会っていて下さる。ご自身の計り知れない救いの出来 事の中に、限りない愛の中に、私たち一人びとりを「かけがえのない汝」として立ち上がらせていて下 さる。「わたしを愛するか」と3度も呼びかけて下さる。そして私たちを主と共に生きる祝福の人生に 遣わして下さる。頑なにキリストを拒み、人の罪は幾らでも数えるのに自分の罪は知ろうともせず、い つも主を裏切り続ける、そのような私たちをこそ、主はまず訪ねて下さったのです。「陰府」にあった私 たちに出会って下さったのです。  さて、そこで、私たちの頑なさの罪が最後のあがきをするかもしれません。私たちはやはりペテロと は違うと言い訳をするのです。主はペテロに「わが羊を養え」と言われた。それはペテロを伝道のわざ、 使徒たる生涯に遣わしたことだ。それなら、私たちは神学校に入ったわけでも、牧師になったわけでも ないと。しかし今朝の御言葉は、私たち皆が牧師・伝道者になるべきだと言っているのではないのです。 復活の主が私たちを遣わして下さるとは、ある特定の道だけが信仰生活だということではないのです。 むしろ私たちはそのあるがままで、家庭の主婦たる人も、社会で仕事をしている人も、学校で学んでい る人も、みなそのあるがままに、復活のキリストの限りない愛のもとに生かしめられているのです。そ してペテロと共に、復活の主によって、キリストと共に生きる新しい生活へと遣わされているのです。 カール・バルトという神学者は、教会教義学という膨大な本の中で繰返し「私たちの人生は神から貸し 与えられたものである」と語っています。この「貸し与えられたもの」とは、私たちの人生と存在の意 味は、私たちを超えたところにあるのだということです。その中でバルトが繰返し語るのは、ひとつの 数式の譬えです。つまり例外がないのです。私たちの生涯は、復活のキリストとの出会い、とりわけ、 復活の主が私たちを遣わして下さる恵みによって、括弧の前にプラスのついた数式とされている。たと え括弧の中がどんなに大きなマイナスであろうとも、否、そのマイナスが大きければ大きいだけ、復活 のキリストの愛というプラスによって、私たちが受ける生命の祝福も確かなものとされている。バルト が数式の喩を語っているのは、そのキリストの恵みの確かさを明らかにするためです。  椎名麟三というキリスト者の作家がいます。私の大好きな作家です。この人が「復活のキリストこそ 究極のユーモリストである」と語っています。真のユーモアとは、世界の本当の意味と目的を知るとこ ろから出て来る自由と喜びの人生態度です。私たちが「もう終わりだ」とピリオドを打つところで、復 活の主がはっきりと語って下さる。「いや、終わりではない。私があなたと共にいる」と。それが究極の ユーモアです。自由と喜びの人生態度です。まさに復活の主は、復活という究極のユーモアをもって、 私たちの全存在を祝福して下さいます。罪の中で倒れ崩おれたペテロをも、三度も名を呼んで立ち上が らせ、新しくして下さった究極のユーモアが、いま私たちにも豊かに注がれているのです。どんなに括 弧の中がマイナス符号で溢れていようとも、復活の主が私たちのために「永遠のプラス」を刻印して下 さったからです。この世界もまた、私たちの人生もまた、神の永遠の愛と祝福が究極的に勝利する世界 であることを、私たちは確信する者とされているのです。  「夜は夜もすがら泣き悲しむとも、朝と共に喜びうたはん」。この詩篇30篇5節の御言葉は復活の主 に連なる私たちの新たな生命を示しています。その喜びの「朝」(復活の朝)がすでに私たちのもとに来 ているのです。これから私たちは復活日の聖餐をともに祝います。私たちのために復活の主が備えて下 さった喜びの食卓にあずかります。初代教会の信徒たちは迫害の嵐の中で、しばしば地下墓地の中で、 殉教者の棺を聖餐卓として聖餐を献げました。そこは暗かったけれど、しかしそこにもはや闇はなかっ たのです。陰府にまで降って下さった主の恵みが私たちと共にあるからです。「夜は夜もすがら泣き悲し むとも、朝と共に喜びうたはん」。