説     教  エレミヤ書4章19節  ヨハネ福音書3章16節

「 独子を与えたもう神 」

2014・4・06(説教14141531)  今から150年前の1864年(元治元年)7月18日。新島七五三太(しめた)という青年が函館からアメ リカの捕鯨船に密航して日本を離れました。幕府の国禁を犯しての生命がけの渡米でした。この新島青年 は船長に片言の英語で、日本を列強諸国の支配から救うために強力な海軍が必要である。自分はアメリカ で造船技術と海軍創設に必要な知識を学び、日本を立派な近代国家にしたいと訴えました。敬虔なクリス チャンであったセイヴォリー船長は新島に、それなら君はまず聖書の教えを学ばねばならないと諭します。 このセイヴォリー船長の指導のもと、熱心に聖書を読み始めた新島は、ある日ついにひとつの御言葉に心 を捕らえられ、洗礼を受ける決意をします。それがヨハネ伝3章16節でした。「神はそのひとり子を賜わ ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るた めである」。新島は「滂沱として涙、余の頬を伝いぬ。実に余が求め居りしものはこれなりき」と書き記し ています。  新島はこの御言葉に接したことで、国家を国家たらしめるものは強力な海軍力ではなく、まことの神の 御教えであると気づくのです。海軍は国家に一時の繁栄をもたらすものに過ぎない。しかしイエス・キリ ストの福音は永遠に滅びない国家永遠の平和の礎であり、全ての人を導く“まことの光”であると知らさ れたのです。やがて半年におよぶ航海を経てボストンに着いた新島七五三太は洗礼を受けて教会員となり、 苦学のすえ神学校に入り、日本人として最初の按手礼を受けて牧師となり、生涯を伝道と教育に献げまし た。この新島七五三太こそ京都に同志社を創立した新島襄です。ヨハネ伝3章16節の御言葉が、一人の 愛国者をキリストの福音の使徒に変えたのです。今朝、私たちに与えられている御言葉はそのような力を 持つ御言葉なのです。  そこで今朝のヨハネ伝3章16節は、ニコデモというユダヤ人の指導者の問いに対して主イエスがお答 えになった御言葉です。ニコデモは主イエスを「教師」として尊びたものの「キリスト」(神の子・救い主) とは信じませんでした。だから世間の目をはばかり「夜」ひそかに主イエスを訪ねたのです。このニコデ モに主は「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場 合、どうしてそれを信じるだろうか」(12節)と仰せになりました。教会を通して宣べ伝えられている福音 を信じ、キリストに連なることこそ「永遠の生命」であることを明らかにされたのです。教会はキリスト の身体であり、私たちは教会に連なることにより、全世界のために主がなして下さった救いの御業に連な るのです。私たちは教会に結ばれてはじめて、キリストの内に自分を見いだす者となるのです。それはま さに今朝の3章16節に「アーメン」と応えることです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を 愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。この福音を いまここでこの私に(そして全世界に)語られている“救いの音信”(おとずれ)として信ずることです。  宗教改革者ルターは「たとえ聖書の他の文言が全て失われてもヨハネ伝3章16節が残るなら、福音の 本質は誤りなく伝えられるであろう」と語りました。これは極端な表現ですが、ルターはここに「福音の 本質」すなわち「キリストの御業」の全てが語られていると申しているのです。十字架による贖いの出来 事です。私たちが教会生活者となることは、この十字架のキリストが下さる新たな生命に連なることです。 このことが「福音の本質」なのです。このあとニコデモが出てくるのは同じヨハネ伝の19章39節です。 そこではニコデモは主イエスの葬りのために「没薬と沈香を混ぜたものを百斤」持ってきた人として記さ れています。ニコデモはキリストを信ずる者になったのです。だから主をまだ新しい墓に葬ったのです。 その墓が復活の生命の門になるのです。  「神はそのひとり子を賜わったほどに」とありますが、この元のギリシア語は「犠牲として献げる」と いう意味です。神が私たちを愛し給うその愛は、実にその最愛の独り子を「犠牲として献げ」給うたほど のものであると言うのです。太宰治の短編に「雀」という作品があります。ある場末の温泉場に滞在して いた兵隊帰りの青年が射的場の主人と懇意になります。ある日この青年が面白半分に店の空気銃で店番の 少女の背中を撃つのです。少女は思いがけないほどの怪我をしてしまう。それを見た途端、その少女の父 親である店の主人が烈火のごとく怒るのです。「何をするのだ、医者を呼べ」と怒鳴るのです。その凄まじ い怒りに直面して、この青年は遊蕩気分から人生の厳粛さに引き戻されるのです。わが子を想う親の愛ほ ど厳粛かつ真実なものがあるだうか。自分はその「厳粛な愛」を傷つけたのだと悟るのです。自分は戦場 で人間の真実を見て来たのだと自負していた。しかし何も見ていなかったということに気がつくのです。 戦争という行為の想像を絶した残酷さを改めて思わされるのです。  同じように、私たちは愚かにも、自分がおかした罪の大きさに、主なる神の御怒り(悲しみ)を見てよ うやく気が付くのではないでしょうか。たとえば私たちは、御子イエスが与えられたクリスマスを慶び祝 いますが、それは父なる神の側から見るなら厳粛な“父子別れ”の場面にほかなりません。測り知れぬ私 たちの罪のために、ご自身の独子を世に賜わった父なる神の御心は、私たちに対する熾烈なまでの真実な 愛であります。実に神は「この世を愛して下さった」とありますが、その「この世」とはまさしく私たち 人間の罪の渦巻く現実の世界なのです。どこを見ても神に愛される相応しさなど全くない世界です。その 世界に神は最愛の独子を「犠牲として献げ」て下さったのです。まさにそのことを、同じ新約聖書ローマ 書5章6節以下はこのように語ります。「わたしちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信 心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善 人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのため にキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。  私たち人間は、相手の「正しさ」を理由にその人のために生命を犠牲にはできません。しかし「善人」 すなわち恩義を感じた人のためになら「進んで死ぬ者も、あるいはいる」かもしれない。こういう私たち にとって絶対にありえないのは、自分にとって敵である者、自分を憎み呪う者の「ために死ぬ」ことです。 それならばキリストは、私たちが「まだ罪人であった時」に私たちのために「死んで下さった」かたなの です。いわば、自分を害する者、敵対する者、不利益になる者のために、キリストは十字架にかかって下 さった。そのことによって「神はわたしたちに対する愛を示された」。そこに驚くべき「福音」の本質があ るのです。「それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。この「永遠の 命」とは、神によって私たちが「神との正しいあるべき関係を回復すること」です。ぶどうの枝は幹から 切り離されて生命はありません。同じように私たちも「幹」であるキリストから離れて本当の生命はあり 得ないのです。肉体においては生きていても魂においては死んでいるのです。私たちには例外なく神の前 に大きな「罪」があるのです。神はその私たちの罪を放置なさらない。私たちが罪の内に滅びることを許 したまわない。私たちを救うために独子イエス・キリストを犠牲として世にお与えになったのです。ご自 身の最愛の独子を賜わってまでも私たちを救って下さったのです。そこに全世界に対する熾烈なまでの神 の愛があるのです。「幹」から離れた私たちを再び幹に連ならせて下さるために、キリストは十字架にかか って私たちの“罪の贖い”となって下さった。それこそ「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の 命を得るため」なのです。この「御子を信じる」ことこそ、教会生活者として生きることです。教会に結 ばれた者となることです。教会はキリストの十字架と復活の身体です。だから私たちは教会に結ばれるこ とによって、キリストの十字架と復活の恵みにあずかる者とされるのです。  今朝、併せてお読みした旧約聖書エレミヤ記4章19節に「ああ、わがはらわたよ、わがはらわたよ、 わたしは苦しみにもだえる」とありました。罪をおかしたイスラエルの民に対する神の御心が現れている ところです。この「はらわた(が苦しむ)」というのは、神がご自身を全く犠牲とされて、罪の塊のような 私たちを覆って下さる恵みをあらわす言葉です。神はその独子を賜わってまでも、神の敵対者でしかあり えなかった私たちを、御自身の愛する民(神の民)と呼んで下さるのです。愛には2つの種類の愛がある のです。第一の愛は、愛する対象に自分の愛を注ぐ価値があるから愛する愛。これをギリシア語では“エ ロース”と呼びます。いわば「価値追求的な愛」です。私たち人間の愛は全てこれです。相手に「愛する に足る価値」があるから愛する。だからその愛は自発的ではなく「対象の価値に従属する愛」です。価値 がなくなれば愛も冷めるのです。そこに決定的な限界があるのです。  これに対して、聖書が語る神の愛“アガペー”は、愛する対象にたとえ愛するに足る価値がなくても、 対手をそのあるがままに愛する愛です。それは相手の価値に従属する愛ではなく、むしろ愛することによ って相手に無限の価値を与える「価値創造的な愛」です。今朝のヨハネ伝3章16節を含め、聖書はその “アガペー”のみを語ります。神の愛は値なき私たちを限りなく愛し、ご自身を犠牲として献げたもうキ リストの愛です。だからこそヨハネ第一の手紙4章8節以下にはこのように告げられているのです。「神 は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。そ れによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、 神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわし になった。ここに愛がある」。  ヨハネは「ここに愛がある」と、あたかも、私たちが本当の愛を知らなかった者であるかのごとく「こ こにこそ(私たちを生かしめる)真の愛がある」と、全世界に宣言しているのです。本当に私たちはこの 愛を知っていたでしょうか。神の熾烈なまでの愛を、本当は知らぬままに過ごしてきたのではないでしょ うか。神の愛はいま、十字架の主キリストによって、私たち一人びとりに注がれているのです。この福音 の喜びを知るゆえに、ヨハネは、さあ、あなたもこの愛に、この福音に生きる者となりなさい、甦りの生 命に連なる者となりなさい、あなたが罪と死の淵から立ち上がる時はいま来ている、あなたを贖って下さ る主がいま来ておられる、あなたを愛し、ご自分の生命をさえ献げて下さった主があなたの救い主であら れる、だから安心して立ち上がりなさい、平安の内に歩みなさいと告げているのです。「御子を信じる者」 は「ひとりも」滅びることはないのだ。そのように宣べ伝えつつ、御言葉と聖霊において、いま全ての人々 に出会っておられる主をさし示してやまないのです。この主は、まさしく、あなたのために世に来られた。 この主は、あなたの絶望と無力をさえ担われて、十字架にかかって下さった。この主のもとにこそ永遠の 生命があります。私たちの生きるべき本当の幸い、本当の自由、本当の喜びと感謝が、この十字架の主の もとにあるのです。主は教会において、教会を通して、全ての人々を、永遠の生命に招いておられます。 この主の招きに「アーメン」と応え、信仰をもって従う私たちでありたいと思います。