説    教     申命記6章10〜19節   ルカ福音書4章1〜13節

「荒野の誘惑」

2014・03・30(説教14131530)  「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」。主イエスがヨルダン川でバプ テスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、神の御声が天から響きました。主イエスの公のご 生涯(公生涯)は父なる神の聖別のもとに始まったのです。しかし聖書はそのすぐ後で、主イ エスが荒野で「悪魔の誘惑」に遭われた出来事を告げています。人間的に申しますならまこと に「幸先の悪い」スタートです。私たちも明後日、新しい年度の始まりを迎えようとしていま す。消費税率が8パーセントになるなどのことがあります。しかし私たちはやはり「幸先の良 い」年度のスタートをしたいと願っています。そういう意味からすれば、主イエスの歩みの最 初が「荒野の誘惑」とは、どういう意味があるのでしょうか。  しかも、主イエスをその「荒野の誘惑」へと導いたものは「聖霊」でした。父なる神ご自身 が御子イエスを荒野に導いたのです。これも不思議なことです。「汝はわが愛する子、わが心 に適う者なり」と宣言して下さった神が、御子イエスをいきなり「荒野の誘惑」に誘われた。 譬えて言うなら、洗礼を受けた途端に戦争と飢饉と大災害が襲ってきたようなものです。私た ちなら神の御心を疑うような出来事です。そこで、悪魔は荒野において40日間主イエスを試 みました。この「荒野」とは、私たちの世界また私たち自身を示しています。ですから主が40 日間なにも食べず、その後に「空腹」を覚えられたということは、私たちを養う唯一まことの 「糧」が神の言葉であることを示しています。言い換えるなら「神の言葉以外の飢え渇き」を もって悪魔は主イエスを試みようとしたのです。悪魔は主イエスを神から引き離そうとしたの です。  すなわちその第一の誘惑は「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じ てごらんなさい」というものでした(3節)。「天地万物を創造した神の子ならば、そんなこと は朝飯前ではないか」と悪魔は言うのです。実際「ユダの荒野」にはパンのような形の石がた くさん転がっています。悪魔の言うとおり「石ころがパンに」なれば世界中の食糧問題は一挙 に解決し、飢えや貧困はなくなるかもしれない。それは同時に「物質的な富をもたらさない“救 い主”ではこの世の人々は納得しないぞ」という脅しでした。「石ころをパンにしてみろ」と いう悪魔の誘惑は「お前が救い主である証拠を見せてみろ」という誘惑でした。  これと同じ声は、私たちにも聞えて来るのではないでしょうか。「お前が信じている“救い” とは何か?。現実の貧困や経済格差を解決できない“救い”は虚しいのではないか」という声 です。そう言われてみますと、実は現代の日本は社会格差が広がり、不平等感が拡大していま す。消費税だけではなく医療負担や年金問題も大きな課題です。いわば表面だけの「豊かさ」 の陰でたくさんの「飢え渇き」が放置されています。だから「石ころをパンに変えてみろ」と いう悪魔の誘惑は私たちには切実な問いなのです。まさにこの悪魔の声に対して、主イエスは 「人はパンのみにて生くるにあらず。神の御口より出づる一つひとつの言葉によるなり」と、 申命記8章3節の言葉をもって応えたまいました。主イエスは石ころをパンに変えることがで きたはずです。しかしもしそれが「救い」だとしたら、主イエスは「キリスト」ではなくただ の超能力者に過ぎません。たとえ世界中をパンで溢れさせたとしても、それは人の魂を救い、 まことの神に立ち帰らせる「救い」ではないのです。主イエスは「人は神の言葉によってのみ 真に生きたものとなる」ことをはっきりとお示しになったのです。悪魔の第一の誘惑はかくし て退けられたのです。  しかし悪魔は、そこで諦めません。第二の誘惑を繰り出して来ます。次に悪魔は主イエスを 「高い所へ連れて行き」世界の全ての国々を見せて申しますには「これらの国々の権威と栄華 とをみんなあなたにあげよう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげて よいのだから。もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあ げよう」(6〜7節)と言うのです。本当でしょうか?。いつ世界の一切の権威が悪魔に「任さ れた」のでしょうか。それらはいつ悪魔が自分勝手に分配できる「悪魔の所有物」になったの でしょうか?。  そこで、実は私たちは「もしかしたらそうかもしれない」と思うことがあるのではないでし ょうか。「もしかしたらこの世界は、主なる神ではなく、悪魔の実効支配のもとにあるのでは ないか」という思いです。つい最近知ったのですが「無敵の人」というのがふえているそうで す。自分に失うものは何もなく、ただ絶望だけが支配しているとき、人はどんなに残虐なこと も平気で出来るようになります。通り魔殺人などがその代表例です。国と国、民族と民族、主 義と主義の対立抗争が激化しています。そういう現実を見るとき、もしかしたらこの世界の実 効支配は本当に悪魔の手に委ねられているのではないか、世界の本当の主人は実は悪魔なので はないか。「(国々)はわたし(悪魔)に任されている」と言われたら「なるほどそうかもしれ ない」と納得してしまう、そういう誘惑が世の中には満ちているのです。言い換えるなら、神 の言葉以外のものに信頼する誘惑です。「神のなさることは手ぬるい。この世の方法のほうが (悪魔の実効支配のほうが)効率的で確実である」という思いです。伝道もそうした誘惑に直 面します。人々を集めるイベント、喜ぶ言葉を語れば、もっと効果的な伝道ができるはずだ。 時代の要求に適した方法を取り入れ、教会を社会と同化させるべきだ。「ただ福音のみを語る」 だなんて古臭くて時代にそぐわない。教会もそうした誘惑に陥ることがあるのです。まさにこ の誘惑に対して、主イエスは明確にお答えになります。「『主なるあなたの神を拝し、ただ神に のみ仕えよ』と書いてある」と!。これこそ私たちを惑わす全ての誘惑を打ち砕く明確なお答 えです。「神を拝し、神に仕える」ことがなければ、実は人間のことは何もわからないのです。 この世界と歴史、そして私たちの唯一の「主」はイエス・キリストの父なる神であられるので す。  策略を見抜かれた悪魔は、いよいよ最後の誘惑に出ます。悪魔は主イエスをエルサレム神殿 の頂上に立たせて言うのです。「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてご らんなさい」(9節)。しかも悪魔は、今度は主イエスの勝利を逆手に取り、今度は聖書の言葉 によって自分を正当化しようとします。すなわち悪魔は詩編91篇11,12節を引用して言うの です。「『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、 『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書 いてある」。つまり悪魔の最終手段は、聖書の言葉を借りて私たちを誘惑しようとすることで す。「聖書にこう書いてある以上、神は必ず実現して下さるはずだ。詩篇に『飛び降りても怪 我をしない』と書いてあるのだから、ひとつここから飛び降りて、みんなをあっと言わせたら どうか。あなたにはそれを神に求める権利があるはずだ」と言うのです。これは神と取引をす ることであり、ある意味で信仰者にとって究極の誘惑です。「取引」とは自分を神と同じ立場 に置くことです。自分を神とする誘惑です。まして主イエスは神の子なのです。 ところがし主イエスは、申命記6章16節の言葉をもって、この究極の誘惑をも退けたもうた のです。「主なるあなたの神を試みてはならない」。聖書の言葉を利用した誘惑に対して、主イ エスは聖書の言葉をもって退けられたのです。聖書の誤った理解によって神と取引し神を試す 誘惑に対して、主イエスは聖書の正しい理解と、そこから始まる新しい生きかたをお示しにな りました。私たちもまた、現実のあらゆる問題(誘惑)に対して、主イエスが戦われたように 戦うのです。もっと正確に言うなら、主イエスが既に勝利して下さっているからこそ、私たち は確信と平安をもって世の難問に立ち向かうことができるのです。主が勝利して下さった戦い を戦う者とされているのです。  悪魔はありとあらゆる誘惑を終えて「時」が来るまで主イエスを離れました。次に悪魔が主 イエスに近づいたのは、イスカリオテのユダに主イエスを裏切らせた時、つまり主イエスを十 字架の試みに遭わせるその「時」でした。同じルカ伝22章3節に「十二弟子のひとりで、イ スカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」とあるとおりです。主イエスが十字架 にかかられた時、民衆や議員らや兵士らは主を嘲り罵って言いました「他人を救ったのだ。も し神からのキリストで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。「お前がユダヤ人の王なら、自 分を救ってみろ」と。私たち人間は救い主を十字架にかけ「もし神からのキリストなら」「も し選ばれた者なら」「もしユダヤ人の王なら」当然こうするはずなのに、お前にはできないで はないかと言って、神(主イエス)を「試みる」のです。神を「誘惑する」のです。そうだと すれば、あの主イエスを荒野で誘惑した悪魔は、実は私たちを代表して神を試みたのです。こ の「悪魔」はすなわち私たちの内にある「罪」の別名なのです。  まさに、その私たちを「罪」から永遠に救うために、主イエス・キリストは、全ての「誘惑」 に打ち勝って下さいました。あの最後の十字架においても、誘惑に負けて自分で十字架を降り るということはなさらなかった。それは人々の思いどおりに姿を現す神になることを退けたと いうことです。ギリシヤ神話ではなにか絶体絶命の危機に陥ったとき、最後に神が現れて解決 し“万事めでたし”で終わることがよくあります。ある神学者がそれを「機械仕掛けの神」(Deus ex machina)と呼びました。人間の思いどおりに動く機械のように、私たちの期待するとおり の救いを出してくれる神。私たちはそれと同じような「機械仕掛けの神」を期待するのです。 しかし、私たちの信じるまことの神はそのようにご自身を現されません。そうではなく、私た ちの思いを遥かに超えた仕方で、神は驚くべき救いの恵みを現して下さいました。それこそ神 が十字架に御子をお渡しになり、御子イエスが神に対する私たちの「罪」を引き受けて、滅び としての死を死んで下さったという驚くべき「救い」でした。  私たちは「このような世界に、どうして神がおられるなどと言えるのか」「神がおられるな ら、なぜこんなに不条理なことが起こるのか」そう叫びたくなることがあります。それこそ「機 械仕掛けの神」を求めることがあるのです。それこそ悪魔の誘惑であり、私たちの「罪」が自 分を神とするのです。教会生活が自分の思うままにならない時、人間関係の中で躓きを覚えた 時、信仰に弱さを感じて神に信頼できなくなった時、教会から離れ、神から離れるのが良い方 法だ、少し冷めた距離に立つのが良いことだ、などという「誘惑」に簡単に陥るのです。イス ラエルの民が荒野の旅路で神を試みたように、私たちも試練の中で、自分の思いのままの形に ならない神に背を向け、あの悪魔のように「もしあなたが神の子であるなら」と言い始めるの です。  けれども、そのような全ての誘惑をすでに退け、私たちの中の悪魔(罪)に、この世界を実 効支配しているかのような闇の力に、いま既に打ち勝って下さっているかたがおられるのです。 弟子たちが誘惑に負け、ゲツセマネの園で眠ってしまった時にも、彼らのために祈り十字架へ の道を歩んで下さったかたがここにおられるのです。私たちがまなざしを注ぐべきはこの十字 架のキリストのみです。このかたが悪魔の誘惑に既に勝利して下さったゆえに、私たちに忍び 寄るいかなる誘惑も、もはや私たちを実効支配することはないのです。既に誘惑に負けた心の 傷があっても、このかたが包み癒して、再び私たちを信仰の道に立たせて下さいます。「わた しが贖ったあなたを、わたしが最後まで背負い、担い、救い出す」と言われたかたは、私たち を堅く支え続けて下さいます。そのようにして私たちは御言葉に堅く踏み留まるのです。教会 に踏みとどまるのです。十字架のもとに堅く立ち続けるのです。十字架のキリストを見上げ続 けるのです。そのとき私たちは、それら全ての試練もまた神の恵みであった。万事が益となる べく共に働いたのだと。そのことを豊かに知らされるのです。  どうかこの受難節(レント)にあたり、全ての誘惑に打ち勝たれ、全ての悪魔の試みを退け て下さった主のご支配と祝福が、私たちを、この私たちの教会を、そして全世界を、覆い包ん でいて下さることを覚えつつ「願わくはわが思いにあらで、御心をなしたまえ」との祈りをも って、新しい一週間を歩みたいと思います。