説    教    詩篇117篇1〜2節   ルカ福音書1章67〜80節

「ザカリヤの讃歌」

2014・03・23(説教14121529)  「アビヤの組の祭司」ザカリヤはエルサレムの聖所で神に仕えていたとき、天使からの御告 げを受けます。それはルカ伝1章13節以下にある、バプテスマのヨハネ誕生の約束です。「恐 れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産 むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多く の人々もその誕生を喜ぶであろう。彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒を いっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、そして、イスラエルの 多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。彼はエリヤの霊と力とをもって、み まえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた 民を主に備えるであろう」。  しかしザカリヤは、神のこの約束を最初は信ぜず、人間的な判断で撥ね付けてしまいます。 自分は老人で、妻も年をとっているのに、どうしてそんなことがあるだろうか。ザカリヤは神 に約束の「しるし」(保障)を求めました。主なる神を試みたのです。これに対して神がザカ リヤ与えたもうた「しるし」は、ザカリヤ信じるまで口が利けなくなる(話すことができなく なる)というものでした。だからこの「しるし」は信仰への招きです。ザカリヤはこの「しる し」を信じ、生まれた子供に先祖の誰も名乗らなかった「ヨハネ」という名をつけました。ザ カリヤの口が開かれたのは、その信仰の応答をした瞬間でした。その信仰の応答と讃美が、今 朝の御言葉・ルカ伝1章67節以下の「ザカリヤの讃歌」に現れているのです。これは最初の ラテン語を取って「ベネディクトゥス」と呼ばれている讃歌です。  そこで、この讃歌においてザカリヤは、与えられた子ヨハネが将来さし示す「来たるべきか た」の来臨(十字架の主のご生涯)を証する者として、いまその救いの音信のゆえに、全く新 しいものとされたこの世界と私たちの人生を見つめ、神にのみ讃美と栄光を献げています。そ れゆえにこの讃歌の前半は、ヨハネがさし示すことになる主イエス・キリストによって現され る、全世界に対する神の救いの御業を歌うものです。68節以下です「主なるイスラエルの神は、 ほむべきかな。主はその民を顧みてこれをあがない、わたしたちのために救の角を、僕ダビデ の家にお立てになった」。「角」とは旧約聖書において「救い」または「強き力」の象徴です。 旧約の民は「会見の幕屋」や「神殿の祭壇」の四隅にある青銅製の突起を「角」と呼び、そこ に掴まることによって神に守られ、あらゆる危険から逃れることができました。まさに「角」 は「逃れの場」であり「堅き救いの砦」でした。それと同じように、私たちもまた人生の歩み の中で、十字架の主イエス・キリストを信じ、キリストに繋がっている(留まっている)なら ば、必ず豊かな救いを与えられるのです。だから「ザカリヤの讃歌」ははっきりと、十字架の キリストこそ「救の角」であると告げているのです。  なによりも、主イエスみずからヨハネ伝16章33節に語っておられます。「あなたがたは、 この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。そ う語って下さる十字架の主が、私たちに求めたもうのは信仰です。すなわちヨハネ伝15章4 節「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしもあなたがたとつながっていよう」。 たとえ私たちの“繋がりかた”は弱くても、主が堅く私たちを捕えていて下さる。その事実こ そ私たちにとって「救の角」なのです。神はまさに、この「救いの角」である主イエスをダビ デの家に(歴史のただ中に)起こして下さいました。それは今朝の70節にあるように「古く から、聖なる預言者たちの口によってお語りになった(こと)」の実現であり、主が「わたし たちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、すなわち、父祖アブラハムにお立てにな った誓いをおぼえて、わたしたちを敵の手から救い出し、生きている限り、きよく正しく、み まえに恐れなく仕えさせてくださる」ためでした。  それはかつて、主なる神がアブラハムに約束された救いと祝福の約束の成就です。創世記22 章17節「わたしは…大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにす る。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福 を得る」。同じく創世記12章2節以下「わたしはあなたを大いなる国民とし あなたを祝福し、 あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する人をわたし は祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福 される」。同じく創世記17章4節以下「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の 父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと 呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである」。神はこの受難節(レ ント)において、私たちに宣言しておられるのです。あなたもまた、アブラハムの子(救われ たる民)とされているではないか。あなたこそ「敵の手から救われ…みまえに恐れなく(主に) 仕える」(74節)者とされているではないか。少しも私たちの功績ではありません。ただ「救 の角」なる十字架の主イエスを世に与えて下さり、これに掴まりなさい、これに枝として繋が りなさい、この十字架の蔭に立ち続けなさい、と招き命じて下さった神の恵みのみが私たちの 変わらぬ救いなのです。  ザカリヤの子である洗礼者ヨハネが証したのは、まさにこの唯一の救い主(救の角)キリス トの十字架です。救いは私たちの内にではなく、ただ十字架のキリストにのみある。それが洗 礼者ヨハネの告げた福音です。ヨハネは全生涯をかけて十字架の主のみをさし示したのです。 中世ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトが描いた有名な“イーゼンハイムの祭壇画” という絵があります。あの中で十字架のキリストの右側に立ち、まっすぐにキリストの御傷を さし示しているのがヨハネです。その下にはラテン語で“エッケ・ホモ”(この人を見よ)と 記されています。ヨハネの宣教、否、教会の宣教の言葉はこれに尽きるのです。キリストの到 来に備えて、主に先立って行き、その道を整えるのがヨハネの役割です。だからこそヨハネの 手は十字架の御傷のみ(「来たるべきかた」のみ)を示しています。私たちの(この世界の) 救いは来たのです。いま来ているのです。歴史のただ中に神の救いの御業が現れているのです。 だから神の「憐れみ」という言葉が「ザカリヤの讃歌」にはたくさん出てきます。その元々の 意味は「十字架による完全な救い」(イエス・キリスト・神の子・救い主)です。来たるべき 「時」が十字架によって実現したのです。あなたのために主が十字架で死なれたのです。全世 界の罪の贖い主が、永遠に共にいて下さるのです。その「時」の出発点にも終着点にも主イエ スが立っておられる。そのことを喜び証しする言葉がこの神の「憐れみ」です。それならこの 「憐れみ」は、私たちへの一方的かつ無償の「救い」です。熾烈なまでの十字架の愛です。歴 史を「救い」へと導く神の真実な愛です。預言者イザヤはこの揺るがぬ“神の真実の愛”につ いて、イザヤ書40章6節以下にこう語っています。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野 の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯 れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は、とこしえに変わることはない」。この「と こしえに変わることはない」とは「永遠に揺るぎなく立つ」という意味です。私たちの「救い」 と全世界の祝福と平和のために「永遠に揺るぎなく立つ」かたこそ十字架の主キリストなので す。ザカリヤの讃歌はその十字架による揺るぎなき「救い」を全ての人に宣べ伝え、主のため に荒れ野に「道を備えよ」と告げるのです。「道を備えよ」とは信仰への招きです。真の礼拝 への招きです。いま私たちが献げている礼拝です。それが世界の救いと祝福に直結しているの です。なぜなら「荒地」に(この世界と歴史に)神の栄光が現される「時」がいま来ているか らです。  このように「信仰」によって整えられる「主のための道」を歩むとき、私たちは「真の平和 への道」(主の平和の道)を歩む者とされます。十字架の主が「全ての人を照らすまことの光」 として来臨しておられるからです。少し季節はずれですが、あの最初のクリスマスのベツレヘ ムの夜空に響いた天の万軍の讃歌に、私たちもまた唱和するのです。「いと高きところには、 神に栄光があるように。地の上では、御心にかなう人々に平和があるように!」。永遠に変わ らぬ人類の希望の光が、すでに地上を(歴史と私たちの人生を)照らしています。レントはこ の変わらぬ光を受け、この光の内を歩む時です。ただ「上からの日の光」(キリストの来臨) のみが私たちを「恐れに満ちた闇の夜」から「驚くべき光の中へ」と招き入れるのです。主の 十字架よりさし来たる「光」の中に喜んで身を委ねようではありませんか。  最後に78節以下を改めて心に留めましょう「これはわたしたちの神のあわれみ深いみここ ろによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰と に住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。ヨハネの道備えの果てには、 主の御名によって「来たるべきかた」、主イエス・キリストが来て下さいます。ここに起こさ れた「救いの角」を喜び感謝し「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」証しの歩みに新し く歩みだす、神の民の群れとされて参りたく思います。