説    教    エレミヤ書3章15〜17節  ピリピ書1章3〜11節

「来臨の主の恵み」

2014・03・09(説教14101527)  「もうすぐ世の終わりが来る」こういうことを声高に叫ぶ団体が定期的に現れます。たとえば私たち は「世の終わり」(ハルマゲドン)を標榜して未曾有の犯罪を起こしたオウム真理教のことを忘れていま せん。世界的に見るならイスラム原理主義など、反社会的言動を唱える団体がテロリズムをもたらして います。それでは、聖書はどのように「世の終わり」を告げているのでしょうか。たしかに聖書を読む とき「やがて世の終わりが来る」ということが書かれています。例えばマルコ伝13章やルカ伝17章 などには「神の国」がどのようにして来るかということが、かなり具体的に「世の終わり」として描か れています。「ノアの洪水」や「ソドムとゴモラの滅亡」が引き合いに出され「人の子(キリスト)が現 れる日にも同じことが起こる」と告げられています。  その日、私たちは荷物をまとめることも、いったん家に戻ることも許されず、同じ場所で同じ事をし ていても、二人のうち一人しか残されない(助からない)と主イエスは言われるのです。この具体的か つ不思議な譬えは、たとえば東日本大震災のような想像を絶する恐ろしいことが次々に起こる、そうい う不安をかきたてるかもしれません。それでは、私たちはこうした御言葉を、どう受けとめるべきなの でしょうか。大切なことは、聖書で(主イエスの言葉で)「終わり」を意味する“エスカトン”という言 葉は「完成」(救いの完成)を意味することです。しかもそれは、いまこの歴史の中で(私たちの人生の ただ中で)与えられている来臨の主の恵みなのです。「神の国は近づけり」とは「神の国はいまあなたと 共にある」という恵みの宣言です。それなら私たちは「救い」としての「世の終わり」に、来臨の主イ エス・キリストにおいて直面しているのです。  「密林の聖者」と呼ばれ、アフリカ・ガボン共和国で医療活動に従事したアルベルト・シュヴァイツ ァーは、医師であると同時に音楽家・哲学者であり、何よりも優れた神学者でした。シュヴァイツァー はオーゴウェ川上流のランバレネで医療活動を行うなかで、神学に関する著作を続けました。1965年、 彼はランバレネで90年の生涯を閉じましたが、遺品である麻袋の中から一つの原稿の束が見つかりま した。『神の国とキリスト教』と題されたその原稿には一行目にこう記されています。「キリスト教は本 質的に神の国の到来を信じる宗教である」。シュヴァイツァーにとって「世の終わりが来る」とは、神の 御子イエス・キリストによって歴史の全体に(この世界そのものに)測り知れない意味が(生命が)「救 い」が与えられていることです。だから彼は徹底的にこの世に存在する矛盾と課題のなかに身を置き続 け、キリストの証人として生きたのです。その彼を最後までとらえ続けた関心事、彼を慰め力強く支え た出来事、そして最後に彼が残した言葉が「来臨されるキリスト」(神の国)への揺るがぬ信仰でした。 これは私たちの信仰生活においてもとても大切なことです。私たちは「世の終わり」という事柄を福音 として、シュヴァイツァーのように徹底的に「この世のただ中で、キリストと共に生きる」という喜び と幸いの音信として、受けているからです。それが聖書の語る本当の「世の終わり」であり、それは私 たちの人生の終わりである「死」においても同じ力強い慰めをもって私たちを支えるのです。福音の本 質がそこに輝いているのです。  今朝、私たちは、ピリピ人への手紙の冒頭の部分1章3〜11節を与えられました。ピリピ書はロー マで牢獄に囚われていたパウロが、ギリシヤの町ピリピの教会に宛てて送った手紙です。そこで今日の 御言葉において、世の終わりは「キリスト・イエスの日」あるいは「キリストの日」と表現されていま す。パウロはこのことを軸に福音を語っているのです。そこで告げられている事柄は、キリストによる 福音(喜びと解放の音信)であるゆえに、歴史の主であられるキリストと共に「いま」を生きる(永遠 なる神に結ばれて「いま」がはじめて私たちの喜びの現実となる)という喜びの報せです。なによりも 前半部分の6節において、パウロは「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イ エスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」と語っています。この「良いわ ざ」とは、漠然とした言葉ではないのです。前後の文脈から見てパウロは、私たちが“福音によって生 きること”そして“福音のゆえに受ける試練に打ち勝ち、伝道と教会形成に励むこと”すなわち隣人に 対してキリストの恵みと祝福を証しすることを、明確に「良いわざ」と語っているのです。  だからこそパウロは「わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である」とさえ申し ます。「当然である」というのは、キリストの恵みに生かされている私たちが、あるがままにキリストに 従う者(御国の民)とならせて戴いているという事実を指します。そして7節にある「考える」という 言葉は、ギリシヤ語で“フロネイン”という言葉ですが、新約聖書全体で5個所しか出てきません。そ のうち3個所がこのピリピ書で残る2個所はローマ書です。この“フロネイン”とはパウロに特徴的な 言葉です。この言葉が使われている文脈をよく観ますと、「真の謙遜」あるいは「キリストによる一致」 または「信仰による新しい生活」という事柄で用いられていることがわかります。パウロは「終わりの 日」まで神が「良いわざ」を私たちに与え、それを完成へと導いて下さるということを、当然のごとく に確信しているのです。  それは、なぜでしょうか。それは、私たちのために神が、御子イエス・キリストを世に賜わったから です。それ以外に理由などありません。その恵みの出来事(ご降誕と十字架と復活の出来事)の内にこ そ、私たちは喜びと感謝をもって「真の謙遜」「キリストによる一致」「信仰による新しい生活」を持つ 者とされているのです。神が私たちに与えられた「良いわざ」、すなわち福音によって生きる新しい生活 は、私たちが来臨(アドベント)の主イエス・キリストに、堅く結ばれて生きる新しい生活のです。そ れこそがパウロの「確信」であり、私たちの「確信」でもあるのです。ですから“終わりの日まで使命 が与えられている”私たちキリスト者の信仰による歩みは、神から無理難題な難しい課題を与えられて 「私にはそんな力はありません」と自分の無力を嘆き呟く生活ではありません。そうではなく、私たち の人生そしてこの世界の歴史には測り知れない意味があり、神は私たちをご自身へと導いて下さるため に、独子キリストを与えて下さった。だから、その日(キリストの日)が来るまでの一日一日の歩みに おいて、私たちはキリストの「謙遜」と「一致」そして「信仰による新しい生活」を、教会を通して、 祝福として確かに与えられているのです。そこに共に生きる喜びをいま戴いているのです。  まさにいま、私たちのもとに来臨して下さっているキリスト(アドベントの主)の恵みにおいて、私 たちは「いま」堅く支えられつつ、教会の(信仰の)完成へと導かれてゆくのです。ですから福音にあ ずかって試練を受けることも恵みですし、その歩みの中で人々と共に愛に生きることも恵みなのです。 受けた苦難をも恵みであると言えるのです。終わりの日にその完成にあずかるからです。全てのことが 「恵み」なのだと言わざるをえないのです。聖書が「世の終わり」を語るとき、それは「いま」を犠牲 にする虚無を語ることではありません。それが「キリストの日」であるゆえに「いま」を(つまり罪の 私たちを)贖うために主が来臨されたという喜びの事実を語るのです。まさに「いま」(私たち)をキリ ストは愛し贖って下さった。言い換えるなら、パウロはこのピリピ書において、どうか「いま」を大切 に生きようではないか。なぜなら神は私たちの歴史のただ中に、私たちの罪のどん底に、御子をお遣わ し下さったからだと宣べ伝えているのです。今日という日を神の「恵み」として受け取ろうではないか。 完成の日をめざして「いま」を主に結ばれつつ生きる者となろうではないか。  ですからパウロは8節で、ピリピの教会に対して「わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どん なに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である」と語っています。 もはや自分の愛以上に「キリストの熱愛」のみが大切なのです。キリストこそ唯一の救いの主語なので す。キリストのみが唯一の救い主なのです。この「熱愛」とは原語では“スプランクナ”という言葉で す。エレミヤ書4章19節でも明らかなように、もともとは「内臓」をあらわし、神の贖いの熱愛(十 字架の御業)を意味する言葉です。つまり、パウロはここで、人間的な愛ではなく、キリストの熱愛の 上に(十字架の御業の上に)教会が建てられていることを明らかにしています。「いま」あなたがたのた めに来臨したもうキリストの「熱愛」を見なさい。あなたのために来られたキリストの「熾烈な愛」に 心をとめなさい。ここにこそ、全世界に対する神の救いの御業がある。その「最初」も「いま」も「完 成」も全てキリストの内にあるではないかと告げているのです。  まさにその恵みを明確に受けてこそ、前の7節が語られています。「わたしが獄に捕われている時に も、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深 く留めているからである」。ピリピの教会にも様々な弱さや欠点がありました。しかしパウロは、たとえ 獄中にあろうとも、ピリピの教会がキリストの「熱愛」の上に堅く建てられ「共に恵みにあずかる」群 れとされていることを「心に深く留めている」ゆえに、ただ主に讃美と栄光を献げます。そこにこそ変 わらぬ喜びと感謝があるのです。だからこそ共に、ただ来臨のキリストの恵みにまなざしを留めつつ、 教会生活に励もうではないかと勧めているのです。私たちが御言葉に根ざし御言葉を基として生活する とき、神はその群れを豊かに導いてかならず栄光の完成へと至らせて下さいます。今朝の9節以下の御 言葉が成就するのです。「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚にお いて、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、 キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に 満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように」。  これ以上の祝福と幸いがどこにあるでしょうか。特に心に留めたいのは「イエス・キリストによる義 の実」という言葉です。「義」とは「神の前での正しさ」です。私たちのどこにもその正しさはありませ ん。それは来臨して下さったキリストが、その十字架による贖いによって、信ずる者たちに無償で与え て下さる新しい喜びの生命です。私たちはそれに「満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至る」 のです。神を崇めえなかった私たちが、神の御業を物語る器とされる喜びです。罪によって死んでいた 私たちを、主は甦らせて御国の民として下さったのです。だから、ルカ伝17章20節に主はこう語ら れました。「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』 などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。  この「あなたがたのただ中にあるのだ」という主の御言葉は、恵みによって主の教会に連なる私たち に約束された大いなる祝福です。まさに主は「いま」約束して下さいます。「私が贖った教会に連なるあ なたの人生は、いつ、いかなる時にも、私と共にあるのだ」と。同じように、この世界全体に対して、 私たちの教会のゆえに、主はこの葉山を、世界全体を、限りなく愛し、祝福へと導いて下さるのです。 どうかこの受難節(レント)にあたり、私たちはその想いを深くして参りたい。来たりたもう「来臨の 主」の前に悔改めと感謝をもってたたずみ、祈りを深めつつ、イースターの喜びを共に迎えたいと思い ます。