説     教     ルカ福音書21章1〜4節

「 神への奉献 」

2014・10・13(東海教会全体修養会)  それはエルサレム神殿の「異邦人の中庭」と呼ばれている境内でのことでした。そこに聖所に向かって 大きな金属製のラッパの形をした「さいせん箱」が13個並んでおり、主イエスは「群集がその箱に金を 投げ入れる様子を見ておられ」たのです。さいせん箱の傍らには係員が立ち、大きな声で「誰それが幾ら の献金」と人々に報せる仕組みになっていました。そして硬貨が金属製の筒を通るとき、華やかな音を立 てたことも自尊心をくすぐるに十分な演出でした。そこにひっそりと、貧しい一人の寡婦がやって来まし た。彼女は大勢の群衆の間に交じって、心をこめて「レプタ二枚」の献金を献げたのでした。「レプタ二枚」 という係員の声がしたとき、周囲の人々から軽蔑の失笑が漏れたことでした。それは当時のユダヤの貨幣 の中で、レプタ銅貨は最も価値の低いものだったからです。  ところが、この寡婦の献げものをご覧になった主イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われました。3節 以下です「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれより もたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あ らゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。私たちは「レブタ二つの献げもの」という表現を「少 しばかりの献金」という意味で使うことがあります。しかしむしろ正反対の意味なのです。なにより主イ エスご自身がはっきり見抜いて下さいました。その「レプタ二枚」がこの寡婦にとって「生活費全部」で あったということを。だから「少ない献金」どころではない。むしろ彼女は「だれよりも多く献げた」の でした。多くの金持ちは「あり余る中から」その一部を献げたにすぎませが、彼女は生活費全部を神に献 げた(神に委ねた)からです。それほど神への感謝は大きかったのです。彼女はこの献金によって自分自 身を神の御手に委ねたのです。  かつて私たちの信仰の先達たちは「什一献金」と申しまして「全収入の十分の一」を献げる姿勢があり ました。その奉献を「当然のこと」とわきまえていたのです。いまの私たちはどうでしょうか?。いつも 「教会を支える奉献」の喜びに健やかに生きているでしょうか?。私ごとですが、私はちょうど40年前、 高校2年生(16歳)の時に洗礼を受けました。私に洗礼を授けて下さった牧師先生は、洗礼を受けたばか りの高校生の私に「献金とは自分が『痛み』を感じるほどの額を献げるものです』と教えて下さいました。 『これからのキリスト者の生涯において、あなたはいつも自分が『痛み』を感じる献金を献げる信徒であ りなさい」と指導して下さいました。私はその時の牧師先生の指導をいつも感謝をもって覚えています。 そして問うています。自分はいつも「痛みを伴う献金」をしているだろうかと。  私たちはもしかしたら「自分にはありあまる金などない」と言い訳をするかもしれません。しかしその 言い訳ならこの女性もできたのです。彼女はレプタ銅貨を「二枚」持っていたのですから、一枚は自分の 生活のため(明日のパンのため)取っておくことができたからです。しかし彼女は二枚とも(持てる全て を)神にお献げしました。言い換えるなら、彼女は自分の生活の全部を神に委ねたのです。自分の手の中 に自分を支える手段をひとつも残さなかったのです。自分の力に全く頼らなかったのです。信仰による背 水の陣を敷いたのです。ここにキリストに委ねきった新しい生活があります。十字架のキリストの内に自 分を見出す新しい喜びの人生です。主に贖われ復活の生命に覆われた新しい人生であり、キリストが「主」 であられる自由と喜びの生活です。  そこで、彼女が敷いた「背水の陣」とは、信仰告白(キリスト告白)による新しい礼拝者の生活でした。 今日のこの御言葉は、ひとつの大切な場面、そして唯一のかたへと私たちを導くのです。それはゴルゴタ の十字架という場面であり、十字架と復活の主イエス・キリストとの出会いです。事実この出来事から一 週間後に主は十字架にかかっておられるのです。十字架とは、永遠にして聖なる神の御子が、私たち罪人 を極みまでも愛し、私たちを罪の支配から贖うために、ご自分の全てを献げ尽くして下さった出来事です。 生活費全部どころではない、主はご自分の全てを献げて下さったのです。その意味で、この貧しい寡婦の 献金は、まさに私たちの罪の最底辺にまで降りて来て下さった十字架の主のみをさし示すものでした。だ から礼拝をあらわすドイツ語は「神への奉仕」という意味であるとともに「神が私たちに現して下さった 救いの御業」を意味するのです。  私たちのまなざしは、さらに「それ以後の彼女の生涯」へと誘われます。彼女はこの出来事の後に、十 字架を背負われてゴルゴタに登って行かれる主イエスのお姿、そして十字架に死なれた主のお姿を見たこ とでしょう。そしてあのローマの百卒長のように「まことにこの人は神の子であった」と告白する者とさ れたのではないでしょうか。そしてペンテコステの後、主イエスの弟子から(おそらくペテロから)洗礼 を受け、マルコの家の2階座敷に始まった「初代エルサレム教会」の教会員として、忠実な信仰の生涯を 送ったと想像されるのです。その彼女の信仰の姿、なによりも「教会への奉献」(神への感謝の献げもの) に生きぬいた信仰の姿を、初代エルサレム教会の人々は長く記憶に留めていたでしょう。そして彼女が天 に召されて後にも、聖書のこの箇所が読まれ説教されるたびごとに、ああ、懐かしいあの女性のことが描 かれている。彼女はこの出来事を通じて十字架の主に出会い、主を信じる者となり、その生涯を通じて「教 会を支える奉献」に生きた人であった。彼女の生涯を通して、神の恵みと祝福がどんなに豊かに現された ことか。神への感謝と讃美とともに記憶したのではないでしょうか。  「教会を支える奉献」のわざは、献金だけではありません。たくさんの種類の奉仕があります。主の御 用に仕える多くの働きがあります。たとえ病気で寝たきりになっても、教会のため、地域の人々の救いと 祝福のため、この国の救いのために祈る務めを担うことができます。私たちはそのような主の証人とされ た兄弟姉妹たちをたくさん知っているのではないでしょうか。その人々を記憶するたびに、彼らと共に主 の御名を讃美する喜びに満たされます。そこに私たちの自由と幸いがあることを覚えます。そして「教会 を支える奉献」のわざに生きるとき、伝道のわざもまた前進してゆきます。「あなたがたの宝のあるところ には、あなたがたの心もあるから」です。人々の心とまなざしは、他の人たちが喜んで生きるところに注 がれるからです。私たちが「教会を支える奉献」のわざに喜んで感謝をもって生きるとき、主は「救われ る者の数を(教会に)まし加えて」下さるに違いないのです。どうか私たちは、いつも十字架の主の恵み に応え、みずからを感謝の献げものとなす生涯を歩みたいと思います。その信仰の志を新たに「いそいそ と」主にお仕えするために、今日の修養会を過ごして参りたいと思います。