説    教    イザヤ書53章1〜5節   マタイ福音書8章14〜17節

「 主に従うペテロ 」

2014・03・02(説教14091526)  熱病は苦しいものです。身体に激しい熱がこもり、自分ではどうすることもできません。喘 ぎ苦しみ助けを求めますが、熱が下がるわけではありません。全身は汗にまみれ、息遣いは荒 くなり、手は宙を泳ぎます。幻覚を見たりもします。なすすべもなく、そのまま死に至るので す。そのような「熱病」に、主イエスの弟子の一人ペテロの「しゅうとめ」が苦しんでいまし た。ペテロはガリラヤ湖の漁師で、湖畔のカペナウムという町に家がありました。「しゅうと め」とはペテロの妻の母のことです。ペテロは結婚していたのです。つまりペテロには妻がお り、守るべき家庭があり、仕事を持ち、しかも病気の「しゅうとめ」がいたのです。そのよう な中で主イエスに従い、弟子となったのがペテロです。  もし常識的に考えるなら、たとえ主イエスに「わたしについてきなさい」と御声をかけられ ても「いいえ主よ、私はあなたについてゆきたくても、それができないのです」と断る立場で した。「私には妻も家庭も、仕事もあり、病気のしゅうとめもいるのです。あなたの弟子にな りたくても、それはできません」と答えても不自然ではなかったのです。しかしペテロは、そ れらのいっさいを「捨てて」主イエスに「従った」のでした。自分をその“あるがまま”に招 きたもう主イエスの召しに、ペテロは全てを委ねたのです。そこに「信仰」による決断があり ます。  私たちは主イエスの御声を聴くとき、いつも自分の中にたくさんの“言い訳”を持っていま す。「主よ、ちょっと待って下さい、私はまだあなたに従う準備ができていません」と私たち は言うのです。「この仕事を片付けてから」「この問題を解決してから」「この病気が治ってか ら」「この重荷が無くなってから」と条件をつけるのです。要するに私たちは、たいていの場 合、主イエスの招きに対して条件を付けるのです。“あるがまま”の自分を主に委ねるよりも、 自分で勝手に“相応しい”自分に「ならねばならない」と条件を付けて時間稼ぎをするのです。 その“相応しい”自分にはいつまで経ってもなれません。自分の資格や相応しさだけを見ると き、私たちは主イエスの招きを断るほかはないのです。しかしペテロは違いました。同じマタ イ伝4章18節以下には、ガリラヤ湖畔における主イエスの招きの出来事が次のように語られ ています。「さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、 ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。 彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、 人間をとる漁師にしてあげよう』。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った」。  ペテロは、人間としては、たくさんの弱さや欠点がありました。主イエスにいちばん多く叱 られたのはペテロでしょう。しかし彼は、主が自分をお招き下さったとき、その御声に「すぐ に網を捨てて」従ったのです。「網」は漁師の生命です。それをも捨てたということは、自分 の資格や相応しさではなく、ただ招きたもうキリストのみを見ていたことです。あとのことは 主が解決して下さる、主が自分を支え導いて下さると、ただ主の御手に自らを委ねたのです。 熱病の「しゅうとめ」のことが気がかりでなかったはずはありません。しかしペテロは、それ をも主の御手に委ね、ただ“あるがまま”に主の御声に従ったのです。  私たちの教会生活(信仰の生活)にも、同じことが言えないでしょうか。私たちは複雑な人 間関係や世間のしがらみの中で、それこそ無数の“言い訳”を主に対して持つことができます。 主イエスの招きを断る理由に事欠かない私たちです。信仰とは、まさにその“言い訳”をも全 て主の御手に委ねて“あるがまま”のこの自分を、主が選び招いて下さった恵みを喜び信じて 従ってゆくことです。そこに私たちの思いを超えた“救いの出来事”が起こるのです。主がそ こに天国の祝福と幸いとを現わして下さるのです。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そ うすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)  今朝の御言葉のどこを読んでも、ペテロの「しゅうとめ」が主イエスに助けを求めたという 言葉は見当たりません。むしろこの「しゅうとめ」から見るなら、主イエスは「娘婿を誑かそ うとする不届きな怪しい人物」でした。娘婿のペテロが主イエスの弟子になれば、生活の保障 はどうなるのでしょうか?。しかも自分は重い熱病に苦しんでいます。思い煩いが山のように あります。自分ではどうにもなりません。まさにこの熱病の「しゅうとめ」のもとに主イエス は来て下さいました。「救い」とは、私たちの願い求めを超えて、神ご自身が私たちの最も必 要とするものを与えて下さることです。私たちは聖書の言葉のあまりの単純さに驚きます。主 の恵みの御手がストレートに私たちに触れて下さるのです。15節をご覧ください。主はペテロ の「しゅうとめ」の「手に」触られたとあります。手を取って下さったのです。普通なら、熱 病の人の額に触れるでしょう。しかし主が「しゅうとめ」の「手」を取って下さったというこ とは、熱に浮かされ宙を泳ぐ彼女の「手」(つまり彼女の全存在)を主が受け止めて下さった ことです。そして彼女が必要とする本当の「救い」を、罪の贖いと赦しを与えて下さったこと です。それこそ本当の「癒し」なのです。単なる肉体の癒しに止まらない、真の神への立ち帰 りです。それこそ、商品である魚を取ることではなく、人間の魂をすなどること(神へと導く こと)です。だから、それはただ「癒された」という事柄にとどまりません。驚くべきことが 起るのです。「そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエス をもてなした」。  主イエスの御手によって「しゅうとめ」の熱はたちまち取り去られました。それは文字どお り、この「しゅうとめ」を苦しめていた「熱病」が主イエスによって吸い取られた出来事でし た。主イエスの後ろからそっと御衣のふさに触った、あの「長血」を患う女性のように「しゅ うとめ」自身が自分から熱が去ったことを感じたに違いありません。それは「この私を苦しめ ていた『熱病』を、主が私のために担い取って下さった」という「救いの出来事」でした。そ の「熱病」の正体を、聖書は「悪霊」と語っています。これは私たちの「罪」のことです。単 なる肉体の病のことではないのです。「罪」は人間を支配し、さまざまな症状を現わします。 数で言うなら、罪の症状は肉体の病気の数を遥かに上回るのです。夥しい人々が「救い」を必 要としています。だから16節以下を見ますと「夕暮れになると、人々は悪霊につかれた者を 大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことご とくおいやしになった」と記されています。イスラエルでは「夕暮れ」が一日の始まりでした。 それを待つように人々が主イエスのもとに「来た」というのは、ペテロの「しゅうとめ」の癒 しが「安息日」に行われたことを示しています。そして17節には「これは、預言者イザヤに よって『彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた』と言われた言葉 が成就するためである」と告げられているのです。  どうか覚えましょう。主イエス・キリストはまことに「安息日の主」であられます。礼拝に よって全ての栄光を帰したてまつられる、真の神の独り子なのです。この主が「み言葉をもっ て霊どもを追い出し…」たもうのです。神の言葉のみが、私たちを罪の支配から贖い、救いを 与え、新たにするのです。いまは「癒し」が流行する時代です。しかし人間を真に癒しうるか たは真の神以外にありません。人間が与える「癒し」はどんなに巧妙なものでも、肉体の健康 を少しのあいだ支えるに過ぎず、人間の要求を満たすものにすぎません。しかし主イエスが御 言葉(十字架の出来事)によって与えて下さる「癒し」は、肉体の治療を遥かに超えた本当の 健やかさを私たちに与えます。「罪」によって神との関係を失い、神の前に死んでいた私たち に、十字架の主のみが新たな生命を与えて下さいます。私たちの名を呼んで神に立ち帰らせて 下さいます。それを聖書は「永遠の生命」と呼ぶのです。パウロの言葉で言うなら「イエス・ キリストによる神からの義を受けて、キリストの内に自分を見いだすようになること」です。 それを保障するものが聖霊であり、また聖霊がお建てになった教会です。生命には身体があり ます。教会はキリストの身体であり、私たちはただ恵みによって主に癒され、キリストの身体 なる教会に連なる者とされているのです。  このような「救い」を本当の「癒し」として受けた「しゅうとめ」が「起きあがってイエス をもてなした」のは当然ではないでしょうか。それは彼女がただ“病気を癒された感謝をあら わした”ということではなく、自分を支配していた「罪」を担い取って下さった主イエスを“救 い主・キリスト”と信じ告白して、そこに主に仕える共同体(信仰の群れ)が建てられていっ たことです。私は25年ほど前に、カペナウムのペテロの家の跡を訪ねたことがあります。本 当に小さな家です。真鍮のプレートに4ヶ国語でこう記されていました「ここに世界最初の教 会が建てられた」。だから「しゅうとめ」がイエスを「もてなした」と訳された元々の言葉は 「主に仕えること」を意味する“ディエーコネイ”というギリシヤ語です。「執事」という言 葉の語源にもなりました。ペテロの「しゅうとめ」は「いそいそと」して「主に仕える」人に なったのです。そこに世界最初の教会が建てられ、多くの人々が主の祝福のもとに招かれたの です。その同じ祝福に、神の御業に、私たちの葉山教会も連なり、私たちもあずかっているこ とに、主の御業の尊さを思わしめられるのです。  マタイは旧約のイザヤ書53章(特に4節)を引用することによって、まさに「わたしたち のわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」主イエスのお姿をはっきりと示します。実 に主イエスは、私たちの罪の病を、その滅びもろともに、ご自身の身に引き受けて下さいまし た。私たちの、神に対する罪の責任を、主みずから引き受けて下さり「贖いの献げもの(イザ ヤ書53章10節)としてご自身を献げられ、十字架に死んで下さったのです。ここに、私たち を救う神の、深い壮絶な愛があります。  一人の姉妹が、病気で寝たきりの身体になりました。家族を愛するその姉妹にとって、不自 由になったことは耐えられない辛さでした。しかしその苦しみの中で、彼女が語ってくれた言 葉が忘れられません。「先生、わかりました」と言われるのです。「この私を、十字架の主が、 下から支えていて下さるのですね」。そして姉妹は感謝の祈りを献げられたのでした。熱病の しゅうとめを癒して下さった主の恵みが、救いが、そこにも輝いていました。たとえ寝たきり になっても、感謝の中で十字架の主に自分の“あるがまま”を委ね、そして教会のため、主の 御業のため、全ての人のために、祈る喜びの奉仕が与えられているのです。たとえ肉体の病が 癒されなくても、否、癒されない病の中で苦しむ人にこそ、主イエスの御手がたしかに差し伸 べられているのです。それは私たちを「罪」という「悪霊」から贖って下さった十字架の主の 恵みです。そして主イエスの「み言葉」(十字架の出来事)が、あらゆる「悪霊」の支配から、 私たちを堅く守り、支え、御国に導いて下さるのです。本当の「癒し」(救いの喜び)を与え て下さるのです。この主の救いの御手に、私たちみずからを大胆に委ね、私たちもまた「起き あがってイエスをもてなす」者とならせて戴きたいと思います。